君は光の中に消えた

永多真澄

君は光の中に消えた

「すいません、火にあたっても良いですか?」


 針のように細い秋雨の降る日だった。橋の下で火を炊いて暖を取っていると、不意にそんなふうに声をかけられたのは。

 見やれば、それは若い女だった。年の頃は、きっと二十はたちに届いてはいまい。身に纏う制服と思しきブレザーはじっとりと雨を吸い、見た目にずしりとした重みがあった。

 指先が微かに震えていた。


「構わないが、見たところ学生さんだね。早く家に帰ったほうがいい」


 言いながらも少し場所をどいてやると、女は小さく頭を下げてから隣に座った。


「ちょうど家から飛び出してきたところなので……」


 いささかの気恥ずかしさに、若干の後悔が混ざってはにかむそのかんばせは、近くで見ればそれなりの美人だった。少し勝ち気そうな切れ長の目を、少女らしさを残す丸みを帯びた輪郭が上手く中和している。よく見ると目尻が腫れぼったく赤らんでいて、大まかな経緯は察することができた。涙のあとは、おそらく雨が巧妙に隠したようだったが。


「家出かい?」


「そんな立派なものじゃないです。衝動的に飛び出しちゃったのは、そうですけど。家を出たって、一人で身を立てるやりかたなんてわかりませんし」


 女はぶるりと背を震わせた。


「頭を冷やすつもりが、冷やしすぎてこうして火にあたっていると。なんとも本末転倒だね」


「お恥ずかしい。私、やっぱり馬鹿みたいで」


 女はまた自嘲含みに笑んで見せる。そしてしばしの静寂があった。

 ねずみ色に淀んだ空から、絶え間なく秋雨が落ちる。世界はどんよりと彩度を落とし、いずれ来る冬を予感させた。

 木枯らしが吹く。

 暗く停滞した世界にあって、炎だけは有り余る活力を風に揺らめかせていた。ぱちりぱちりと薪が、時に大きく爆ぜては火の粉をちらす。


「私、音楽家になりたいんです。声楽の」


 唐突に、訥々と。誰に尋ねられるでなく、女は独白のように喋りだした。炎が揺らめいて、女の顔に複雑な陰影を描き出す。


「小学生の頃に「アイーダ」を見て……あ、知ってます? アイーダって。歌劇の……」


「知っているよ。ヴェルディだろう?」


 女は少し驚いたようなそぶりを見せた。無理もあるまい。橋の下で火を焚いて寒さを凌いでいるような輩には、あまり縁のない分野ではあるのだし。


「お詳しいんですね」


 その意外そうな顔が可笑しくて、私も少し笑った。


「そういう仕事をやっていたこともあってね。ずいぶん昔のことだが……それで?」


「ああ、はい。いや、改まっていうほどじゃないんですけどね。感動しちゃって、私もなりたいって、思って……」


 どこか遠くを懐かしむような口振りが、次第に沈んでゆく。ばちりと大きく火が跳ねた。少しの沈黙が降りる。

 静寂の中、私は灰をかき混ぜて、火の中から銀紙に包まれたおおぶりな塊を取り出す。その熱さに苦心しながら、銀紙をほどいた。


「少し贅沢をしようとしたんだが、どうやらちょうどよかったな」


 銀紙に被覆されていたのは煤けた新聞紙の塊だった。気が付いた女が興味深そうに手元をのぞき込んでくるので、私は少し焦らすように作業を進めた。新聞紙を毟り取ると、出てきたのは赤紫色の皮をところどころ焼け焦げさせた、食いでのありそうな甘藷サツマイモだった。それを半ばで折る。薄黄色の身がほぐれ、ほわりと湯気が立ち上った。いい焼き加減だ。


