第2話 サンルビーニョの惨壊(2)

 それは遡ることちょうど一ヶ月前――アレクシオス帝暦一四九一年・四月一日のこと。ジョレンティア王国南部の海港都市サンルビーニョは、港の埠頭を所狭しと埋め尽くした完全武装の騎士たちの物々しさが場違いに思えるほど、長閑で温かな春の陽気に包まれていた。


「では父上、行って参ります!」


「うむ。気をつけてな。歴史ゆかしき聖地の風を、その肌でしかと感じてくるがよい」


「はいっ!」


「そちは既に王太子の身じゃ。あまり羽目を外して、我が王家の名を汚すでないぞ」


「分かっておりますよ。ご心配なく」


 聖地エスティムへの二度目の巡礼の旅。晴れて出立の日を迎えたマルセロは、王都パルメイロから見送りに来た父王のセルヒオ六世に勝気な笑顔で別れの挨拶をして家臣たちと共に船に乗り込む。五年前の最初の旅立ちの日のことを思い出しながら、稀代の名君と讃えられた王は威厳に満ちあふれた顔を微笑みに緩めた。


「あの時は、少しは羽目を外して参れと申して送り出したものだったがな」


 苦笑しながら王がそう言うと、マルセロの教育係を務めてきた老臣のハモン・カルヴァーリョ伯爵が嘆かわしげに答える。


「笑い事ではございませぬぞ。陛下。トマス騎士団のご令嬢に、マルセロ殿下はいささか影響をお受けになり過ぎました。最初の巡礼の出発前までは内向的で物静かで少々お元気が足りぬくらいでしたが、それが今では……」


「じゃじゃ馬娘に悪い遊びを教わり過ぎて、今では手のつけられぬ傾奇者かぶきものか。まあ良いではないか。言われた通りに綺麗に型に嵌ってしまうようでは、大人物となって偉業を成すことなどできはせぬ」


 父王自らこの調子だから困るのだ、と言いたげにハモンは額に手を当てて頭痛を堪えた。リスベツと会う度に、大人しかったマルセロはどんどん刺激を受けて破天荒な性格に変わってゆくのだ。今回もトマス騎士団に現地での護衛と案内を任せ、その騎士団長の令嬢である彼女と一緒の時間を過ごさせていいものかと心配になる。


「……もしそこまでの者になれねば、死あるのみじゃ」


 急に随分と極端で厳しいことを言う。小さく呟くようなセルヒオの言葉を聞いたハモンが驚いて眉を寄せたその時、王の周囲で護衛をしていた近衛騎士たちの方から何やら騒がしい声が聞こえてきた。


「通してくれ! どうか陛下にお目通りを!」


「ならんと言ってるだろう! 下がれ不埒者!」


 栗色の髪を伸ばした彫りの深い端整な顔立ちの青年が、国王に直訴しようと押しかけてきて護衛の騎士たちに止められている。武装した屈強な近衛騎士らに左右の腕を掴まれ怒鳴りつけられてもなお、青年はじたばたと足掻いて必死にセルヒオの元へ行こうと抵抗を続けていた。


「またあの男か……。構わぬ。通してやれ」


 港の埠頭に設営された仮の玉座の上に座りながら、セルヒオは呆れた声で配下の騎士たちにそう言い、その青年が自分の前に来るのを許した。


「偉大なる国王陛下のご尊顔を拝し、恐悦至極に存じます」


 騎士たちに腕を放され、王の足元に転がり込むようにしてひれ伏した若いリオルディア人の船乗りの男――ベニート・モルフェオは、荒れた呼吸で咳き込みそうになりながら恭しく言上した。


「誠に不躾ながら、本日は陛下にお願いがあり参上致しました次第で――」


「その願いならばもはや聞き飽きた。また西への航海に金の援助をせよと申すのであろう」


 話を聞く前から既に疲れ切ってしまったように、セルヒオは深く溜息をついてベニートの願いを退けたが、ベニートはそれでも諦めずに言葉を続けて食い下がる。


「お願いです陛下。様々な理論に基づいて考えるならば、この世はロギエル教の聖典にあるような平面ではなく球の形をしており、このアレクジェリア大陸から西へ向かって航海すれば、東へ進むよりもずっと早くラハブジェリア大陸の東の端に辿り着くことができるのです。そこには豊かな黄金の国・ミズナがあるという伝説を、陛下もお聞きになったことがおありでしょう」


「支離滅裂な妄想としか申しようのない話じゃ。そのような下らぬ戯言ざれごとに付き合って、我が国の国庫から金を出してやるわけには行かぬ」


 この世は平らで、アレクジェリア大陸の西に広がる海の彼方には世界の果てがある――ロギエル教の聖典の記述に基づいて、人々は昔からずっとそう信じてきた。だがベニートに言わせればそれは間違いで、この世界は球体であり、従って海をどこまでも西へ進んで行けば反対方向から東のラハブジェリア大陸に到達することができるというのである。この画期的で独創的な計画を実行に移すため、航海への資金援助を度々ジョレンティアの王室に願い求めてきたベニートだったが、セルヒオにしてみれば全く正気とも思えない莫迦ばかげた話で、そのような無茶な冒険のために巨額の資金を出してやる気など露ほどもなかった。


「いえ陛下、お言葉ながら、これは妄想などではなく学術的に証明のできる事実なのです。例えば古代テオノアの物理学者ソフォクレスは、著書の一節にこのように書いておりまして――」


「もうよい。聞くに及ばぬ。この者を下がらせよ」


「陛下……!」


 ベニートの話を途中で遮って、セルヒオは配下の騎士たちに彼を摘まみ出すよう命じた。跪いていたベニートの両腕を二人の騎士が掴み、強引に立ち上がらせて王の面前から退場させる。


「……きっと後悔なさいますぞ。陛下」


「この無礼者め、陛下に向かって何という暴言を!」


 去り際に、ベニートが甘く軽薄そうな美顔を険しく歪めて吐き捨てるように言うと、騎士たちは彼の無礼を大声で咎めて引きずり出してゆく。彼の言葉を聞いたセルヒオの表情が一瞬わずかに強張ったことに、気づいた者は誰もいなかった。




「如何でしたか。殿下」


 ジョレンティアの騎士たちに乱暴に路上へと放り出されたベニートに、歩み寄ってきた背の高い初老の男が首尾を訊ねる。立ち上がって服についた土埃を払い落としたベニートは、まるで話にならん、と軽蔑するように首を横に振った。


「頭の固い王様だ。今回もまた取りつく島もなかったよ。全く、国の未来が大きく開ける儲け話を歯牙にもかけずに蹴っ飛ばすとは、名君どころかとんだ愚王だな」


「お父上様とは、やはり先見性において雲泥の差がありましたか。致し方ございませんな」


 顎鬚を長く伸ばしたその銀髪の老紳士――ボリスラフ・トドロフはそう言って、次の行動へ移る許可を求める。冷酷な笑みを浮かべながら、ベニートは口元を歪めてうなずいた。


「機会は何度も与えてやったんだがな。かくなる上はしょうがない」


「我らの計画の駒となる栄誉を拒んだ王には、もっと適任な御仁ごじんと交代していただくことに致しましょう」


 ボリスラフがそう言って指を鳴らすと、港の埠頭に止まっていたカモメの群れが何かに驚いて一斉に飛び立ち、静かだった海が急に波を打って騒ぎ始めた。

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