第2話

 リンツェンの住まう村は、取り立てて目立つもののないごく普通の村落だ。行商人が来ることはあっても、個人の旅人が訪れることは滅多にない。そのため、例の旅人は必然的にリンツェンの家に泊まることとなった。彼は一休みするだけで良い、と言ったが、既に日が暮れかかっている状況で放り出す訳にも行かない。家長である父が快く一泊を許したこともあり、旅人は一晩だけ一つ屋根の下で寝泊まりすることとなった。

 彼には、他の村に嫁いだ姉が使っていた部屋が宛がわれた。久しく物置になっていたが、大したものは置いていない。姉たちの私物は彼女らと共に旅立ったので、片付けるのは容易だった。

 旅人は、異国の人のように見えた。柔らかく波打った赤毛に、既に少し見えてはいたが白い肌。瞳の色は何とも不思議で、片方は髪の毛と同じ真紅、もう片方は吸い込まれそうな程に鮮やかな青──晴れた日の空に似ている──をしていた。

 この時点でも、彼の性別はわからないままだった。何となく男性かな、とリンツェンは思っていたが、途端に不安が押し寄せてきた。もしも女性で、勘違いしたために不快な思いをさせてしまったらどうしよう、と。

 旅人は性差の壁そのものを取っ払ったような美貌の持ち主で、とにかくその顔立ちが綺麗なことしか語れない。便宜上『彼』とするのは、最後の最後まで彼自身が性別を明かさなかったが故である。


「旅の方は、何処を目指しておいでで?」


 共に夕食を囲んだ折、父が朗らかにそう尋ねた。リンツェン以外は、旅人の行き先を知らないのだ。皆、恐らくは東に進むのだろうと考えていたにちがいない。彼は見るからに西方の人間といった出で立ちをしていたからだ。

 この問いかけに、旅人はリンツェンにしたのと同じように答えた。太陽に最も近い場所を目指している、と。一言一句変わらず、定型文のように。

 誰もが顔を見合わせた。リンツェンでもわかることだ。旅人がどれだけ無茶な道行きを選ぼうとしているのか、わからぬ大人はいなかった。

 父はやんわりとした口調で、旅人を止めた。危ないから止しておきなさい。若気の至りで、取り返しのつかない結果を招くかもしれないよ──そのように言って聞かせたが、旅人は相変わらず己の意思を曲げるつもりはなさそうだった。結局のところ父は折れたようで、とにかく今日は体を休めていきなさい、と悲しそうな、失望したような顔をして締め括った。穏和だが頑固な父を言い負かすなんて、この旅人はなかなかの胆力の持ち主なのだな、とスープすすりながらリンツェンは事の成り行きを見守っていた。


「あの旅人は山に魅入られてしまったのだろうね。可哀想に」


 洗い物を手伝いに旅人が席を外した途端、いつもはほとんど放さない祖母が急に口火を切った。その場にいたリンツェンと姉は揃って驚き、どうしたの、と口々に呼び掛けた。


「おばあちゃん、山に魅入られたって、どういうこと?」

「そのままの意味だよ。霊峰は偉大であるが故に、人々を魅了する。それに引っ掛かっちまった者は、たとえ分別のつく性質であったとしても上手くものを考えられなくなってしまう。満足するまで、誰にも止められんよ」


 そうかなあ、とリンツェンは首をかしげた。

 たしかに、白雪に覆われた険しい山々の頂上まで行くのだと言われた時は気が狂っているのではないかとさえ思ったが、旅人に感情のは見受けられなかった。彼は何処までも冷静で落ち着いていながら、途方もない場所を見据えている。単に気が触れたのとは、違った雰囲気があるように思えた。

 そうこうしているうちに、祖母はむにゃむにゃと船を漕ぎ始めている。あーあ、と仕方なさそうに肩を竦めた姉が毛布をかけてやり、声を落として言った。


「何にせよ、あいつがいるのは今日だけよ。あたしたちからは離れた部屋だし……きっと大丈夫よ」

「……何か、心配なことでもあるの? 発言はともかく、立ち振舞いに変なところはないし、むしろいい人だと思うけど」


 相変わらず警戒心を隠そうとしない姉に眉を潜めてみれば、ばかね、と一言罵られた。それ程きつい言葉ではなかったが、納得がゆかずリンツェンは唇を尖らせる。


「あのね、リンツェン。あんた、クルパのじい様から聞いた昔語りを忘れたの?」

「色々聞いたから、全部は覚えてないよ」

「ばかね」


 また繰り返す。リンツェンはさらに不満げな顔になった。


「よく聞かせてくれたじゃない、南方の魔物の話。南の海に浮かぶ島には、髪の毛が真っ赤な鬼が住まう──って。そいつらは人間を惑わして食うそうよ。あんた、怖がってダワ姉さんの布団に潜り込んだことあったのに、もう忘れちゃったの?」

