第25話

エレベーターを降りて、ふと気が付いて、祖母のお財布の中身を確認しました。お財布の中身は、千円札が二枚、それに僅かな小銭、それだけでした。

当然のことですけれど、外は完全に真っ暗になっていました。病院の夜間通用口を抜けて外に出て、どうやって帰ろうって思って、取り敢えずは家の最寄りのバス停までの経路を調べようとして、ダッフルコートのポケットからスマートフォンを取り出した時でした。病院の正面の車寄せにタクシーが一台停まって、ドアが開くのが私の目に入りました。

私は反射的に駆け出して、降りて来るお客さんと入れ替わるようにタクシーに乗り込んで、運転手さんに、自宅まで帰りたいこと、手持ちが二千円しかないっていうことを、ほとんど捲し立てるように訴えました。

人の良さそうな運転手さんは、家の大体の場所を訊いた後で、「大丈夫です。そちらまでなら、二千円で充分お送りできると思います。もし不足するようなら、お家に着いた後でお支払い頂ければ結構ですから」って言ってくれました。私、何だか訳もなく胸が一杯になって、よろしくお願いしますって頭を下げました。

走り出したタクシーの中で、運転手さんに、すみません、私ちょっと携帯電話を使っても良いですか?って尋ねました。運転手さんの了解をもらって、私はLINEのアプリを開きました。

余所のお教室の事情は分かりませんけれど、うちの…祖母の教室では、連絡用として、LINEのグループ機能を使っていました。…ええ、私のアイデアです。祖母は最初「何だか味気ないねえ」って言っていましたけれど、そのうちに「なかなか便利なもんだねえ」って言うようになっていました。

私はそこに、祖母の具合が悪くなったこと、取り敢えず二週間ほどお休みを頂くことを、できるだけ簡潔で分かりやすい文章を考えながら打ち込みました。私の独断で、祖母には申し訳ないって思ったんですけれど、いざとなれば自分一人が怒られれば良い、って開き直ることにしました。

それから、そのグループのメンバーではないお弟子さん、…やっぱりご年配の方だと、スマートフォン自体持っておられない、っていう方もいらっしゃるんです。全体から見れば少数派ですけれど…。そういう方をアプリの電話帳からピックアップして、片っ端から連絡して、LINEに打ち込んだのと同じことをお伝えしました。

皆さん、まるで判で押したみたいに、揃って事情を知りたがられましたけれど、私は、申し訳ありません、夜遅いですし、次の方にご連絡しないといけませんから、って切り上げました。これはまんざら言い訳っていう訳でもなくて、スマートフォンの時計はもう午後八時をとっくに過ぎていましたから。

最後の方に連絡を終えて、やっと一息ついて、ずっと持って歩いていたビニール袋の中から、自分の分のお茶のペットボトルを取り出して、残りを一気に飲み干した時、車が見覚えのある路地に入ったのが分かりました。

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