その踵に菫

まんごーぷりん(旧:まご)

その踵に菫

「帰ったぞ。……おい、涼子! 早くしろ!」


 安普請のアパートの外から夫の声がした。インターホンは設置されているというのに、こんな夜更けに、近所に聞こえるような大声を出さないでほしいものである。ドアを開けると、夫がいつものように不機嫌そうな顔で、酒の匂いをぷんぷんさせながら立っていた。


「何をもたもたしているんだ」


 日本酒、おそらく高いものではない。帰宅途中にコンビニで買って、路上で飲みながら歩いていたのだろう。その奥にやはり安い酎ハイと、梅酒の匂いが混じっている。おつまみは、スナック菓子と枝豆、それに焼き鳥だろうか。彼は往々にして、友人との飲み会の後に、コンビニ酒を追加であおり、さらにその後家でも晩酌をする。あまりの酒臭さに、私はこっそり鼻を押さえた。この様子だと、服にも様々な食べ物の匂いがこびりついていることだろう。うちにある無香料の洗剤のみで、どうにかなるものだろうか。元来、嗅覚はかなり敏感である――その様子を、本人に見られたのが良くなかった。


「なんだその顔は。俺が臭いってのか」

「いえ、そんなことは。……ただ、飲みすぎは身体に障りますから」

「指図するんじゃねえ!」


 ふいに、夫の仕事用の鞄が私の真横を掠めた。


「主婦のくせに、偉そうに」


 三年前、私は調香師だった。夫の要望で、主婦となった。この人と一緒になっていなければ、今頃私は――









 夫との出会いは、親の紹介だった。母の高校時代の同級生の息子の彼は、当時大手の広告代理店に勤めていた営業マンをしていた。中学高校はサッカー部のスポーツマンで、誰が見ても好青年、といった風貌の彼は当初、大変好印象だった。彼は私より七つほど上。当時私は新卒で化粧品会社に就職したばかりの二十二歳。仕事を覚えるのに一生懸命で恋愛にはあまり興味はなかったが、幼い頃から女性一人で生きていくのは難しいと聞かされて育った私は、言われるがままの見合いに参加し、言われるがままに交際、そして出会ってから一年後に入籍をした。

 入籍してからまもなくして、夫は変わってしまった。――いや、本来の姿が現れたといった方が正しい。なぜならその兆しは、交際をしていた頃からその片鱗を見せていたから。ただ、親たちがやれ結婚だ孫だ、と勝手に盛り上がってしまっているのを見ると、どうしても交際を取りやめたい、婚約を破棄したいとは言えなくなってしまったというだけの話だ。そんな私は弱すぎたのだろうか。

 私が帰宅すると、彼はかならず鼻をつまんだ。


「化粧臭い。飯が不味くなる」

「ごめんなさい」

「いい年をして、結婚もした女が化粧だ美容だなんて……キャリアウーマンが聞いて呆れる」


 私が当時まだ二十三、四だったということは置いておくとして、彼は一日に一回は私の仕事に対する嫌みを言わずにはいられない人間であった。彼は私が化粧品メーカーで働くことを良く思っていなかった。私が所属していたのは、研究開発部門であり、他の食品会社や市販薬を売っているような会社で研究をしている化学系技術者と大差ない(むしろ、女性が多い職場であるだけに色恋沙汰の心配が少なく、いたって真面目な雰囲気の職場であった)と思うのだが、彼にとっては「化粧」というフェミニンなイメージがすでに受け付けないようであった。大学生の頃から周囲に華やかな女性がたくさんおり、就職後もそのような方を数々見てきたという。ハイスペックな男性をATMのように見ている、という先入観から、彼はそういう女性を強く毛嫌いしていた。化粧というのはそういう方々の象徴みたいなところがあり、幾分下卑たものとみなしている、という次第である。「自分の妻には、そういうのになってはほしくないな」と、まだ籍を入れる前から度々けん制されていた。

 彼は特に、香水を嫌っていた。


「香水をつける女は、ふしだらだし、自己中心的だよなあ」


 香りでモテようだなんて、浅はかにもほどがあるとのこと。そんな偏見を恥ずかしげもなく口にする。そんなことないわ、女性自身が好きな香りを身に着けて自分に自信を持つために使うケースがほとんどよ、と指摘すると、それならまさに自己中心的だよと吐き捨てつつ、その点涼子は、化粧も香水もつけなくても美人なのだから、と、褒めているように見せかけて、私の仕事に対する誇り、プライド、尊厳を少しずつ踏みにじったものだ。

