1-C 毒針

 公爵の言っていた毒針としての役割を果たさなければいけない日はポールの想像よりも早く来た。〈梟〉機関が属する真実省からの指令が届いたのだ。指令の内容は対象を殺すといういたってシンプルなものだった。


 殺害する対象というのはエリザベス・ヒルという女の殺し屋だった。写真に写る彼女はブロンドでブルーの目をした美しい女だった。ポールは殺す相手を考え過ぎてしまうと情を抱いてしまうのではないかという不安からその写真をそっと封筒へとしまった。どうやら政府の高官を殺したことがこの指令の原因だということも書類から分かった。写真以外の書類は封筒から出してから数十分経つと溶けて蒸発した。書類以外には彼女の声を録音したレコーダーも同封されていた。


 ポールは少し前に流れていたニュースを思い出した。真実省の高官が殺されたというニュースだ。そのニュースに関連しているのではないかと調べていくと様々なことが分かった。既にエリザベス・ヒルは指名手配されていた。〈梟〉にこの指令が下されたということは指名手配されてもなお逮捕に至ってないからだろう。そのような人物を見つけられるのかという不安がポールにはあった。書類から分かっているのは犯罪の温床になっている大都市クローシティにどうやら潜伏しているということだけだった。あまりにも少ない情報にポールは更に不安が募っていった。


 毒針としての役割はポールの想像よりはるかに難しいものだった。〈城〉からクローシティまでは車で十数時間を要した。到着したもののエリザベスがどこに潜んでいるのか大まかな検討すらつかなかった。クローシティは複雑な構造で地下にも街が広がり、ある人物が言った通り“図面では表現できない都市”だった。


 ポールは数日間クローシティ内を歩き、この都市の空気に馴染み始めたがそれでも全くと言っていいほどエリザベスの情報を得ることができなかった。夜に街灯が少ない通りを歩いていた時、ポールは精神拡張ドラッグを飲んだ。エリザベスが見つからないのではないかという不安が精神を蝕み始めて、その不安をドラッグの作用で消してしまいたかったのだ。


 時間が引き延ばされていく感覚と全能感が不安を飲み込み、すぐに心地よい気分になった。聴覚が遠くの音をすべて拾い、頭の中で無数の人の声がざわざわと聞こえてくる。その音すら快くに感じた。酸素マスクを着けてしばらくそこに立っていた。薬物中毒者もそう珍しくない場所だったのでポールの少し可笑しな行動も目立ってはいなかった。ポールは無数の声の中に一つの見覚えのある声を聞いた。それは待ち望んでいたエリザベスの声だった。レコーダーで聞いたあの声と全く同じだった。絡まった糸を解くように無数の声から彼女の声だけを聞き分けてその源へと歩を進めた。ナイトクラブの入り口にいる黒い外套を着た人へとたどり着いた。その人物はナイトクラブの中へと消えていった。おそらくあの人物はエリザベスだろう。


 ポールはエリザベスの行方を追おうとナイトクラブの入り口へと近づくと黒服の男に止められた。


 「会員証をご提示いただけますか?」


 「持っていません」


 「会員証が無ければ中に入れることはできません」


 ポールは黒服を衝動的に殺そうとしたが精神拡張ドラッグに飲み込まれていないわずかな部分がそれを阻止した。ポールがポケットに入っていた標準通貨をすべて渡すと黒服は言った。


 「今回だけです」


 ナイトクラブの中はけたたましい音にあふれ、音が直接に脳を揺らしているようだった。目でとらえたエリザベスから一定の距離をとって尾行しながら、電話を掛けた。これだけの音の中の電話は気づかれないだろうと思ったからだ。


 「仕事が終わりそうだ。処理の車を呼んでくれ」


 「後ろが騒がしいですが、そこの周辺に車を送ります。エビが描かれた配達用の白いバンです」


 「分かった。ありがとう」


 電話の対応は真実省の職員が行っているらしい。仕事で出た死体の処理の車の手配も同省の管轄だ。そして、車はどうやら料理屋の配達車のような見た目をしているようだ。


 エリザベスはゆっくりとナイトクラブの中を進み、奥の扉から外へと出た。ポールも急いで扉へと近づいて追いかけると外へと出るとそこは寂れた一時代前の商店街のような場所だった。再開発によって生まれた空は見えずに地下に埋まった数多い空間の一つだろう。エリザベスはその商店街でも一番奥の錆びた看板の店へと入っていった。数分でエリザベスが出てくると銀色のスーツケースを抱えて出てきた。また、ナイトクラブ経由で外に出るとポールは追跡をやめ、先回りをすることにした。数日でこの地域の道はほとんどわかっていたからだ。普段のポールであれば少しでもリスクのある選択は取らないが全能感が脳を包み込む今のポールは違った。


 前からエリザベスの靴音が微かに聞こえる。ドラッグによって強化された聴覚でなければ聞くことのできない距離だった。エリザベスとの距離が近づくにしたがって胸の鼓動が高まった。通常の聴覚でも靴の音が聞こえる距離まで近づくとポールは消音ビンを落とした。ビンは地面に落ちて割れると中から微かに白い煙が出てきて、辺りに広がっていった。消音ビンの煙は周りに音が響かなくなるという効果を持っている。仮にエリザベスが叫んでもその叫び声が広がることはない。


 腰に付けたダガーを抜き、コツコツとまたその距離を詰めていった。煙を抜けると現れたエリザベスはポールにリボルバーの銃口を向けていた。

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