第3話 気持ちの伝え方

 今年はスペインのバルセロナでオリンピックが行われている。

 正樹はアルバイト先のスーパーに到着し、更衣室で制服に着替えていたその時、室内のテレビで、アメリカのバスケットボール選手全員が頭をスキンヘッドにしたというニュースを目にした。アメリカは先日の試合で日本と対戦し、勝ったと思われた試合が後に審判の判断で敗戦と認められた。その判断に抗議するため、スキンヘッドにしたとのことであった。


「怖いなあ。ここまでやるプライドや執念深さは日本人にはないもんなあ」


 正樹は震え上がりながら仕事場へと向かった。

 今日も早い時間から客が多く、正樹はレジ打ちの応援に回ることになった。正樹は次第にレジでのスキャン機能を使いこなせるようになり、以前のように立ち止まって手入力するようなことも無くなってきた。これで周りからも少しは戦力として認めてくれるようになったかな?と鼻高々であったその時、一人の客がかごをレジ台の上に載せ、その中から野菜を取り出し、正樹の前に差し出した。


「あの、この野菜、何かしましたか?」


 すると客は値札を指さしながら、日本語ではない言葉で何やら必死に訴えていた。

 見た目は日本人のような髪と肌の色なのだが、他国から来た人のようだ。


「アー、アイドンノウ、ユーセッド ソー プリーズギブミーイットアンドチェックイットアゲイン」


 正樹は必死に片言の英語で話しかけた。すると客は不服そうな顔で野菜を正樹に手渡した。正樹はスキャンが終わると、客は正樹を横目で睨みながら代金を払い、通り過ぎて行った。


「何が不満なんだろう?」

 正樹は腑に落ちない顔をしながら、次の客のかごの精算をしていた。

 その時突然、真奈美が正樹の目の前に現れ、そっと手招きした。次の客の精算を終え、レジ打ちを中断すると、正樹は真奈美に導かれるように店の隅の方へと歩いていった。


「さっき、中国人のお客さんが来てね。あなたの対応について文句言ってたわよ」

「ええ?何が不満なんですか?僕にはあの人の言いたいことが全然伝わらなかったんですけど」

「セール品なのに値札が定価のままになってるって」

「そんな!だったらちゃんと片言の英語でも何でもいいから、そう言えばいいのに」

「自分の言葉が相手に伝わらず、英語でぶっきらぼうに返されたことが腹が立ったって言ってたわよ。この辺りは大学も多いし、留学生で他国から来てる人も多いから、私たちも外国人のお客さんには結構神経質になってるのよね」

「そ、そんなこと言われても……」

「とにかく、もしコミュニケーションに詰まったら、一呼吸おいて慎重に対応してね。わかった?」


 真奈美はそれだけ言うと、自分のレジへと戻っていった。正樹はいまいち納得がいかない表情で、真奈美の後ろ姿を見届けていた。


「くそっ。言いたいことがあるならちゃんと言えばいいのに」


 アルバイトの帰り道、正樹は浮かない表情で一人とぼとぼと地下鉄のホームを歩いていた。ホームには、数人ながら外国人と思しき人達の姿があった。確かに大学が林立し、留学生が多い土地なのかもしれない。だからと言って、自分の言葉が通じないのことをクレームで出すのは納得が行かなかった。

 ホームに到着した電車に乗り込むと、正樹はいつものように席に座り、足を組んで到着までしばらく眠ろうとしていた。電車が次の駅に到着した時、正樹の目の前に背の高い金色の髪の男性が立ち、リュックサックからおもむろに何かを取り出すと、そっと正樹の目の前に差し出した。


「Excuse me. Teach me by using this map. Which is the nearest station to reach this department?」


 突然地図を見せながら流暢なネイティブイングリッシュで尋ねられ、正樹は何も言葉を返せずたじろいでしまった。大学で外国人の先生から英語の授業は受けているけれど、話すスピードはもっと緩やかだし、一つ一つの言葉をはっきりと話してくれる。しかも地図は全て英語表記で、どれが正しいのか正樹にはとっさに判断できなかった。


「アー、アイドンノウ、ソーリー」

「What?」

「ア、アイ……アイドンノウ、エニイシング」


 正樹がそう答えると、金髪の男性は頭を抱えて横を向いた。おそらくこの地図上のどこかに行きたいのだろう。しかし、正樹にはさっぱり聞き取れなかった。


「You have to get off next station.」

「え?」


 男性の後ろから、誰かが流暢な英語で何かを教えていた。正樹は男性の真後ろをそっと覗き込むと、そこには千夏の姿があった。


「千夏さん!」


 千夏は男性の前に立つと、地図を指さしながら英語で語り掛けた。男性はうなずきながら、納得した様子で地図を折り畳んだ。

 次の駅にたどり着くと、男性は親指を上げ、千夏に目配せしながら「Thank you so much.」と言い残し、ドアの外へと歩き去っていった。

 千夏は笑顔で手を振って見送ると、正樹の方に向き直り、両脚でぴょんと跳ねながら正樹の隣に腰掛けた。


「こんにちは、今日もまた会いましたね、正樹さん」

「すげえ!千夏さん、今全部英語でやり取りしてたよね?」

「まあ、そうですね。一応少しは話せるんで」

「そんな、少しどころじゃないでしょ?」

「お父さんの仕事の都合で、中学の頃二年間外国暮らしをしてたの。英語はそのときちょっとかじった程度かな。あと、大学で英文学を勉強したくて、英語に力を入れて受験勉強してるっていうのもあるけれどね。今日も、夏期講習に行ってきたんですよ」

