いつか思い出すかもしれないどうでもいい今日のこと

尾八原ジュージ

眼鏡を買って帰るだけ

「ジュージさん、明日私と眼鏡を買いに行きましょう」

 突然シスターが私にそう言った。

 この屋敷に今のところシスターは彼女、チヒロ・ハイザキ一人しかいない。だから誰かがシスターと呼べばそれは大抵彼女のことだ。

 現在我々はキッチンで夕食の支度の最中、シスター・チヒロは右手にナイフ、左手にはローストビーフの固まりを持っていて、そして眼鏡をかけている。すでに眼鏡があるのだから買いに行く必要はないんじゃないか、と思ったのもつかの間、シスターは「私のではなく貴方の眼鏡を買うのです」というので、私はわけがわからなくなる。

 なぜって私に眼鏡は必要ないので。たぶん両目とも裸眼で2.0はあるので。それ以上は測ったことがないのでわからないけれど、ものの見え方に不満を感じたことはない。とにかく一般的に眼鏡が必要な状態ではないと思う。

 大皿を拭く手を止めて、「何で眼鏡を買いにいかなきゃならないんですか」と問うと、「いいから」ときっぱり言われてその勢いで押し切られそうになる。いや、もうほぼ押し切られている。シスターはなぜか私の明日の予定を把握していて、確か午後から非番でしょう、特に用事もないんでしょうと詰めてくる。

「私、ひとに眼鏡をかけさせるのが好きなのです。ですから行きましょう。貴方の眼鏡を買いに」

「でも必要ないんですよ。眼鏡」

「アクセサリーとして持っておけばいいじゃありませんか。特別に伊達で許してさしあげますわ」

 特別ではなくても伊達で許してほしい。

「私のですよね? 貴女のではなくて」

「そうです。ジュージさんのを買うんです。前に貴方、私の眼鏡を壊したでしょ? その眼鏡のお弔いだと思って付き合いなさい。そして眼鏡をかけなさい」

 言われて思い出した。そういえばそんなこともあった。しかし、あの時は眼鏡どころか命をとるところだったと思うのだが、彼女にとっては眼鏡を壊されたことの方が大事らしい。

「その、前に壊した方の眼鏡はいいんですか?」

「そっちはとっくに経費で新しいのを注文しました。それはそれとして、いいですか? 明日午後一時に玄関ポーチにいらっしゃい。私が眼鏡を見立ててさしあげます。それと先日、イサキお嬢様に『貴女の執事に眼鏡をかけさせましょう』とご提案したら、大変面白がっておられました」

 そう言われると、じゃあ行かなきゃならないなと思ってしまう。お嬢様が面白がっておられるということなら、面白い眼鏡を買ってきたらいいのだろうか。たとえばフレームが光るやつとか。

 いいですね絶対いらっしゃいよとシスターは念を押しに押す。彼女のことをよく知っているわけではないけれど、ともかく眼鏡が好きだということは確かだと思う。


 翌日の午後一時、玄関ホールに立っていたシスター・チヒロは、シスター服ではなくて私服を着ている。制服だと教会の用事だと思われる、というのが不満らしい。誰とは言わないけど、どこにでもカソックで出かけていく神父とは相容れないらしい。

「仕事着じゃないですか。貴方も私服でいらっしゃったらよかったのに」

 そう言われるけれど、これが私服みたいなものなので勘弁してほしい。

 彼女はいつもより少し高い位置でシニョンを作り、長袖のブラウスとハイウエストのロングスカートにブーツを履いて、いつもより軽やかで全体的にワントーン明るい。そして当然だけど眼鏡をかけている。さすが毎日眼鏡だなぁと思ってぼんやり眺めていると、「お気づきになられました? これは休日用ですの」

 と澄まし顔で言われる。「いや気づいてません、見てただけです」などとは口に出せない。

 バスに乗って住宅街から繁華街へ向かう。目抜き通りをひとつ奥に入ると、小さいが年季の入っていそうな眼鏡屋が一軒あって、そこがシスターのお気に入りらしい。店内に入ると、あらチヒロさんいらっしゃいと言いながら店員らしき中年の婦人が姿を現した。その親し気な口調から、どうやらシスターはこの店の常連らしいと私は思う。というかまず、常連になるほど頻繁に眼鏡屋に通うものなのだろうか? そんなに用事ができるものなのだろうか? わからない。そもそも私は眼鏡の専門店に入ったこと自体たぶん初めてで、つまりは眼鏡に関する造詣がなさすぎる。

