エピローグ

生きて

「はぁ……はぁ……疲れた……」

 長く険しい階段を登り切り、ようやく墓地に辿り着いた。既に青息吐息だが、肝心の用事はここからである。私はへばった体に鞭打って顔を上げた。

 山林の一部を切り開いて造られたこの墓地は、当たり前だが周りを木々に囲まれていた。眠っている故人たちには失礼かもしれないが、典型的な心霊スポットといった風情がある。ただし、日中の明るい時間帯であることと、私の他にも参拝者がちらほらいることとで、今は不気味さをほとんど感じないけれど。

 建ち並ぶ墓石の間を歩き、墓地の少し奥まった場所へやってくる。そこに、私の友人が眠る墓があった。墓石の正面には、こう刻まれている。


 桜井家之墓


「久しぶり、陽子。また来たわ」

 私は懐かしい友の名を呼んだ。

 じん、と淡い切なさが胸に広がった。



 九年前、陽子は人工心臓を装着した。自前の弱った心臓のままでいるより、人工心臓を使った方が期待される生存期間が長かったため、心臓移植を受けるまでの時間稼ぎとして適用されたのだ。

 それから陽子は、懸命に生きた。

 人工心臓は身体の外に駆動装置を配置するため、使用者に厳しい行動制限が課せられる。活発な気質だった陽子にとって、それが耐えがたい苦痛であったことは想像に難くない。だが彼女は我慢した。不自由を受け入れ、延命のために最善を尽くした。彼女に生きていてほしいと願う人々に応えるために。

 そんな陽子のことを、私はできる限り支えた。といっても私にできたのは、彼女に会いに行って話し相手になったり、勉強を手伝ったりといったくらいのことだ。それでも陽子は退屈が紛れて助かると喜んでくれたので、私はちゃんと学校に行くという約束は守りつつ、余暇のほとんどを彼女の見舞いに費やした。

 結局、私たちは週一回は顔を合わせていたと思う。陽子は頻繁に訪ねてくる私に呆れながらも、いつだって笑顔で迎えてくれたのであった。

 人工心臓の効果は覿面てきめんで、陽子は元々言い渡されていた余命を大きく超えて生きた。

 しかし。待ち望む心臓移植のチャンスは一向にやって来なかった。元々競争率が高い移植であったことに加え、臓器移植の法改正を受けてレシピエントが急増したことで、救済の門は針の穴のごとき狭さになっていたのだ。

 陽子に心臓を提供してくれるドナーはついぞ現れず。

 六年前の冬。

 陽子は人工心臓由来の血栓によって脳梗塞を起こして、一七歳の若さでこの世を去った。

 聡子さとこさん――陽子のママのことである――から訃報を聞かされたとき、私は世界が滅んだかのような絶望を味わった。あまりにも急で、前触れのない悲劇だった。人工心臓にはどうしても、血栓を生じるリスクが常に付き纏う。私はそれを理解していたつもりだった。だけど、最後に会ったときの陽子の様子は普段通りで、まさかその数日後に命を落とすなどとは露ほども思わなかったのである。

 それからは、悪夢のような日々だった。

 訃報が届いた日は一晩中、涙を止めることができなかった。部屋で膝を抱えて、ただただ悲しみの淵に溺れた。

 その翌日。私は陽子の通夜に参列して、彼女の遺体と対面した。死に装束を纏って棺の中に横たわる彼女の顔は綺麗なもので、眠っているのだと言われても信じられるほどであった。だが、頬に触れた指に伝わってきた冷たさは、彼女が死者であることを如実に物語っていた。

 陽子が死んだという現実を否応なしに叩き込まれた私は、その場に崩れ落ちて慟哭した。その日は、人生で一番泣いた日になった。

 それから私はしばらく塞ぎ込んだ。深く重すぎる悲しみにし潰されて何もできなくなり、陽子との約束を破って学校を休み部屋に閉じ籠った。

 私はその間、陽子が如何いかに大事な存在だったかを思い知った。そんなことは彼女の生前も充分に分かっていたつもりだったが、死して初めてその大きさに気付かされた。陽子は掛け替えのない友人であり、共に病と闘った盟友であり、私に生きる理由を与えてくれた恩人だった。そんな彼女がもうこの世にいないことに、半身を失ったかのような喪失感を覚えた。

 そして、陽子が死んでから六日後。

 相変わらず部屋に引きこもっていたとき、壁に掛けてあった絵がふと目に留まった。それは陽子から贈られた私の絵であり、額縁の中の自分は明るく笑っていた。

 陽子はその絵で、二つの事柄を表現した。

 一つは、陽子がどれだけ私を好きかということ。

 もう一つは、私に笑顔で生きていてほしいということ。

 その意味を思い出したとき。

 在りし日の記憶が蘇った。

 私を救った言葉が、彼女の声で再生される。


『一生のお願い。自分に自信を持って。そしてどうか笑って、前向きに生きて』


 その瞬間、私の胸に火が灯った。その火は冷えて乾いた心を温めると同時に、動き出すための原動力となる。

 陽子は私に、笑って生きていくことを望んでいた。

 その願いを叶えるために。

 いつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。

 私は立ち上がった。

 歩き出して、暗い部屋を出た。

 無理矢理笑った。

 涙がたくさん溢れた。

 それでも私は笑い続けて。

 そうして、陽子の死を乗り越えた。



 翌年、私は大学受験を迎えた。

 病に深く関わりのある人生を歩んできた影響で、兼ねてより医者になることを望んでいた私は、必死で勉強に取り組んだ末に、地方国立大の医学部への現役合格を決めた。

 それからもう早五年。

 私は循環器科の医師を目指して日々医学を学びながら、充実した人生を送っている。



「――それで、いよいよ豚の心臓を使った心移植の実用化が始まりそうなのよ」

 墓石を清掃しながら、私は陽子に向けて近況を報告していた。これは墓参りに来たときに欠かさずやっていることである。理系の人間にあるまじき考えかもしれないが、もし陽子の魂がここにあったらと思うと、話し掛けずにはいられないのだ。

「あ。移植といえば、先々月のシンポジウムで聡子さんとご一緒したわ。相変わらずものすごく努力されてたわよ」

 私は陽子のママのことを話題に上げた。聡子さんは陽子を亡くして以降、臓器移植の啓発活動に精力的に取り組んでいる。移植について多くの人に知ってもらい、協力してくれるドナーを増やすことで、陽子のように不幸な結末を迎える人を少しでも減らすことが目的だった。陽子を失った傷を共有する者として、私も微力ながらたびたび力添えをさせていただいている。

 掃除を終えて、仏花のお供えなどのやるべきことも一通り済んだ。これで今年の墓参りも無事お終いとなる。

 引き上げの準備を整えた私は、改めて墓石とまっすぐ向き合った。

 去り際に掛ける言葉は、毎年同じにしている。

「あなたのおかげで私は今も生きているわ。ありがとう。陽子」

 そして私は、最愛の友人に飛び切りの笑顔で別れを告げた。

「また来るわ」



 生きて。

 あなたがそう望んでくれたから。

 私は今、生きていた。



< 『あなたに生きててほしいから』 完 >

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あなたに生きててほしいから 君塚つみき @Tsumiki_Kimitsuka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