 次第に、彼は私が行う家事すべてに文句をつけるようになった。共働きなのだから、貴方の協力も無いとすべてを完璧にこなすのは難しい。そう漏らすと、義実家の人間を呼び、一方的に罵倒された末、離婚してほしくないんだったらと否応なく仕事を辞めるよう指示された。仕事と夫なら、間違いなく仕事を選ぶ。そういうつもりでいたのに、世間体を気にする両親に懇願されて、結局私は夫を選ぶしか選択肢を与えられなかった。働き始めてから四年目だった。


「女性の仕事なんて、どうせ若い間しか食べていけないんだから」


 義母に窘められ、夫に罵倒されるたびに、仕事なんて言い訳にしなければよかった、と強く後悔した。


「涼子さんには期待していたのに」と、職場の先輩は私の退職を惜しんでくれた。最終出社日の夜、送別会の席で私は涙が止まらなかった。優しかった先輩方と別れるのが寂しいのもそうだし、好きだった仕事をあきらめなければならない無念も然り。それ以上に、新卒で、ほとんど知識もスキルもなかった自分に、お金と時間をかけて育ててくれた会社と先輩方への申し訳なさがぬぐい切れなかった。――夫と結婚さえしていなければ。このままこの会社に勤めていれば、私はフランスの研究所へ、留学のチャンスを得られる予定だった。先日、まだ退職が決定していなかった頃の面談で、管理職から「留学枠に推薦しても良いか」との意思確認があったのだ。結局、家庭の都合を理由に、貴重な留学の枠は別の社員に譲ることになったのだが、その頃はまさか、そもそも仕事を続けることすら許されないとは想像もしていなかった。

 帰宅後、私は初めて夫に殴られた。単純に、送別会からの帰りが遅かったからである。







 夫の希望通り、主婦になって、「働いていないくせに」と罵られる日々。おまけに、夫は当初働いていた会社を過度のストレスでやめた。今は知人の伝により、小さな会社に転職したという。何をしているのかは教えてくれようとしないのでよく分からないが、家に入れる生活費は大幅に減った。それでもなお、私を外で働かせようとはしてくれない。学生時代から集めてきた化学の学術参考書や、仕事で成果を上げるたびに自分へのご褒美として購入した高級な洋服類を売った。使いかけのメイク道具や、わずかに残った香水の瓶を見た夫は、「金にもなりゃしない、なんの価値もないがらくた」とゴミ箱に投げ込んだ。

 家事をこなす毎日は、実はあまり苦痛ではなかった。共働きだった頃から、すべての家事を自分が担っていたこともあり、むしろ身体的・時間的余力は今の方がよほどある。風呂釜を無香料の研磨剤で磨き上げる。食器類や服を洗う洗剤ももちろん、香りのないもの。柔軟剤なんてもってのほかだ。夫は香料を含んだものを強く嫌った。働いていた頃は香料の研究をしていた私が香りを楽しむことができるのは、今では洗濯物を外に干すときだけである。ベランダの外から、季節の花がほころぶのを眺める。今は、桜の季節。残念ながら、ソメイヨシノの花にはあまり強い香りがないが、その眺めは実に見事である。こういう毎日も、まあ、悪くはない。かつて大好きだったジャスミンやイランイランといったエキゾチックな花の香りを嗅ぐことはほぼなくなったが、日常に溢れる美しいものや小さな幸せを、ひとつひとつ見つける楽しさを、ここ最近ようやく覚えてきたのだ。先日、スーパーでまとめ買いをするために久々に外に出た。道の端に、紫色の小さな花が咲いているのを見つけた。――菫が咲くのは、桜の咲き誇る季節。ヴァイオレットの香水なら、何度か開発に関わったことがあるが、甘いけれど爽やかな香りが大変魅力的なのだ。


