池に海水魚

高黄森哉

池に海水魚


 私は、”池に海水魚” と手帳に記入する。意味は、”いけない” こと。それから、”ありえない” こと。池に海水魚がいるとおかしいから。転じて、”おかしい” こと。用例は、”順子さんは池に海水魚だね”。順子さんとは私のこと。


 手帳を閉じ、眼の前の池を眺める。ラムネのような清涼な透明を、海水魚が泳いでいる。カクレクマノミ。なかなかオーソドックスな魚。サンゴもある。田舎で、こんなへんちくりんな様子を観察できるのは我が家だけ。


 この池はおじさんがこしらえたもの。おじさんは、池に海水魚な人で、様々な道楽をやってのけた。屋根にしゃちほこを乗っけたり、門にシーサーを置いたりした。その一環として、裏庭にミニ海を造りあげた。


 おじさんが死んだ今、この池を維持するのは私の役目。おじさんが研究に研究を重ねたノートを頼りに、水質の調整を手掛けている。もし一つでも手順を間違えれば、この繊細な池は死んでしまうだろう。


 私は膝に置いていた本を読み始める。池を覆うように、すだれが掛かっているので夏でも涼しい。あずま屋みたいな造り。隙間から漏れる光線は、サンゴの育成に最低限の光量であり、水温を上昇させすぎないギリギリでもある。


 短く切られた、といっても肩までかかる、髪が風にそよぐ。風が内側に侵入してきて、身体を膨れさせる。かまわず、本を読み続ける。本の頁が捲れないよう、薄い左手を重しにしながら、日焼けしていないその白い手は幽霊みたいだな、と我ながら思った。


 しばらくして、バケツから氷を池に投げる。実はこの白い砂地の下に、金属のパイプがヒートシンクのように通っていて、そこに渓流からの冷たい水を流すことで、池を冷やしているのだが、今日のような猛暑だと冷却が追いつかなくなる。


 氷がぷかぷか浮かぶ、その真下をミノカサゴが通る。池で最も凶暴な魚で、かつ有毒。これに触れてしまったときのために、毒の吸引装置を常備しているくらいには危険。


 ヒトデがヒトデしている。ヒトデはマイペースで、動きは鈍いのだが、意外に大胆な動きをする瞬間もある。その行動はヒトデをしている、とでしか表現できない。それはヒトデ特有の動きなのだから。


 猫サメがどこかにいるはずだが、今日は見えない。砂地にもぐったか、岩影に隠れたかである。猫サメは雨の日に出て来る傾向がある。雨の日は、ペーハーが酸性に傾くため、調整剤を撒く必要がある。塩も足さなければならない。その時、塩を喜ぶように、猫サメが泳ぐ。


 私は、といえば夏中、ずっとここにいる。


 引っ越し。学校の水質は私に合わなかった。教室に向かうだけで、エラを忙しなく動かす羽目になる。海水魚は淡水では死んでしまう。水温も違った。私が学校にいるのは、池に海水魚がいるようなもの。


 屋根にしゃちほこな運命だな、引っ越しに対して思う。門にシーサーじゃないか、人生に対して思う。キンキンに冷えた氷を池に静める。氷に曲げられた私の像に、裏から魚が色を付ける。私は色物だ。私は微笑んだ。


 顔は曲がっていない。曲げられたとしたら、それは悲しみでしかない。私の顔は水面でへの字になっていた。もし、私が泣いたなら、この池の水はアルカリに傾いて、その絶妙な均衡を崩すかもしれない。すると池が死んでしまうかもしれない。


 なのに涙は間断なく落ちていく。波紋につられて、魚が集まって来る。ああ、泣けばいいのかな。泣けば、興味を惹くのかな。泣けば優しくしてくれるのかな。泣けば己の池から出れるのかな。海水が壊されて、淡水に代わるのかな。明日、泣いてみようかな。集まって、くれるかな。

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池に海水魚 高黄森哉 @kamikawa2001

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