第3話 明日香たちは、事件の真相究明に乗り出す!

 城北大学キャンパスで、転落死体が発見された日の翌朝。

 村木家の食卓で、明日香の父一郎いちろうが、新聞を読みながら朝食をっていた。

 村木家は、4年前埼玉県所沢市に引っ越してきた。西武線の所沢駅から、ほど近いところにある3LDKのマンションを購入したからだ。それまでは、小平にある一郎の勤務先の社宅に住んでいたが、いつまでも借家暮らしでは、老後が心配と、一郎が一念発起いちねんほっきしたのだった。


 村木家は、父一郎と母洋子ようこ、明日香の4歳上の姉紀香のりかの4人家族。それに今では、愛犬『ポチ』が加わっている。ポチは薄茶色の柴犬で、5歳の雄。このポチも、マンションを購入した理由のひとつ。

 明日香が高校生の頃、突然洋子が犬を飼いたいといい出した。すでにふたりの子どもは手がかからず、すっかり子育てを終えてしまった洋子は、愛情をそそげるものがほしかったのだろう。だが、社宅では、ペットの飼育が禁止。犬を飼うには、転居するほかはなく、マンションを購入するにあたっては、『ペット可』が必須条件だった。


 東京に隣接する所沢は、ここ10数年で急激に発展。池袋まで電車で20数分。都内に通うのにも便利で、いわゆる『埼玉都民』の人口が年々増加している。

 所沢駅周辺の変貌も著しく、駅西口に西武百貨店、プロペ通りには、居酒屋、レストラン、カフェ、ブティック、パチンコ店など、数多くの店が軒を並べる。

 プロペ通りと昭和通りとの交差点から、西所沢までの昭和通り一帯に、高層マンションが建ち並ぶ。15階建てのマンションは数知れず、30階建ての高層マンションも、5、6棟空高くそびえている。

 村木家のマンションもその中のひとつで、15階建ての8階に居を構えた。明日香たちは、もっと見晴らしのよい上層階を熱望したが、一郎が、高いところは苦手だと主張し、結局、真ん中の8階で妥結。この階でも、夏は、数キロ離れた西武遊園地で打ちあげられる花火がよく見え、村木家の夏の風物詩になっている。


 一郎が朝食を食べ終えた頃、「ただいま」と、明日香がポチの散歩から帰ってきた。

「お帰り」と声をかけた洋子は、ポチの朝食の準備にとりかかる。

「さっきは、大変だったのよ。玄関を出たところで、お向かいのマイケルと出くわしちゃって。ポチが、いきなり凄い勢いで吠え出したのよ!」

 玄関で、ポチの足をウエットティッシュで拭きながら、明日香が口を尖らせた。マイケルとは、グレーのミニチュアシュナウザーで、雄の5歳。ポチと同い齢で、飼い主は向かいのマンションに住んでいる。

「まあ、ポチは、あの子が嫌いなのよね」他人事ひとごとのようにいう洋子は、ちっとも気にする様子はない。


 ポチは、犬としては比較的温厚で、決して人に向かって吠えたりすることはない。知らない犬や雌犬に対しても、まず吠えないが、特定の雄犬だけは別格で、姿を見ただけで、凄い勢いで吠える。

 なぜ特定の雄犬だけに吠えるのか、明日香たちにもよくわからない。顔を見ただけで、虫酸むしずが走るといった様子で、出会った瞬間、人が変わった、いや犬が変わったように、凄い勢いで吠えるのだ。まるで天敵にでも出くわしたように。困ったもので、その天敵が近所に5匹ほどいて、マイケルもその1匹だった。

