願い

25

 柔らかな陽光が降り注ぐ、麗らかな昼下がり。

 そろそろ来る頃かなあ。なんて考えていたら、ちょうど入口のドアが開いた。

 病室を訪ねてきたその人物は、思わず目を引かれる美しい少女だった。精巧にカットされたダイヤモンドを彷彿とさせる整った顔形に、山奥を流れる湧き水のような清涼さを感じさせる切れ長の大きな目。ブレザーとプリーツスカートの真新しい制服には初々しいフレッシュさがあり、長い黒髪をたなびかせて歩く彼女の姿は爽やかなそよ風を思わせる。

「来たわ。元気?」

 彼女――萩原早苗は、私に向けてたおやかに微笑み掛けた。

「やあ。元気だよ」

 ベッドテーブルで学校の勉強をしていた私は、シャープペンを置いて来客に応じる。

「相変わらず早いね」

 私の予想通り、今日も彼女は一三時を少し過ぎたこの時間に現れた。この病院では、入院患者へのお見舞いは一三時から一七時までと刻限が定められている。つまり、早苗はお見舞いが可能になってからすぐここにやってきたというわけだ。

「あなたが退屈しているだろうから、早く来てあげてるのよ」

 したり顔でそう言う早苗に、私は苦笑いを返す。

 早苗の気持ちは嬉しい。だが半面、私は複雑な思いを背負っていた。

 なぜ、大好きな友人が会いに来てくれたことを素直に喜べないのか。

 その理由を語るには、二ヶ月ほど月日をさかのぼらなければならない。



 困難な手術を乗り越え奇跡の生還を果たした早苗は、その後も目覚ましい回復を遂げた。リハビリは滞りなく進み、脳機能の障害や細菌の感染といった後遺症も見られず、もちろん腫瘍の再発もなかった。早苗は順調に健康な状態を取り戻していった。

 ただ一つ、心の問題を除いては。

 死ねなかったことを嘆いて涙した日からずっと、早苗は塞ぎ込んだままだった。私のために命を捧げるという本懐を果たせなかったことが相当堪えたようで、彼女は病気が治ったことを微塵も喜ばず、いつも暗く沈んだ顔をしていた。

 心は置いてけぼりになったまま、身体だけが元気になって。

 手術から八日後。早苗は退院することになった。

 その日のことはよく覚えている。春の頭の先が見えてきたというような少し暖かい日だった。

 葵さんの迎えで家に帰る早苗を、私は一階のロビーまで見送りに行った。長年病院の外側と無縁だった早苗はまともに着られる私服を持っていなかったらしく、その日は葵さんがサイズだけ合わせて見繕ってきたグレーのスウェットパーカーに身を包んでいた。部屋着同然の装いだったが、中身の人間が一級品ゆえ、やたら様になっていたのが印象に残っている。

「改めて。退院おめでとう、早苗」

 病棟の出口の手前で、私は早苗の新たな人生の門出を祝った。早苗が普通の生活に戻れることが、私はとても嬉しかった。

 しかし対する早苗は、名残惜しそうに唇を噛んで俯いた。家に帰りたくなくてねる子供のような挙動に、私と葵さんは表情をかげらせる。

 そのときの早苗の心境は、手に取るように分かった。

 早苗は、退院していく友達に置いていかれるつらさを経験している。友達が去って独りになることにトラウマがあったから、彼女は私と友達になったとき、ずっと傍にいてほしい、などといういじらしい約束を迫ってきたのである。

 その約束をよもや自身がたがえることになるなんて、早苗は考えもしなかったはずだ。そしてそのことについて重い負い目があるのだろう。許されるならば入院を継続するとでも言い出しかねないような様子だった。

 けれど、早苗が病院に居続ける理由はもうなかった。どんなに後ろ髪を引かれようとも、彼女は私のことに踏ん切りをつけて巣立って行かねばならない。

「そんな顔しないで。病院の外にはきっと、楽しいことがいっぱいあるから。色んなことを経験して、たくさん学んで、自分のやりたいことを見つけてほしいな。私のことは、気にしなくていいから」

 私は早苗にエールを送る。

 寂しくない、と言えば噓だ。難病という共通項で繋がり、お互いに支え合ってきた早苗がいなくなることに、思うところがないわけではない。だが、早苗が日常を取り戻したことに比べれば、私が感じる寂寥せきりょうなんてちっぽけなもの。だから、私は笑顔で早苗の背中を押す。

 しかし。早苗は依然として不服そうだった。

「でもそれじゃ、あなたが……」

 病院に独り取り残される私のことを、早苗はまるで自分のことのように心配していた。その悲痛な様相はとても見ていられなくて。毅然と見送るつもりだった私は、少しだけ本心を晒す。

「本当はちょっと寂しいからさ。たまにでいいから会いに来て。そしたら私は大丈夫だから」

 内緒話をするみたいにそう頼むと、早苗はバネ仕掛けのように勢いよく顔を上げた。

 私たちはもう会えなくなるわけではない。早苗の家もこの病院も同じ市の中。見舞いに来るくらい造作もない距離だ。もちろんその気があればという前提だが、彼女に限っては論じるまでもないだろう。

 私のお願いを聞いた早苗の目に、みるみるうちに輝きがみなぎった。

「……行く。絶対会いに行くわ」

 そう言って、早苗は久方ぶりに笑みを見せた。私が孤独になるわけではないと理解し、彼女の気は多少晴れたようだった。

 別れ際、私たちはハグを交わした。

 長く共に過ごしてくれたことへの感謝と、新たなスタートを切ることへの激励を込めて、私は早苗をぎゅっと抱きしめた。

 決してなくならないであろう友情を互いに確かめ合った後。

 病院の外へ出ていく掛け替えのない友の背中を、私は快く見送ったのであった。



 かくして、早苗は社会復帰を果たせた――かのように思えた。

 しかしそれが間違いだったことを、私はすぐに知る。

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