「涼子ちゃん?」


 背後から声をかけられ、振り向いた。


「董子さん」


 董子さんはかつての上司である。普段は温和で、あまり細かいことを気にしない質だが、仕事では結構細やかなことに気づく、とても頼りになる上司であった。


「元気にしてたー? 久しぶりに会えてよかった! 今日、会社の創立記念日で休みなのよ。だからこの子とお散歩してたんだけど――」


 小さなお子さんを片腕に抱きながら、彼女は私のもとへと駆け寄ってきた。涙で風景が滲む。董子さんの腕の中で、男の子が「このお姉さん会社の人ー? それともお友だち?」と騒いでいる。今はお友だち、と董子さんはつぶやいた。






「……やっぱり、仕事に未練が」

「はい。もともと本当に辞めたくなくて。でも夫が」

「そうだよね。三年前も、ずっとそう言ってたもんね」


 董子さんは、近所の公園で、私の話を聴いてくれた。これまでの三年間の生活。夫との生活がうまくいかないこと。金銭面での不安。元々、他人の前で見栄を張ることに意味を見出せない私は、恥ずかしいほどにすべてを話した。


「今すぐにどうにかしてあげるってのは難しいかもしれないけれど、もしも今後、仕事に復帰できる状況になったら、相談して。正直、うちの会社はあなたが戻ってきてくれたら大助かりだと思う。人手不足だし、あなたはかなり優秀な成績だったから。ブランクはあるけど、その辺は私がうまいこと」

「そう言ってくださるのはうれしいですが」

「そうだよねえ、問題は旦那さんの方だもんね」


 こればかりは私がどうこうできるってもんでもないからねえ、と董子さんは頭を抱えた。


「いえ。お話を聴いていただけただけでも――」


 そのとき、私のスマートホンの着信音が鳴った。普段は夫と義実家、たまに自分の実家からしか着信はないし、そのほとんどがメッセージアプリのものであった。しかし、今、私のスマホから流れているのは聞きなれない電話の着信音であり、表示されている番号はなじみのないものであった。


「ごめんなさい、董子さん」

「どうぞ、出て。詐欺電話なら切ればいいし」


 董子さんのお言葉に甘えて、私は電話に出た。それは、夫の会社からのものであった。


「……あ、小野さんの奥様の携帯でよろしかったでしょうか」

「はい」


 私と夫の名字は、小野である。


「落ち着いて聞いてください。今、小野さんが病院へ搬送されまして」

「……」

「ごめんなさい、急に。工業用のメタノールを大量に飲んで、それで」

「……」

「奥様?」

「大丈夫です。あの、それでどのような様子で」

「詳しいことは分からないのですが、発見したときには意識がなくて」


 搬送先の病院まで来てくれ、との指示があり、私はそれにしたがった。


 私は冷たい人間なのかもしれない。たしかに、クズみたいな夫であった。仕事をやめさせ、金銭的に追い詰め、大切にしていたものをゴミと罵り、たまに暴力も振るった。しかし、仮にも夫である彼が救急搬送されたと聞いても、多少驚きはしたものの気の毒には思わなかったし、心配にはならなかった。そんな自分に嫌気がさしつつも、これも妻の務めとて、病院へと足を運んだ。

 夫は、一命を取りとめた。発見が早く、処置が滞らなかったためである。しかし、視力を失った。命を絶とうとしたにもかかわらず生き永らえ、おまけに他人の手を借りなければ生きていけないようになったことを、彼は嘆いていた。元々、人間は他人の手を借りなければ生きていけない生き物であるということすら知らずに生きてきたのだな、この人は。こんな状況になってもなお、私は夫を冷ややかな目で眺めることしかできなかった。








 それからしばらく経って、私たち夫婦は、夫の両親との同居を始めた。


「それでは、行ってまいります」

「いってらっしゃい。……まったく、幸彦がこんなだってのに楽しそうにしちゃって、結構なご身分だこと」


 義母のイヤミをBGMに、私の新しい日常が始まった。事の顛末はこうだ。


 夫が頑なに教えてくれなかった再就職先は、化学薬品を扱う小規模な工場であった。その会社では、工業用エタノールにわずかに混合するためのメタノールを扱っていて、彼はそれを口にした。――彼もまた、現在の生活に満足していなかった。キャリアを一度降りた劣等感、見下していた妻の勤めていた会社よりずっと小さな会社に勤めることになったみじめさ。そして、命を絶つ決意をし、うっかり生き永らえたのだ。

