天壌霊柩 ~超高層のマヨヒガ~ 第7回

 男はバッグの横ポケットから、名刺を取り出した。

「でも、心配御無用。私は怪しい者じゃない」

 名刺には『週間文潮 報道部 兵藤信夫』とあった。

 週刊文潮は、例の暴露記事で大炎上のきっかけを作った有名週刊誌である。

 まだ腹を割るべき相手ではない――拓也は名刺に手を出さず、曖昧な笑顔を保った。

 兵藤は馴れ馴れしい笑顔のまま、名刺を拓也の胸ポケットに押しこみ、

「傍迷惑なマスゴミが現れやがった――君はそう思っているかもしれないが、私は自分を外科医の同類だと思っているよ。化膿した傷を放っておいたら、いずれ骨まで腐る。自分の体だけなら自業自得だが、社会の膿は話が別だ。放っておいたら、いずれこの町、この国、そして世界中が腐る」

 緩んだ笑顔に似合わず、臆面もない正論である。

 拓也は故意に偽悪的な言葉を返した。

「いっしょに腐った人の方が、かえって得をする世界も多いですよね」

 兵藤の正論が、どこまで本音か知りたい。

 拓也自身は、社会的な不正は確かに正すべきだと思っている。いわゆる正義感からではない。それが理論的に正しい功利主義だからである。世間では自分の利益ばかり追求する人間を功利主義者と呼ぶケースが多いが、正確には、社会全体の利益を追求するのが功利主義なのだ。

「おいおい、君は霞ヶ関のキャリア組志望なんだろう? 清濁併せ呑むのはいいが、口だけは清く正しく動かしといたほうがいい」

 兵藤は、あくまで飄々と、

「確かに一介の市民、たとえば君や私が、ヒーローに変身して世界を救うのは夢物語かもしれない。でも『ここが膿んでますよ』くらいは、まあ、ひとこと言っておきたいじゃないか。それで飯が食えて、女房や子供を養えるんなら、なおさら黙ってちゃ損だ」

 この人は理詰めの偽善者、つまり自分に近い大人らしい――。

 そう判断した拓也は、ある程度、腹を割って話すことにした。

「どこで卒業アルバムを手に入れたんですか?」

 自分の顔と名前のみならず、将来の希望まで知っているなら、中学で全卒業生に配られたあのハードカバー冊子、あるいはそのコピーを熟読したはずだ。

「入手先は言えないが、君の同級生の顔と名前、各自のコメントは全部覚えたよ。さっき話してたのは青山君だよね。将来の希望は、父親と同じ宮大工。他の学校関係者――担任や教頭や校長の顔も、見ればすぐにわかる。ただ、教育委員会サイドの人間はガードが固すぎて、なかなか実態が把握できない」

 兵藤は、バッグから一つの腕時計を取り出し、

「よければ君に、これをはめて行って欲しかったんだが――まあ、君の立場では無理だろうな」

 拓也は即答した。

「はい、無理です」

 拓也の見たところ、それはおそらくアナログウォッチ型の隠しカメラである。今日の個別聴聞の、動画と音声を記録したいのだろう。しかし、さすがに拓也としては協力できない。万一流出でもしたら、自分の将来が消える。

「あの記事は、あなたが書いたんですか?」

「いや。国会で問題になった後、私が追跡取材を任されたんだ」

「文芸思潮みたいな大会社の人が、そんな小道具まで使うとは思いませんでした」

「今時の出版社は、部数を増やすためなら、どんな危ない橋だって渡るよ」

「でも、明らかに違法行為ですよね。ほんとに文潮の方ですか?」

 拓也が正論で畳みかけると、

「君はまったくお利口さんだな。でも、その名刺は偽造でもなんでもない」

 兵藤は苦笑して、

「ちなみに、こんな名刺も全部本物だ」

 他に三枚ほどの名刺を、拓也に差し出す。

 それぞれ出版社名と部署名は違うが、姓名は同じである。

「いわば掛け持ち自由の社員だね。しかし非正規社員じゃない。それぞれの会社と、正式な雇用関係を結んでる。ただしあくまで成果給、会社都合でいつ解雇されても異存なし――そんな正社員だ。まあ仕事自体はフリーライターと大差ないが、取材先での信用が違う。そして取材時に危ない橋を渡り損ねたら、会社はすぐにトカゲのシッポを切れる」

「……記者にも色々あるんですね」

「学生だって色々だろう? 君のような優等生もいれば、例の三人組みたいなワルもいる。社会的にはみんな同じ高校生、少年Aや少女Aだ」

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