「人間だって、ひとりやふたり、顔を見たくもない人がいるんだから。しようがないよね、ポチ!」一郎も、同調して気にかける素振りも見せない。


「お父さん、どうしたの? 今日は会社、お休みなの?」平日にもかかわらず、のんびり食卓に座っている一郎を見て、明日香は、怪訝けげんな表情をした。

「これから仙台に出張さ。2泊3日で。金曜日には戻ってくるけど。それより、昨日の転落事故が、新聞に出てるよ」

 一郎は、昨日明日香が通っている城北大学で起こった転落事故の記事が掲載された社会面をめくって示した。

 『城北大学で転落事故 女子大生死亡』という見出しが、社会面の左下に小さく出ていた。記事そのものは、大きな事件として扱われていなかったが、記事を読んで、明日香は、息がとまるほど驚いた。


 昨夜、転落死したのが、法律研究部の後輩、岡本真里菜だった。真里菜はまだ1年生で、学年が離れているので、深いつきあいはないが、夏合宿で一緒になって以来、顔をあわせれば挨拶し、ときには話したりする間柄だった。

「なぜ彼女が……?」生気を失くした表情で明日香が呟いた。

「知っている人?」心配そうに一郎が尋ねた。

「ええ、この人、法律研究部の後輩。まだ1年生なの……」

 新聞記事には、校舎の屋上から転落して死亡したというだけで、原因については触れておらず、目下警察で捜査中であると書かれていた。


 食卓に座り、しばらくぼんやりと新聞記事を眺めていた明日香に、洋子が声をかけた。

「なに、ぼーっとしてるの。早く食べないと、冷めちゃうよ!」

 洋子のひと声でわれに返った明日香は、洋子が用意したスクランブルエッグとトーストに、野菜サラダがついた朝食を食べ始めた。

 すると、ポチがドックフードに目もくれず、明日香の野菜サラダに入っているハムをもらおうと、クンクンと明日香の脚に鼻をりつけてきた。ポチは、ハムに目がないのだ。

「ダメよ! 犬は犬らしく、ドッグフードを食べなさい!」

 気が動転していたのか、明日香にしては珍しく、きつい口調でしかった。

 明日香の剣幕けんまくに驚いたポチは、すごすごと引き下がり、洋子の足元にうずくまった。

「そんなに怒らなくてもいいのにね。ポチは、ハムが大好物なんだから」洋子が気落ちしたポチを慰めていた。

 その様子を見ていた明日香は、両親の猫可愛かわいがり振り――いや、ポチは犬だから、犬可愛がり振りというべきか――にあきれながらも、ポチが可哀想かわいそうになり、ハムを数きれ与えてやると、ポチはダッシュで駆け寄り、満足そうに平らげた。


 朝食を済ませた明日香は、急いで出かける仕度をした。

 水曜日の今日は、1時限の授業がなく、2時限の労働法から授業に出ればよく、いつもは、のんびりするのであるが、明日香は、妙な胸騒ぎを覚え、ともかく大学に行ってみることにした。

 トレーナーにジーンズといういつもの姿に、靴はスニーカー。12月になり、寒くなったので、防寒用のダウンジャケットを着こんだ。

 トレーナーがヨットパーカーに替わることがあるが、下はいつもジーンズで、スカートを穿くことはまずない。親友の麻衣子が、ジーンズを穿くことがないのとは、対照的。


 身長155センチで比較的小柄な明日香は、どちらかといえば父親似。人並みの容貌と自覚しているが、あまり格好を気にしない。

 髪はショートカット。ショートカットが自分に似あっているとは、思っていない。単にセットするのが面倒なだけ。パーマをかけたり、染めたりもしない。今どきの女子大生にしては珍しいと、家族には呆れられている。

 大学生になった頃、姉の紀香に念入りに化粧の仕方を教わったが、それっきり。今は、洗顔の際、化粧水をつける程度で、本格的に化粧をすることはない。薄めの口紅をリップクリームのように塗るだけで、それ以外は、なにもしない。

 母親からは、「あなたもいい齢なんだから、少しは女らしく、化粧ぐらいしなさい!」と小言をいわれるが、気にする素振りも見せない。


 姉の紀香は母親似。目鼻立ちがすっきりした美人で、身長が5センチほど明日香より高く、スタイルもいい。

 姉曰く、男が5人そばを通ると、必ずひとりは振り返るという。自分の容貌とスタイルに自信をもっている。出かけるときは、念入りに化粧し、洋服だけでなく、アクセサリーなど、身につけるものすべてにお金をかけ、お洒落しゃれをする。