「どれ、これでも食べて落ち着きなさい。まだずいぶんと寒そうだからね」


 その片割れを差し出すと、女は短い逡巡ののち、それを受け取った。


「あちち……あの、いいんですか?」


「いやなに、今年は豊作でね。そこの河川敷に勝手に植えているんだが、適当に葉をむしってやればすぐにここまで育つのがこいつのいいところさ」


 剥いた皮を火に投げ入れて、身にかじりつく。歯を火傷しそうな熱さと、しっとりとした触感、主張しすぎない甘みが、湯気と共に口内に広がる。中までよく火が通っていた。

 はふはふと秋の味覚に舌鼓を打ちながら、女のほうを窺う。女もまた焼き芋にかじりついては、頬を緩ませていた。こちらの頬も緩む。


「コーヒーでも淹れてあげられれば良かったんだが、あいにく手持ちがなくてね」


「あっいえ、おかまいなく。あの、ありがとうございます。お芋、おいしいです」


 女の顔から憂いが消えているのをみて、少しばかり安堵しながら再び芋を頬張った。こう寒くなってくると、炭水化物のうまさは暴力的だ。しばし熱々の芋と格闘するため、河川敷には三度静寂が下りる。先程と違い、いくらか心地のいい静寂だ。とはいえ大振りとはいえ半分に割った芋などは、あっという間になくなってしまったのだが。


「これは少し不躾すぎるかもしれないんだが」


「はい?」


 しばし食休みをして、静寂を破ったのは私からだった。女はきょとんとした顔でしばらく呆けていたが、自分がここにいる理由を思い出したようで素早く居住まいをただすと、神妙な面持ちで私の言葉を待った。


「一曲、歌ってみてはくれないかな」


「歌、ですか?」


 女は怪訝な顔で私を見た。


「君、結構自主練習しているだろ」


「それは……どうしてそう思うんです?」


「まあ、勘だがね。ただ家を飛び出して、わざわざこの橋の下まで君は来たわけだろ」


 懐中から煙草を出し、火をつけようとしてやめる。


「おっとすまないね、つい癖で。……ここは川に吸われるのか、案外外に音が漏れにくいだろう。歌の練習をするには、ちょうどいい」


「なんだか探偵さんみたいですね」


「知り合いにそういう仕事をやってるのはいたね。で、どうかな?」


「ご明察、正解です。――わかりました。お芋のお礼もありますし」


 女は少し気恥しそうに微笑んで、意を決したようにすっくと立った。

 数歩焚火から離れると、手のひらを胸にやり呼吸を整える。ややあって、口を開いた。



///



「私はあの時、てっきり凱旋行進曲でもやるものだと思っていたんだがね。じっさい君の口から出てきたのは「小さい秋みつけた」だったから、ずっこけてしまいそうになったものだよ」


「やだわ先生、もう二十年も前のことじゃないですか」


 女は化粧台の前でそうコロコロと笑って、次に過ぎ去った日々に思いを馳せた。


「でもね先生。それでも先生がこの道を奨めてくだすったから、私は今ここにいるんですよ」


「かいかぶりだなあ。私は結局、根性論と場当たり的な助言を2,3しただけで、あとは全部君の努力だろう」


 出されたコーヒーを啜りながら言う私に、女はひどく心外そうな顔をして見せた。そして、すぐに笑顔に戻る。


「ま、先生ならそうおっしゃるんでしょうけど。それに、この公演のキャストを選んでくださったのは先生でしょう」


「それこそ心外だな。私は実力でしか選ばないし、もちろん多くの人間の総意があってこその配役だ。あまり見損なってくれては困るよ」


「あら、ごめんあそばせ」


 年甲斐もなく私が拗ねてみせると、女はとても楽しそうに笑った。そこで、控室の戸が開く。


「準備お願いします!」


「あら、そろそろね」


 まだ若いスタッフの声に、女は慌てた様子もなく席を立つ。華美な衣装を翻して、ただ一人の客に見せつけるように。


「では先生、存分にお楽しみください。袖までいらっしゃる?」


「いや、私は席で楽しませてもらうよ。席で見て一番美しくなるように作られているものだからね」


「そうでした。少し無粋だったかしら」


「いや、その気遣いに感謝するよ。よい舞台を」


 女は答えず、ただ妖艶な笑みでもって返した。そこには初めて会った時のような自嘲は微塵もなく、ただ経験と技術に裏打ちされた自身だけがある。


 見送る私の視線の先で、君は光の中へ消えた。

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