「それは忘れてないけど……でも、姉さんはあの人を魔物だと思ってるの?」

「だって変じゃない。発言も見た目も。あんな姿の人、見たことがないわ。それに……一目見た時、思ったの。あいつはただの人間じゃないって」


 囁く姉の目は真剣そのものだった。普段はお化けなんて、と鼻で笑っているような人なのに、一体どうしてしまったのだろう。


「それは姉さんの所感でしょう。どうしちゃったの、本当に。姉さんらしくないよ」

「だって本当のことなのよ。あいつは誰にでもあるような、人特有の匂いがしないの。それに、あんたと話している時も、あんたじゃなくて、何処か遠くを見つめているみたいだった。何もかもが不気味なのよ。違和感しかないの。どうしてわからないのかしら」

「落ち着いてよ、姉さん。たしかに、ちょっと浮世離れした人ではあるけれど……でも、私たちと同じご飯を食べていたし、歯も尖っていなかった。それに、南方の魔物は髪の毛こそ赤いけど、肌が真っ黒って特徴もあるでしょう? あの人の肌は其処まで黒くないよ。当てはまることもあるけれど、全部が全部魔物の条件に当てはまってる訳じゃない」


 考えすぎだよ、とリンツェンは姉を宥めた。


「滅多に来ない旅人に部屋を貸すってなって、緊張してるんじゃない? 今日は早めに寝なよ、変なことばかり考えていたら、心が疲れちゃう」

「…………そうね。そうかもしれない。でもやっぱり不安なのよ。あいつは、普通じゃない。あたしたちが知っているはずの山の恐ろしさを知っていながら、それでも踏み込もうとしている……そんな気がするの。だからあたし、怖くて怖くて仕方ないのよ。あんたがそんな調子だから、余計に」


 何も起きないと良いけどね、と呟いて、姉は身震いしながら足早に去っていった。やっぱり、いつもの姉とは違う。

 リンツェンはぼんやり佇みながら、考えた。

 あの人は、姉が言う通り人ではない、恐ろしいものなのだろうか。それとも、祖母の言うように、山に魅入られてしまった哀れな人なのか。

 どちらでもない。どちらも、あの旅人にはそぐわない。

 何故そのように思ったのか、思うことができたのか。リンツェンにはわからない。ただ、あの美しい旅人は、自分たちが思い付くような理由で太陽に近付こうとしているのではないのだと、本能のようなものが告げていた。

 彼は裁きを受けたいのだ。太陽の側で、そうされるのが相応しいと思っているのだ。

 細々とした支度を済ませて、寝床に入っても、リンツェンは理由を思い付くことができなかった。いつも夜更かししている姉は寝入ってしまったのか、物音ひとつ聞こえてこない。不思議な旅人よりも、静かな姉の方が不気味だと思うのは、自分だけだろうか。

 どうしても目が冴える。布団の中でもぞもぞ動いているのは退屈で、言い様もないむかむかとした気分が募るばかりだ。

 プージャを飲もう、と思い、寝床から出る。足音を忍ばせて台所に向かい、夕飯の時の残りを温め直した。ヤクの牛酪バターと塩を入れたこの飲み物を、リンツェンは小さい頃から好んで飲んでいる。まだドンモの使い方は教えてもらえないから、自分で作ることはできない。

 さて器に注ごう、と意気込んだところで、かたんとかすかな物音がした。何事かと思い振り返ってみれば、玄関の扉が今に閉まるところだった。

 あの旅人だ、と直感的にわかった。

 茶壺と二つの器を持って、リンツェンも外に出る。こんな夜更けに外へ出たことはなかったので、寒さに思わず身震いした。上着を持ってくるべきだったと、今更ながら後悔する。


「──お前は」


 だが、旅人を見失うことはなく、こちらを振り返って僅かに目を見開いた彼を見つけることは容易だった。

 初めて出会った時と全く同じ格好をした彼は、足音もなく近付いてくる。姉が不気味に思うのは、静かすぎるからではないだろうか──と此処でひとつ気付いた。姉は賑やかな人だから、沈黙や静寂があまり好きではないのだ。

