第35話 サラの暗躍②

 気がつくとシェイラはフィンの腕の中にいた。


 いつの間にか、ベッドに腰掛けたフィンに抱えられるような形になっている。シェイラがフィンを見下ろしているけれど、顔がとても近い。


 抱きしめられているので、当然フィンの表情は見えなかった。少し体を動かすと、ただ、優しく包んでいただけのはずの彼の手に、ぎゅっと力が入った。


(顔が見たいけれど……勇気が出ない)


 ぴりぴりとした、甘くも鋭い緊張感がシェイラを襲う。このまま少し体を離して瞳を合わせたら、何か急激な変化が訪れるような気がして。身じろぎもせず、シェイラは自分を落ち着かせるように深く息を吐いた。


「……」


 せめて何か言おう、と口を開いたけれど。この際相応しくない世間話でもなんでもいい、と思うのに、それすらも出てこない。


 部屋は静かである。『魔力がなくても使える灯り』に音はない。その痛いぐらいの静けさを、フィンの掠れた声が揺らした。


「本当は。あの男の前で、君が俺のものだということを知らしめたかった」


 低く落ち着いて聞こえるのに、その響きはどこか拗ねた子供のようで。


「……貴方らしくない」


 思わず、さっきまで固まっていたはずのシェイラの緊張も解ける。シェイラを抱きしめた体勢のまま、フィンは言う。


「ゼベダが……交渉の条件に、君を出してきたらどうしようかと思っている」


「そんな馬鹿なこと言うはずがないでしょう? 一国の王太子よ?」


「いや、どうやらそうでもないらしいぞ? 次回の調印式はゼベダで行われる予定になっているが。先方から、君は当然同行するのだろうと確認があった」


「貴方が心配だというなら私は行かないけれど。……でも、交渉を有利に進めるために私が役立つなら使うべきだわ」


 その瞬間、耳元にふっと吐息がかかって、背筋にぞくっとしたものが走る。


「……王女は、絶対にそう言うと思った」


(グレッグ殿下は、そういうお方ではなかったはず。確かに、アレクシアへの特別な感情があったのは事実だろうけれど……。もしかしたら、私と話がしたいとおっしゃっていたのには何か別の理由があるのかもしれない)


 シェイラは推測したことをフィンには告げない。彼は、間違いなくアルバートに焼きもちを妬いている。彼を今この場で庇うことは、何となく自分のためにはならないと思った。


「あー……もうダメだ。眠い」

 シェイラの鼻のあたりを、フィンの金糸のように繊細な髪がくすぐる。いつもの香水ではない、石鹸の匂いがした。


「サラ様のお薬のせいね。ふふっ。いいわ。私のベッド、貸してあげる。話さなければいけないことは、もう終わった?」


「……アレクシア」


 ふいに、シェイラの前世の名前が呼ばれて、どきん、と鼓動が速くなるのが分かった。


 二人きりになったときにでさえ、頑なに『王女』としか呼ばない彼の口から漏れたのは、あまりにも甘い響きで。


(前世でも、最後に呼ばれた気がする。そして、私はクラウスの腕の中にいた。それが最後の記憶。……でも、メアリ様は最後に猫のクラウスに会ったと言っていたわ)


 思い出を反芻する中で浮かび上がった疑問をフィンにぶつけようと、シェイラは姿勢を立て直す。


 けれど。そのときにはもう、すー、と寝息が聞こえ始めていたのだった。


(……重い……)


 すっかり眠ってしまったフィンの体は重い。なんとかベッドに彼の体を横たえると、ブランケットをかける。


「もっと、そんな風に、呼ばれてみたかったな」


(隣で眠るわけにもいかないし……かといって、部屋から出たらアビーが飛んできそうだわ)


 とりあえず、ソファに腰掛けてフィンの寝顔を眺める。


(そういえば、昔も似たようなことはたくさんあったわ。もちろん、立場は逆だし眠り薬もなかったけれど)


 例えば、別邸へ出かけた日。今日は夜通し勉強がしたい!と意気込みつつ図書室のカウチソファで眠りこけてしまったアレクシアが目覚めるまで、クラウスは隣で本を読んで待っていてくれた。


 ただ勉強がしたいだけではなく、夜の図書館で過ごしてみたいという気持ちを汲んでくれたのだ。口うるさくあれこれ言いつつも、結局は甘やかしてくれるクラウスの存在はとてつもなくくすぐったかった。


 アレクシアは、物心がつく前から帝王学を学んだ。人の上に立つための勉強は、確かに面白かった。けれど、高貴な立場にいるアレクシアには想像でしか解り得ない理論も多かった。


 その中で、人を大切にするということはそういうことなのだ、とすとんと落ちたのはクラウスのおかげである。


(思い返しているうちに……またあの森の空気が吸いたくなってきたわ)


 王城の裏に広がる森は、アレクシアとクラウスが小さな頃から親しんだ場所だ。だからこそ、シェイラもフィンも城壁に登ってそこを眺める。


「最後に行ってから……もう、100年以上が経っているのね」


 正直なところ、もう二度と足を踏み入れられないと思っていた。彼も転生していたことを知るまでは。


 ベッドに視線を戻すと、無防備なフィンの寝顔がある。サラが盛った眠り薬は、量で繊細に効き目を調節できる高級なものだ。だから、彼がぐっすり眠っているのは半分は薬のせいではないと思えた。


(最近は本当に忙しそうだった。少しでも、ゆっくり休んでほしい)


 ――クラウスは、いつもこんな気持ちだったのかしら。


 そう思いながら、シェイラは二つの灯りを消したのだった。


 ◇


 翌朝。

 目覚めたシェイラが見たものは、いつもの天井だった。


(あれ……ソファで眠ったはずなのに……)


 きょろきょろと周囲を見回すけれど、フィンはもういないようだ。下がっている天蓋の布の向こう側に、朝の日の気配を感じる。


 シェイラは大きなベッドの真ん中で体を起こした。少し離れた――昨夜、フィンが寝ていたはずの場所を触ると冷たかった。


「……そういえば、まだ誤解を解いていなかったわ」


 一人、呟く。


 フィンとシェイラの間の、大きな誤解。それは、シェイラの前世での心残りに関するものだ。


 フィンはそれが『世界平和』だと思っている。けれど、シェイラの想いは当然そんなところではなかった。


(私の望みは、彼だけだった)


 21年という短い生涯の最期に想った言葉。それを伝えたら、彼は喜んでくれるのだろうか。


(きっと、喜んでくれるだろうけれど……)


 フィンの表情を想像すると、頬が熱を持つ。少なくとも、昨夜はあの状況で絶対に言えなかった。彼がクラウスの生まれ変わりと知った夜に、言ってしまえればよかったのに。そう思ってももう手遅れである。


 冷たいシーツを頭から被る。とりあえず、今は何とかこの感情を忘れたくてそうしたはずなのに、昨日抱きしめられた感覚が蘇って完全に逆効果だった。


(……そうだ。散歩にでも行こう。今日は、城壁から見るのではなく、直接森まで行ってみよう)


 ばさっ、と勢いよくシーツをはらうと、シェイラは早速準備を始めたのだった。

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