第2話 もっと話したかった

 夏休みに入り、正樹はスーパーでのアルバイトの回数を以前の週一回から週三回へと増やしていた。あまりの仕事の出来の悪さに店長もあきれ果て、先日仕事が終わった時に呼び出されて「夏休みに入ったら暇なんだろうから、出勤回数を増やしなさい。そして早く仕事を一人でこなせるようになりなさい」と忠告されたからだ。

 相変わらずレジの仕事が中心だったが、最近は品出しや商品の陳列も手伝うようになった。

 ある日、正樹は通路にしゃがみこんで缶詰の陳列をしていた。今日のBGMは中島みゆきの「浅い眠り」。ドラマの主題歌であるが、先日中島本人もドラマに出て驚かされた。BGMに合わせて歌を口ずさみながら陳列作業を続けていたその時、後ろから小学生ぐらいの子どもを連れた若い母親が、正樹の目の前で立ち止まった。


「すみません。ホットケーキミックスはどこで売ってますか?」


 いきなり質問された正樹は、頭を抱え込んだ。先日、先輩の真奈美とともにすべての売り場を見て回り、どこに何が陳列されているのか点検して回ったばかりなのに、いざ質問されると、答えに詰まってしまった。

 その時正樹は、おぼろげながら、先日天ぷら粉がどこにあるのか聞かれたことを思い出した。ホットケーキミックスも天ぷら粉と同じで粉だから、多分同じ棚に陳列されているに違いない。


「た、たぶん、この後ろの列になるかと思います」

「この後ろですか?」

「はい。多分ですけど」

「『多分』って……まあいいです。自分で見てみますから」


 女性はいまいち納得しない様子で、正樹に指示された棚へと子どもの手を引きながら歩いていった。正樹は女性が一応は納得したように見えたので、後を追わず再び陳列の作業を始めた。その時、真奈美がレジから飛び出し、正樹の前で立ち止まると、他のお客さんに聞こえないよう小さな声で話しかけてきた。


「ちょっと、添田さん。さっきお客さんにクレーム出されたわよ。『間違った売り場を教えられた』って」

「え?だって、天ぷら粉が打ってる所にホットケーキ粉も陳列されてるんじゃないんですか?」

「あのねえ、ちゃんとチラシ見た?うちのお店では今週はホットケーキミックスを特売コーナーでいつもより安くして売ってるの。だからホットケーキミックスを買いに来てるお客さんも多いのよ。ちゃんとチラシを読んでおくのと、特売品がどこで売ってるか位ちゃんと覚えておいてくれる?」


 そういうと、真奈美は早足で再びレジへと戻っていった。

 その背中を見て、正樹は額に手を当てて「ちくしょう」と小声でつぶやいた。せっかく真奈美が丁寧に陳列棚を教えてくれたのに、きちんと覚えていないこと、そして機転が利かず、お客さんのニーズを的確に読み取れないこと。そのことがもどかしくて、情けないと感じた。


 アルバイトを終え、正樹は地下鉄のホームに立ち、電車が来るのをひたすら待っていた。やがて正樹の目の前に電車が到着し、ドアが開いた時、正樹は驚きのあまり思わず足が止まった。まるで朝夕の通勤ラッシュの時のように、電車のドアぎりぎりの所まで乗客がすし詰めになっていたからだ。

 正樹は背負っていたリュックサックを手で持ち、出入り口の片隅におそるおそる入り込んだ。


「すっごく大きかったよね。最後のスターマイン」

「そうだね。でも私はナイアガラかな?空一杯に滝みたいにワーッと火花が落ちるところがカッコよすぎて」


 正樹のすぐ隣に立つ浴衣姿の少女たちの声を聞くと、どうやら沿線で花火大会が行われたらしい。車内を見渡すと、浴衣姿の女子グループやカップルがたくさん目についた。だから今日は、こんなに混んでいたのか……。田舎育ちの正樹は、ラッシュ電車に未だに慣れていなかった。吊革につかまることもできず、正樹は人ごみに圧されながら必死に揺れに耐えていた。その時、突然電車が急停車し、強い横揺れで正樹は体のバランスを失って倒れ込み、他の乗客に体当たりしてしまった。


「ちょっと……何すんのよ!」


 正樹の体は、ちょうど真後ろに立っていた女性の胸にぶつかってしまったようだ。

 女性は起き上がると、正樹の手をつかみ、鋭い目つきで睨みつけた。


「あんた、わざとやったでしょ?あんたの手、私の胸の部分を触ってたよ」

「ち、違いますよ。僕はただ、さっきの電車が急停止した衝撃で、その……」

「言い訳は聞きたくない!私の胸を触ったのは事実でしょ?さ、行くわよ」

「行くわよって、どこにですか?」

「決まってるじゃない。あんたのこと警察に引き渡すのよ。次の駅で私と一緒に降りなさい。逃げたら承知しないからね」

「そ、そんなぁ!」


 正樹は思わぬ形であらぬ罪を着せられ、どうしたらいいのか途方に暮れていた。

 次の駅に到着すると、女性は強引に正樹の手を引っ張り、そのまま近くに立っていた駅員に話しかけた。


「駅員さん。この人、混雑に紛れて私の胸をわざと触って来たのよ。警察に引き渡してくれるかな?」

「違いますよ、僕は電車の急停止の衝動で倒れ込んだだけで……」

「うるさい!言い訳するなんて見苦しいわよ!」


 もはやこれまでか?女性は怒り心頭で、正樹の言い分を聞いてくれる雰囲気ではなかった。駅員も女性の話を疑うことなく手帳にメモしながら聞きとっていた。このまま大人しく警察に行くのが利口なんだろうか……?