 旅人は羽織っていた外套を脱ぐと、躊躇いなくリンツェンの肩にかけた。作り物のような容貌をしている彼だが、体温はあるようだ。外套はほんのりと温かかった。


「こんな夜更けに出てきては、風邪を引いてしまう」

「じゃああなたは風邪を引きたいの?」

「そういう訳では……」


 反射的に返せば、旅人はもごもごと困ったような顔をした。無表情以外にもできるのだと思い、何故だか安堵してしまう。

 彼はすとんと腰を下ろして、茶壺を手に取った。二つあるうち片方の器にプージャを注ぎ、ほかほかと立つ湯気を眺めながら言う。


「夜逃げするつもりはない。少し、外の空気を吸いたかった」

「そうなんだ。でも、勝手に出ていくのは良くないよ。私でも誰でも、声をかけて欲しかったなあ」

「すまない。気を付けよう」


 彼は何処から持ち出したのか、はたまた私物なのか──手燭を側に置いていた。仄かな灯りだが、旅人の顔色を窺うには十分であった。

 リンツェンも腰を下ろし、プージャをちびちびと飲む。甘くなさすぎない味わいが良い。柔らかな熱が、腹の底に溜まっていくような感覚も好きだ。


「……見た目よりは、甘くないのだな」


 旅人も嫌いな味ではないのかごくごくと飲んでいたが、ややあってからそう口にした。ほう、とひとつ息を吐き出して、揺れるプージャの表面を見下ろす。

 甘くない方が良かったか、と純粋な疑問から問いかける。だが旅人は僅かに申し訳なさそうな色を瞳に宿して、そういうことではない、と否定した。


「弟が甘党なんだ。だから、あいつが飲んだら、渋い顔をするだろうなと思って……単なる、独り言のつもりだった」

「弟がいるんだ」

「ああ。真面目で不器用で優柔不断で、よく悩む奴だった。舞踊が得意で、宴があればたまに踊ってくれた。俺には素直じゃなかったが、根は良い子なんだ。だから彼是あれこれと悩んで、苦しんでしまう。それでも賢くて、聡明で、優しい子だったから、決して少なくない人々に愛された。……あいつ、本当に可愛かったよ」


 少し前に死んだんだ、と旅人はこぼした。


「長く生きられないことはわかりきっていた。それを承知で、共にいたいとわがままを言ったんだ。弟には、迷惑ばかりかけたきたから、その埋め合わせがしたかった。……それ以上に、いっしょにいたかった」

「弟のこと、大好きなんだね」

「そうかもしれない。唯一の肉親だったから、単に執着していただけ……という線もあり得る。それでも、俺は、弟が好きだ。今でも、きっと死ぬまで、ずっと」


 ささやかな夜風が、旅人の赤毛を揺らす。彼はゆるりと顔を上げて、澄みわたる星空に視線を遣った。


「弟が早死にしなければならなかったのは、俺のせいだ。俺がもっと上手くやっていれば、弟をもっと長生きさせてやれたかもしれない。……弟だけじゃない、俺の気が利かないせいで、たくさんの者に迷惑をかけた。死なせることもあった」


 それは独白だ。リンツェンが入る余地はない。

 それゆえの贖罪が必要なのだ、と旅人は言った。太陽の側で、裁かれねばならないと。


「俺の不徳を知る者は、皆遠くに行ってしまった。弟でさえ……最期に住んでいた、縁もゆかりもない集落に埋葬されている。俺が生きることで、生涯その罪業を忘れさせぬつもりでいるのだろう。だから、俺の罪は、俺自身で片付けねば。俺を裁けるのは、太陽をおいて他にはいまいよ」

「……それは、ずっとあなたを見てきたから?」


 否、と旅人はかぶりを振った。


「今の今まで、見ようとしなかったからだ」


 暗がりでもわかった。

 旅人が、微笑んでいる。

 柔らかい笑みだった。悲しげな笑みだった。虚ろな笑みだった。質量のある笑みだった。透明な笑みだった。

 そしてその向こうに、リンツェンが知るべきではないがあった。

 立ち上がる彼の背中は、皆が恐れる霊峰に似ていた。彼ならば、人の情を持つ彼ならば、山々に飲み込まれない──そう、何の根拠もなく、リンツェンは確信する。

 結局、プージャは飲みきれなかった。残ったものは、明日以降に飲むこととなるだろう。膜が張ったら嫌だなあ、と誰にでもなくリンツェンは思う。

 旅人は約定通り、そのまま夜逃げすることはなく、朝日が昇りきった頃合いに村を出た。姉は目に見えてほっとしていたし、父は旅人の行く末を案じていた。


「太陽へ近付くつもりなの?」


 頭巾を被ろうとする旅人に、リンツェンは何気なく尋ねた。彼が出立するほんの少し前──朝食を食べ終わった頃のことだった。

 彼は出会った時と同じように、何度か瞬きをして──そして、ああ、と表情を綻ばせた。其処に、昨夜のような悲哀は見受けられない。


「罪をききらねば、弟と同じところには行けぬのでな。けじめを付けておきたいんだ」


 そっか、とリンツェンは微笑み返した。彼がどのような罪を背負っているかはわかるはずもなかったが、山へ登ることで命を故意に落とそうとしているのではないことはよくよく感じ取れた。

 山とは聖域である。何処へ行くのかは旅人の思惑次第だが──きっと、最も高いところへ行くのだろう。そうして、誰も足を踏み入れたことのない、唯一の清浄な場所で──彼は太陽の裁きを待つのだ。

 さようなら、と手を振った。旅人はふと振り返って、眩しそうに目を細めながらうなずいた。

 白い山肌に、澄みきった青い空。嗚呼、彼に──いや、彼が、だろうか。よく似た美しさだと、リンツェンは手で作ったひさし越しに笑った。

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太陽に最も近い場所 硯哀爾 @Southerndwarf

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