 落ち着いた店内にはショーウインドウを始めとして、両側の壁に作られた棚一面、カウンターの奥にも眼鏡が陳列され、その間にいくつか鏡が置かれている。おもしろフレーム眼鏡は見当たらない。

「知人の眼鏡を見立てたいんですの」

「まぁー! おデート?」

「とんでもない。職場の同僚ですわ」

「あらそうですの? お似合いですのに」

「解釈違いですわ」

 店員は眼鏡を見立てるべく、私の顔をじろじろと眺める。この人も眼鏡をかけている。眼鏡屋の店主だか店員でもあることだし、きっと彼女も眼鏡が好きに違いない。

「いいわね。眼鏡に愛されているお顔をしておいでね。きっと何でもお似合いになりますわ。視力は測られました?」

「それが残念なことに伊達ですの」

 なぜそれがそんなに残念なのか。

 いそいそと棚を見回り始める店員の背中を見送りながら、眼鏡に愛されている顔というのは一体どういう顔なのか考えようとして、やめた。私には眼鏡に対する造詣がなく、従って、どんな顔なら眼鏡に愛されていると言えるのか推し量りようがない。などと考えていると、シスターが私の腕をやにわに掴んで手近な鏡の前に引きずっていく。凄い握力だ。

「私、眼鏡は何でも好きなんですけどどうしましょうね、このあたりとかどうかしら、細めのボストンとかクラウンパントなんかいいと思いますの。可愛らしい感じで……」

 突然早口になってあれこれ指差し始め、そこに「こちらの鼈甲なんかいかがでしょう」とスムーズに店員の援護射撃が入る。

「いいですわね! さすがですわ。はいどうぞ」

 と渡されてしまったので、かけてみるより仕方がない。濃い色の鼈甲のフレームをかけた途端、シスターは私の顔を真剣な表情でまじまじと見つめ出す。殺し屋が今日使う刃物を選んでいるような顔なのでだんだん居心地が悪くなり、

「シスター、何か言ってくださいよ……」

 と思わずこぼすと、

「ぶちええわ……」

「はい?」

「あら、つい故郷の訛が出てしまいましたわ。素晴らしい。お似合いですわ。やはり顔面が眼鏡に愛されている……」

「はぁ……」

 返答に困っているところに、「こちらはいかがでしょう?」と言いながら店員が戻ってくる。手に持ったトレイには、いくつかの眼鏡を載せている。

「どれも捨てがたいですわね! はい、これかけて」

「フレームが太めのものもございます」

「こちらも素敵ですわね。はい見せて。横向いて。はい今度こっち。自分でも鏡見て! もうちょっと右向いてください。正面。いいわね。はい次!」

 かくして眼鏡をかける、見せる、外すの果てしないローテーションが始まり、私は早々に思考を放棄した。この店にある眼鏡をすべてかけたら解放されるのだろうかと思えば、やっぱりさっきかけたこちらがよろしいんじゃないかしら、などと言いながら序盤にかけたものが出てくる。果てがない。

「何だかんだ言って、最初にかけたのが一番似合っていたような気がしますの」

「じゃあそれでいいんじゃ……」

「もう一軒回ってみましょう!」

「は!?」

「誰が一軒だけなんて言いました?」

 店員の手前それでいいのか、と思いつつ内心助けを求めてそちらを見ると、店員は「そうね、どうせなら色々ご覧になるとようございますわ。×××通りの□□さんは、うちにはないタイプの品揃えで……」とまったくあてにならないどころか、はっきりと敵であることがわかった。

「では一旦お暇しますわ。色々とありがとうございます」

「いいえ、こちらこそよいものを拝ませていただきまして……またいらしてくださいませ」

 深々とお辞儀を交わしてふたりの眼鏡愛好者は別れた。シスターはまた万力のような力でもって私の腕を掴み、意気揚々と店を後にする。腕をもがれては困るのでついていくしかない。

「目抜き通りの店でしたら歩いていけますわね」

「シスター、逃げないので放してもらえます?」

 二軒目の店はさっきの店よりもやや広く、内装も明るい。店内に入るとやはり眼鏡をかけた男性店員が出てきて、これはハイザキ様いらっしゃいませなどというので、こちらも行きつけだったのかと最早感心するほかない。眼鏡屋ってそんなに通うことある? などと言っている場合ではなかった。たぶん、機会がないなら作るのだ。