「ちょっと待って!」


 その時、真後ろから二人を呼び止める声が聞こえた。正樹が後ろを振り向くと、そこには浴衣を着た千夏の姿があった。


「千夏さん!どうしてここに?」


 千夏は電車を降りると、正樹の手を女性から引き離し、そのまま駅員の前に立って話し始めた。


「このお兄さんは電車の片隅に立っていたんです。人がいっぱいいて吊革につかまることもできないまま電車が急停止したから、その勢いで倒れちゃったんですよ。そこにたまたま、この女の人が居たんです」

「お姉ちゃん、何言ってんの?犯罪者をかばうと、あんたも犯人隠避でしょっぴかれるわよ」

「別にいいですよ、私も連行されても。でもね、私はこの人のことを信じてるから。そんなひどいこと、絶対に出来る人じゃないから」


 千夏は真剣な表情で駅員に訴えていた。駅員は困惑していたが、

「まあ、電車が急停車してお客様同士が接触するのはよくある話ですからね」

 とだけ言うと、メモを仕舞い込み、笑いながらその場から離れて行った。


「ちょっと!私の話は信じてくれないの?この人は私の胸を触ったのよ?どんな理由があろうと、犯罪行為でしょ?」


 女性はわめき立てながら駅員に食って掛かったが、駅員は意に介すことも無く、旗を持ってホームの隅の方へと歩き去っていった。女性は駅員を追いかけながら必死に訴えていた。


「しつこいなあ、あの人。何がそんなに不満なんだろ?さ、次の電車に乗りましょ」

「うん」


 ホームにはすぐに次の電車が到着した。この電車にも多くの乗客が乗っていたが、かろうじて空席を見つけ、二人並んで座った。


「千夏さん、同じ電車に乗ってたんだね」

「うん。でもすごく混みあってたから、声をかけたくてもかけられなかったの。ごめんなさいね」


 千夏はそう言うと、軽く頭を下げた。今日の千夏は長い髪を団子状にまとめ、きれいなうなじを見せていた。そして、ほのかに甘いコロンの香りが漂っていた。


「今日は花火大会に行ってきたの?」

「うん」

「一人で?」

「そうだけど?」

「友達とか、彼氏とかと一緒じゃなくて?」

「アハハハ、いませんよ。友達も彼氏も」

「え?」


 千夏の返答に、正樹は何も言えず固まってしまった。しかし、これ以上千夏を追及するのは失礼だと思い、正樹は質問内容を変えた。


「どうだった?花火」

「すっごく良かった。間を置かずどんどん打ちあがっていくから、久し振りに見ていてワクワクしちゃった」


 千夏は満面の笑顔で楽しそうに答えたが、やがてうつむき加減の姿勢でそっとつぶやいた。


「でもね、ホントは誰かと一緒に行きたかったかも。彼氏とか……」


 千夏の横顔はどこか憂いに満ちていた。一人ぼっちを明るく振舞って隠そうとしても、本音では彼氏が欲しいのだろう。


「正樹さんは今日もバイト帰り?仕事、どうだった?今日も怒られたの?」

「ど、どうして分かるんだよ!」

「だって、何だか悲しそうな顔をしてるんだもん。あ、今日も怒られたんだなって」

「まあ、悲しいというか悔しいというか……なかなか思うようにいかなくてさ」


 千夏は正樹の顔を見ると、クスっと笑い、大きく背伸びをした。


「私もそうですよ。思ったように生きられないというか。世の中、上手くいかないよね。私もこう見えて、結構不器用だから」


 そう言うと千夏は座席を立ち、出口の方へ歩き出した。


「ごめんね正樹さん、そろそろ降りなくちゃ」

「ああ、今日は助けてくれてありがとね」

「ううん、だってこないだは私が正樹さんに助けられたんだもん。その分お返ししただけですよ」


 そう言うと、千夏は片手を振って出口からホームへと向かって歩き出した。

 その時正樹は、突然座席から立ち上がった。また同じ電車で千夏に会えるかどうかは分からない。今日もわずかな時間だけど、千夏と楽しく話すことができた。これからも千夏といっぱい話をしたい。だから今日こそは、きちんと連絡先を聞かなくちゃ!


「あ、そうだ……千夏さん!ちょっと!」


 正樹はドアに向かって走り出した。しかし、非情にも正樹の目の前でドアは閉まった。流れるように動き出し電車の窓からは、千夏が階段に向かって歩く姿が目に入った。正樹は出入口のドアに顔を張りつけたまま、千夏の姿が見えなくなるまでずっと見続けていた。やがて千夏の姿が見えなくなった時、正樹はドアに顔をへばり付けて外を眺めていた自分に気が付き、顔を赤らめて席に戻った。


「俺、どうして千夏さんのことを……」


 正樹は胸に手を当て、自分の気持ちを整理しようとした。もっと話がしたい。一緒に時間を過ごしたい。正樹は、自分の心の中にいつの間にか千夏が住み着いていたことに気が付いた。今度会えるのはいつなんだろうか?その時には、自分の気持ちをちゃんと伝えられるだろうか……。

 

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