「へえ、千夏さんってバイリンガルなんだ」

「まあ、堂々と言える程じゃないですけどね」

「俺なんか外国人とのコミュニケーション、全然だめだよ。さっきも全然相手の言葉が分からなかったし、バイト先でも……」


 正樹は、今日のアルバイトで起きた出来事を千夏に話し出した。


「ハハハ、それはどっちもどっちって感じですね」

「どっちも?どう考えても相手が悪いじゃん。中国語しか話せないなら、ちゃんと俺に自分の言いたいことを身振り手振りでもっと懸命に伝えるべきだと思うよ」


 正樹がそう言うと、千夏は「うーん」と唸りながらも、絞り出すように言葉を口にした。


「でも、なかなか伝わらないこともあるんだよね。そしてお互いにもどかしい思いをするというか」

「そう?だったらなおさら必死に伝えようと努力すべきでは?」

「正樹さんも、必死に自分の言葉を伝えようとしていた?相手にばかり求めてちゃダメだよ。お互いに伝えようとしなきゃ、コミュニケーションって成り立たないと思うから」

「まあ、そうだけど……」

「でしょ?」


 千夏は横長の目を大きく見開き、「当然」と言わんばかりの表情で正樹を見ていた。その時見せた千夏の大きな瞳は、吸い込まれそうな位透明で澄み渡っていた。

 そして今日の千夏はノースリーブのセーターにショートパンツを着こみ、洋服の裾からは、これまで見せなかった白く美しい肌を覗かせていた。

 正樹の胸は、突然高鳴り始めた。


「だ、だったら俺は千夏さんに、どうしても伝えたいことがあるんだ」

「え?なあに?」


 正樹は胸を押さえながら、きょとんとした表情で正樹の顔を覗き込む千夏に向かって、体の奥から振り絞る様に声を出した。


「俺はこうして千夏さんと話してる時がすごく楽しいんだ!バイトでの悩みがすごく馬鹿馬鹿しく感じてしまうくらい、楽しいんだ!だから俺、これからも千夏さんともっと話したい。電車の中だけじゃなく、町の中でも、カフェでも、カラオケでもいい。一緒に色んなことを話したいんだ!だから、だから……」

「……」

「俺と連絡先を交換してもらいたいんだ!今日はたまたまこうして出会えたけど、次はいつ会えるか分からない。それってすごく不安だし、寂しいし……」


 千夏は驚いた表情でじっと正樹の顔を見つめていた。その表情は、いつもの元気で芯の強い千夏ではなく、何かに怯えているかのように見えた。


「ごめん、俺、余計な事言っちゃったかな?」


 正樹は謝ったが、千夏は首を左右に振って微笑んだ。


「ありがとう。正樹さんの素直な気持ちを聞けて、すごく嬉しい。私ももっと正樹さんと話したいし、一緒にどこかに出かけたい。そして、またいつか会いたいって思ってる。でもね」

「でも?」

「私は正樹さんとは電車の中でしか会えない。他の所では会うことができないの」

「ええ?そ、それってどういうこと?」

「ごめんなさいね。その理由は、聞かないでほしい」


 千夏は正樹から目を逸らし、少しうつむきながら無機質な色をした電車の床を見つめていた。正樹は自分の問いに答えようとしない千夏に腹が立ち、声を荒げた。


「何で?さっき俺に言ったよね?相手にばかり求めず、お互いに伝え合わなくちゃだめだろうって」

「それはそうなんだけど……ホントにごめんなさい。あ、そろそろ私が降りる駅に着くみたい。じゃ、またいつか会おうね」


 そう言うと、千夏は席から立ち上がり、開いたドアを急ぎ足で通り過ぎて行った。


「千夏さん!」


 正樹は立ち上がり千夏を追いかけようとしたが、またしてもドアが目の前で閉まった。それでも正樹はドア越しに声を上げた。


「千夏さん!俺は、俺は……千夏さんとずっと一緒に居たいんだ!」


 ドア越しに大声を上げる正樹の後ろ姿を、周りの乗客が心配そうに見つめていた。


「怖くない?あの人……」

「超ヤバそう、頭大丈夫なのかな?」


 後ろの座席にいた女子大生のひそひそ話が耳に入り、正樹はようやく我に返った。

 ドアの外を覗くと、千夏が群衆をかき分け走り去っていく様子が見えた。まるで何かから逃げ去っていくかのように、必死の形相で走り、やがて正樹の視界から消えてしまった。


「どうして?どうしてずっと一緒になっちゃいけないんだよ……?」


 正樹は千夏への偽らざる気持ちを伝え、千夏にその気持ちが届いたけれど、それでも二人を隔てようとするものがあるようだ。それが何なのかは分からないけど、結果として正樹は、千夏に再び会えるかどうかわからない不安をこれからも抱き続けなくちゃいけないのは確かだった。

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