「視力は測られましたか?」

「それが残念なことに伊達ですの」

 だから何が残念なのか。まさかそのうち目潰しなど仕掛けてくるのではないか。洒落にならない。

 シスターは眼鏡屋に入ると早口になる。店員と彼女との間に知らない単語が飛び交い、自分の眼鏡のことなのに完全に置き去りになって、私は向かいの壁にかかっている鳩時計を見るともなしに見ていた。あまり考えたことがなかったけれど、眼鏡と時計を一緒に扱っている店は多い気がする。どちらも細かい部品を扱うから相性がいいのだろうなどと考えていると、いつの間にか目の前に別の眼鏡が来ている。

「こういうウェリントンもいいと思いますの。はいかけて」

 鏡の中の自分の顔を見ても、眼鏡が追加されたなと思うだけで特に感慨はない。一方、シスターは楽しそうにうんうんとうなずいている。

「これはこれでいいわね、さっきより大人っぽい雰囲気ですわ……ではこっち。はい横見て」

 一軒目に続いて早々に心が無になる。次々に新しい眼鏡が現れては自分の顔の上を通り過ぎていく。しかし、シスター・チヒロの楽しそうなことといったらない。昨日言っていた通り、他人に眼鏡をかけさせるのがよっぽど好きなのだろう。

 なんだか不思議だ。なぜ彼女は眼鏡屋の店員にならなかったのか。その代わりにどうしてシスター服を纏いショットガンをぶっ放すことになったのだろうか。あえてそんな理由なんか聞くつもりはないけれど、ただどうしてかなと思うだけは思ってみる。彼女にとって眼鏡屋は天職かもしれないが、それはそれとして色々あったのだろう。私も含めて、誰もがやりたいことを仕事にしているわけではない。

 散々試着をさせられ、「やっぱりさっきの店に戻りましょうか」と言われたときには、三軒目になだれ込まなくてよかったと安堵していた。

 眼鏡の試着をしていただけだというのに、時刻はもう午後五時に近い。まだ日差しはあるけれど、それでも傾き始めている。公園の方から微かに音楽が聞こえ、鳥は塒を目指して飛んでゆき、逃げないというのにシスターは私の腕を掴んで一軒目へと戻る。

 一軒目のマダムは私たちが戻るや否や「さっきお出しするのを忘れていたものがありましたの」と奥から箱を持ってきて、私は新しい二周目が始まる予感にぞっとした。

「これも素敵ですわね。私かなり好きですわ」

 シスターがそう言ったのを幸い、「じゃあこれにしましょう」と宣言した。どこかでピリオドを打たないと、帝都中の眼鏡屋を巡ることになりそうだと思った。

「ちょっと適当じゃありません?」

「いやこれで。シスターも好きと仰いましたしこれで」

「しかたありませんわねぇ」

 そう言いつつ満更でもなさそうなシスターは、「かけて帰ります」と勝手に決めてしまう。ついでに眼鏡代を払いそうだったので、慌てて止めて自分で支払いを済ませた。ここで金を出されるとろくなことにならない。遠からず二回目が開催されるおそれがある。

 買ったばかりの眼鏡をかけて店を出た。視界の端に金属のフレームが見える。慣れない。ただシスターは嬉しそうだ。

 バス停に人はおらず、ついさっきバスが出たばかりだということを確認した私たちは、屋敷まで歩いて帰ることにする。もうシスターは私の腕を掴もうとはせず、私は彼女の斜め後ろを半歩遅れて歩く。妙な達成感というか、ひと仕事終えた感じがした。

「とてもお似合いですわ」

 シスターが振り返って言った。

「そうですか」

「毎日おかけになったら」

「それはないです」

 慣れない伊達眼鏡はまだ顔の上で違和感が具現化したようで、たぶんこれから先も慣れるほどはかけないだろうから、ずっと違和感のままだろう。こちらをチラチラ振り返るシスターは、出会った日に殺気立って銃口を向けてきた彼女とは別人のようで、でも仮にもう一度ああいう状況に私たちが陥ったとしたら、そのとき思い出すのは、今日のようなどうでもいい日のことかもしれない。


 眼鏡はイサキお嬢様に大いにうけ、無事に一番重要な役目を終えた。その後は特に出番もなく、ケースに入って抽斗の隅にある。シスター・チヒロは不服らしい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

いつか思い出すかもしれないどうでもいい今日のこと 尾八原ジュージ @zi-yon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る