断章 白い霧

白霧之色 天より高く、空より青い

 ――この世界のどこかには、人を喰らう霧があるという。


 そんなことを思い出しながら、森の中を、白く深い霧が立ち込める明るい木立の中を、私は一人、歩いていた。何回も、何日も、何週間も、何カ月も、何年も、何十年も、ヒトが通り、地面があらわになった道を歩いていた。

 土を踏みしめる音、枯れ枝の折れる音、衣擦きぬずれの音。私から出る音以外は何も聞こえない。実に静かだ。


 ヒィ、ヒィ、ヒィ、ヒィ


 不意に聞こえた甲高かんだかい鳴き声に目を遣れば、そこにいたのは天藍てんらん色した美しいヒタキ。かすかに揺れる細枝の上で、頭を揺らさず器用にこちらを見ている。その光景に私の心はわずかにほぐれるが、次の瞬間、小鳥は道の奥へと飛び去ってしまった。

 期せずして手に入れた安寧との突然の別れに、小さく溜め息を漏らす。しかし、奥に進めば再び出会うこともあるだろうと私は予感したのだが、果たしてそれはすぐに現れた。


 ヒィ、ヒィ、ヒィ、ヒィ


 道を進めば、すぐに先ほどと同じ声。同じように細枝にたたずみ、そしてまた同じように道の奥へと飛び去った。


 ――ついてこいと言わんばかりだな。


 私は、また正面を向いて歩き出した。小鳥の飛び去った方へと。


 そして私は考える。どうして歩いているのだろうかと。


 お役目が終了したことで、ランプレヒト様からいとまを出され、乗合馬車で実家を目指していたはずなのだが……、ああ、そうだ。思い出した。

 道中、徐々に霧が深くなり、最早これ以上は危険だと御者が馬を止めたのだ。そこまでははっきりと覚えている。そして気が付けば私はこの道を歩いていた。馬車が止まってから歩くまでの記憶が全く欠落しているのだ。

 他の乗客も見当たらず、奇妙なことこの上ないが、少なくとも視界はヒトが歩き固めた道を捉えている。この先に集落か東屋か、はたまた木こり小屋があるかも知れない。或いは元いた街道に合流しているのかも知れない。

 本当は、霧が晴れるまでじっとしていた方が良いのだと頭では分かっているのだが、足は先に進むことを選び続けている。止まったとしてもそれは一時いっときのこと。体はじきに自然と動き、あの美しい天藍てんらん色のヒタキを追い続けた。


 ヒィ、ヒィ、ヒィ、ヒィ


 ヒィ、ヒィ、ヒィ、ヒィ


 ヒィ、ヒィ、ヒィ、ヒィ……


 既に足元に道はなく、小鳥に導かれるままに歩く。奥へ。奥へ。どこまでも気高く空の青より鮮やかな、その天藍てんらん色の。


 そして、規則的な鳴き声を何度聞いた頃だったろうか。

 どことも分からぬ遠くで悲鳴と、雄叫びと、何かがぶつかりあう音が聞こえた気がした。にわかに口の中に鉄の味がにじみ、私は警戒する。


 そうだ。オイレン・アウゲン梟の瞳を展開していなかった。視界の制限された森を彷徨さまよう異常事態だというのに、なぜ使っていなかったのだろうか。すぐに意識を拡張し、周囲を探る。不思議と足は進まない。周囲300メートルに何も反応がないことが分かると、次は目を閉じさらに拡張する。

 400、500、600……何もない。限界の1キロメートル先まで拡げても、とうとう反応はなかった。そう、全くの無反応。


 おかしいのだ。通常であれば、野兎や鹿や猪、狼などでも反応があるというのに、不自然なほどに何もない。

 直感ともいうべき薄気味悪さを感じて目を開けてみれば、目に飛び込んできたのは色の無い世界だった。正確には白と黒と灰色だけが存在している。茶も緑も赤も青も黄色もない。まるで時が止まったような灰色の世界。だが――


 ヒィ、ヒィ、ヒィ、ヒィ


 天藍てんらん色のヒタキだけが目に鮮やかに、文字通りの異彩を放つ。そして天藍てんらん色を中心に世界は渦巻き、歪み、やがて元に戻ったかと思えば、私の目に、私の耳に、悲鳴と、雄叫びと、鉄がぶつかりあう音、そして、剣が飛び込んできた。

 すかさず身をかわそうと身をよじるが、剣は無情にも私を貫いた。


 ――しかし、痛みも何もない。視界も良好。この目に映るのは色のある世界。私は変わらず生きている。


 何故なのか?

 

 手の感覚は、ふわふわしている。

 足の感覚は、ふわふわしている。


 首はどうか? 腰はどうか? オイレン・アウゲンはどうか?


 感覚があるような、ないような、やはりふわふわしている。

 私の体はどうにもふわふわしているようだ。

 いや、ふわふわしているというよりも、これは一体どうしたことか。首を傾け手足を見ようと試みてはいるが、何も無い。手や足があると思って見た場所には、下草や地面が見える。


「……」


 還魄器シクロを発現しようと口を開くが、言葉は出なかった。否、口そのものの感覚が無い。

 どうにも不可解。しかし、自分の記憶と照らし合わせれば、一応の結論はでるものだ。


 これは夢だ。疑いようもなく、どうしようもなく夢なのだ。だとすれば私は今頃、乗合馬車の荷台で呑気に寝こけていることだろう。早く起きなければと焦ってみても、しかし、一向に目を覚ます感覚はない。


 再び聞こえてくる悲鳴、雄叫び、鉄がぶつかりあう音。夢にしては実に生々しいものだ。何よりも目の前にいる二人の若い男。身に着けている甲冑は傷だらけ。そこかしこに凹みも見え、返り血か、はたまた自身の流血により如何にも満身創痍だ。だが、どこかで見たことのある風貌に私の眼は自然と二人を捉えてしまう。

 どの道これは夢なのだ。めない夢なら、せめてこの世界にひたってみよう。


 そう思ったとき、色の付いた世界は崩壊し、白い霧によって再構築された。

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