 視力を失った夫は再び職を失い、介護が必要となった。当初、義実家からは私が夫の介護を二十四時間行うよう命じられたものの、強い気持ちで突っぱねた。幸彦さんが毎日飲んだくれていたせいで、貯金もないし、今や収入もない。私が外で働かなければ、私だけじゃなくて幸彦さんも野垂れ死ぬことになる。そう主張したところ、義両親との同居を条件に、私は職場に復帰することを許されたのである。夫の介護をしてくれるのであれば万々歳、と私は快諾した。

 董子さんの取り計らいもあり、私は元の会社に戻ることができた。大変幸運である。職を離れていた三年間で大きく変化したこともあるけれど、なんとかキャッチアップしている今日この頃だ。


 ある日の夜のことだった。長い残業の後、私は帰宅した。試作品のシトラスのミドルノートを持つフレグランスを身にまとっている。今年の夏に発売予定だ。結婚したばかりの頃なら、夫に嗅がれないように、どうにかして洗い流さなければと水道で手首が真っ赤になるまでこすったものだったが、今やそのような心配もない。


「涼子。帰ったか」

「ええ」


 鞄を置き、私は電気をつけた。夫は、一人でソファの上に座っていた。私の帰りが遅いことに腹を立てているのか不機嫌そうな声であったが、めいっぱいそれを抑えている。自分の立場は弁えている、という意思表示。お義母さんたちは、と訊こうとし、思い出す。たしか、夫の妹が里帰り出産をしたいとかで、今日から数か月の間、義実家に戻るのであった。


「この香りは」

「シトラス」

「……俺の実家の庭にも昔、蜜柑の木が植わっていた」

「そうですか」

「香りって面白いな」


 見えなくなったことによる価値観の変化が三割、私に対する媚売りが七割、といったところだろうか。


「たとえ見えなくても、黄色い実が目の裏に思い浮かぶような気がする」

「……生活が、豊かになりますよね。多少は」


 三年間、奪われ続けていた。ようやく、少しずつ取り戻しつつあるのだ。







 遅い夕食を食べ、風呂に入った後に、私は鏡台の上の小瓶を手に取った。――ヴァイオレットの香水、今年の春の新作。発売日の夜に購入したものだ。私はそれを、足首周辺にワンプッシュした。香水をほのかに香らせたいときには、この位置がおすすめである。

 風呂上りの保湿のために化粧水の蓋を開けると、リビングから声がする。


「涼子」

「はい」

「麦茶を入れてはくれないか」


 分かりましたよ、と返事をし、少々急いでリビングへと向かう。スキンケアの間くらい、彼のことを放っておいたっていいと思う。しかし、虐げられてきたこの三年間の癖はなかなか抜けない。呼ばれたらすべてを中断して彼のもとへと駆け付ける。それが当然だったのだ。

 麦茶の入ったコップを手渡す。


「これから寝るだけというのに、香水なんて使ってどうするんだ」

「寝香水という言葉をご存じないのですね」


 職業柄、朝に香水を振るのはあまりよろしくない。私はこうして、寝る直前に香水を楽しむのが好きである。ほのかに香る花々の香りは、安眠に最適なのだ。


「近づいてくれ」


 夫の方へ、一歩踏み出す。ヴァイオレットは、彼の好物なのだ。毎年春、義実家の大きな庭には菫が咲いていたからだという。

 彼は、私の足を手にとり、顔を近づけた。そんなに鼻を近づけて、幾分香りが強すぎやしないかと心配するが、彼は嫌がる様子も見せず、私の足の甲にキスを落とした。

 香水は、キスしてほしい場所につけるもの。シャネルの有名な言葉である。――私は夫に何を求めているのだろうか? 足の甲に落とすキスは、服従を意味する。実に不毛である。そんな相手と一緒に家族として暮らす意味とはいったい何なのか。

 しかし、今では覇気もなく、威張り散らかすことも怒鳴ることも忘れ、廃人のようになった彼と家族で居続けることを選択したのは、まぎれもなく自分自身なのである。これは同情か、それとも――


 難しく考えるのはよそう、と思い直す。大好きな仕事を再開できた。それだけで私の人生、十分じゃないか。条件付きの愛と赦しは、とてもリアルではないか。


「さあ、明日も早いですし、もう寝ましょう」


 夫に声をかけ、その手をとる。歩くたびに、私の踵からは菫の芳香が舞う。




『その踵に菫』――fin.

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