 それが、女としては当然だと思っている。男が振り向かない女になってしまえば、女も終わりだというのが、彼女の持論。


 幼い頃から、姉とよく比較された。

 明日香のお姉さんって、美人ね、可愛いね、格好いいね、スタイルいいね。嫌というほど、聞かされた。

 この反動ではないが、明日香は、格好など、一切気にしないように努めている。姉をねたんだり、うらやんだりして、ひがんでいるわけではない。外見上いくら格好よく見せても、意味がないと思うからだ。人間は中身なのだ。中身のある人間になりたい。ただそれだけで、今は、法律の勉強しか頭にない。

 でも、もし将来好きな人ができて、その人のために自分をよく見せたくなることはあると思う。そのときは、思いきりお洒落しよう。それまでは、今のままで十分だと割りきっている。

 姉からは、「若いうちからちゃんと手入れしないと、けこむのが早いよ!」と、たびたび脅されているが……。


 明日香が、身支度を整えてリビングに戻ると、一郎は出かけたあとだった。

 出版社に勤めている紀香は、昨夜終電で帰ってきたようで、まだ寝ている。

「いって、きまーす!」玄関のドアを開けながら洋子に声をかけると、ポチが、いかないでと、すがるように甲高く鳴きながら玄関まで走ってきた。

「じゃーあね、ポチ。お留守番、よろしくね!」ポチの頭をでてやり、大学に向かった。



 明日香は、大学につくと、すぐに11号館にいってみた。

 出入口の封鎖は、解除されていたが、転落現場となったドライエリアと屋上は、警察の立入禁止のテープで囲われたままだった。

 10人ほどの学生が、興味津々きょうみしんしんにドライエリアをとり囲んでいた。その学生たちに混じり、明日香が呆然ぼうぜんと立ちすくんでいると、後ろから呼びかけられた。

「明日香、君も気になったんだね」

 振り返ると、『ミニコバ』こと、小林聡が立っていた。

 ミニコバの身長は、160センチに届いておらず、明日香とほとんど変わらない。小柄なのと、あどけなさの残る顔つきで、幼く見えるが、1浪しているため、齢は明日香たちよりもひとつ上。彼も法曹を目指し、猛勉強をしているひとりだ。


「朝、新聞で、昨日ここで亡くなったのが真里菜さんだと知って、驚いちゃって……」

「僕もさ。自殺じゃないかって、噂だよ」

「自殺? ほんと?」明日香はさらに驚いた。

「殺人や事故だったら、現場保全のため今日1日、臨時休講になるって、さっき会った友だちがいってたよ。休講にしなかったのは、自殺の疑いが濃いからだろうって……」

「自殺って……。真里菜さんは、自殺するような人じゃないわよ」

「片瀬も同じことをいってたよ。そういえば、昼休み、部室に集合してくれって、部長からの伝言、伝えたよ。僕は、用があるから出られないけど……」

「ええ、わかったわ」明日香は、伝言がなくても、真里菜の情報を集めるため昼休みに部室に顔を出そうと、思っていたところだった。


 2時限の労働法の教室でも、真里菜の転落死について、噂話に華が咲いていた。

 授業が終わると、明日香は、急いで法律研究部の部室に向かった。部室は、古い軽量鉄骨造りの2階建ての校舎、7号館の2階にある。この7号館は、1部屋約15平方メートルの部屋が30室。文化系サークルに貸し出されている。

 部室には、部長の片瀬信介と『エルコバ』こと小林光明、それに北原麻衣子と1年生の女子数名が、すでに集まってテーブルを囲んでいた。


「村木、昨日11号館で死んだのが、1年の岡本真里菜らしいぞ! 知ってたか?」明日香の顔を見るなり、片瀬がいった。

 大学内では、明日香は、『明日香』または『明日香さん』と、名前で呼ばれているが、片瀬だけは、『村木』と苗字で呼ぶ。関西人は、つきあってもいない女性をファーストネームで呼ぶほど、チャラくはないらしい。

「ええ、新聞に名前が出てたわ」

「こんな事件、わが法研創部以来の大事件や! 今、皆で話しおうて、『捜査本部』を設置しょうかと、思うんやけど、どうや?」

「えっ、捜査本部? なにそれ? 捜査は、警察に任せておけば、いいでしょうが……」呆れた表情で明日香が答えた。


「なにをいうてんねん。殺人事件やぞ!」むきになって片瀬が反論した。

「真里菜さんは、殺されたの?」

「まだはっきりしたことは、わからへんけど……」

「さっき、ミニコバに会ったら、自殺という噂があるようなこと、いってたよ」明日香が、ミニコバ情報を披露した。

「でも、そのセンはないやろ……。岡本は、どう見ても、自殺なんどするタイプやあらへんで」

「あたしも、そう思うけど……」

「どちらにしろ、『捜査本部』は大袈裟だけど、部でも、調べようということにしたんだよ。僕たちの仲間が、ひとり死んでいるんだから……」エルコバが、真剣な眼差しでいった。


「ところで、彼女は、昨日どうしてたの?」明日香が誰にともなしに尋ねた。

「午前中のフランス語とキリ倫は、出てたようよ。さっき、同じクラスの女の子が、そういってた」麻衣子が答えた。「キリ倫」とは、キリスト教倫理学のことで、ミッション系の城北大学では、全学部で必修になっている。

「午後は、どうしたの?」

「それがまだわからないのよ。わかっていることは、夜の6時すぎ、11号館の屋上から転落したということだけよ」麻衣子が真面目な表情でいった。

 明日香は、ついさっきまで元気だった仲間が、突然死んでしまったことをいまだに受け入れられずにいた。いったい真里菜に、なにが起こったのだろうか? いくら考えても、その答えが思い浮かぶはずもなく、苛立いらだちが増すばかりだった。


 今年の夏、清里で行われた夏合宿。明日香と片瀬がコーディネーターになり、憲法の基本的な論点を勉強する自主ゼミが開催された。10名程度の1年生が参加したが、その中に真里菜の姿があった。真里菜は、参加した1年生の中では、目立つ存在ではなく、自主ゼミの中でも、積極的に発言することはなかった。

 明日香が真里菜の人となりを知ることもなく、夏合宿が終わろうとした最終日。偶然打ちあげコンパで席が隣りになり、真里菜と話をする機会に巡りあえた。


 明日香は、真里菜に入部の動機を聞いてみたが、その答えは、素っ気ないものだった。てっきり明日香のように法曹界を目指している、将来は弁護士になって困っている人を援けたい、というような返事を期待していたのだが……。

 真里菜は、法学部に入学した以上、しっかり法律の勉強をしたいだけ。払った授業料分は勉強しないと、お金が勿体もったいない。法曹に憧れてもいないし、難しい司法試験に合格できる能力が、自分にあるとも思っていない、と答えた。

 非常に割りきった考え方だ。叶えられない夢は見ない。客観的に自分の能力を推し量り、無駄な努力はしない。ある意味で合理的で大人びた考え方であるように明日香には思えた。

 その真里菜が死んだ。遺体を見ていない明日香には、いまだに信じられなかった。


「それで、『捜査本部』として、これからどうするの?」気をとり直して明日香は、片瀬に尋ねた。

「とり敢えず、岡本の昨日の足どりを追おうと思てるんや。昨日の午後、岡本と一緒だった者を捜そうかと思て、1年に聞きこみに行かせたわ」

 片瀬は、すでに部長としてのリーダーシップを発揮していた。

 果たして部員たちだけでどこまで調べられるか、明日香は、半信半疑であった。他方で、真里菜の死の原因を自ら調べ、もし真里菜が誰かに殺されたのであれば、犯人を見つけ出したいという想いに駆られていた。

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