箱舟には2人と1匹

鹿島さくら

箱舟には2人と1匹

 今ではほとんど誰も使わないようなビルに入ったのはこれで3度目だった。埃と湿気のにおいのする建物に入っても君は顔色一つ変えず、堂々たる、令嬢然とした足取りで僕を先導する。

「先走りすぎないで、危ないからさ」

 僕が言ったって、君は聞きやしない。それにムッとしたのが伝わったのだろうか、振り返って平気だという君のオリーブ色の瞳の凪いだ輝き。

「平気ったって、多分このビルほとんど誰も手入れしてないぜ。床が抜けたりネズミがいるかもしれないしさ。窓ガラスもほら、割れてるんだから」

 傍のエレベーターが目に入るが、あれも動いているか怪しいところだ。

「あら嫌だ、ブーツも履いて応急手当セットまで持ってきたのに? それに、人生なんて所詮出たとこ勝負でしょう?」

「君のは無計画と言うんだぜ」

「勇気があると言ってちょうだい」

「向こう見ずの間違いだろう」

「……あ、いたわ、エリックよ!」

 言いながら、部屋の隅の日焼けした椅子の上に長いしっぽと三角の耳を見つけた君は白いブーツが汚れることも構わない様子でそちらに駆けていく。あーあー、危ないから走らないでって言ったはずなんだけど。

「エリック、またここに来ていたのね。戻りましょう、アンナが心配してたわ」

 そうだぞ、エリック。お前のご主人の心配ぶりは見てられなかった。人生における大体の苦難は何とか乗りこなし受け流してきただろう人が、エリック、お前みたいなやせっぽちの猫のことになると途端に取り乱して子供のように泣きじゃくる。……おい、なんだ、何度も迎えに来てやってるのにお前は本当に僕にだけ態度が悪いな。

「アンナが私の事務所で待っているわ。さ、帰りましょう」

 君の白い鳩みたいな優雅な手が最近ちょっとマシな感じになってきた猫を抱き上げる。最初に見た時は骨と皮だけみたいで、毛が禿げてるところもあって悲惨だった。それはそうと、事務所に帰ったら念入りに君のコートをブラッシングしないと。猫の毛だらけのコートで外出させたなんてことがあっては今は亡き旦那様と奥様に申し訳が立たないというものだ。

「そうだわ、せっかくだしそこのエレベーターを使いましょう」

 ……君はまたいったい何を言い出すんだ。そう言いたいのが顔に出ていたのだろう。

「実は前から気になっていたのよ、動くかどうか」

 君はこともなげに言うが、ただ単にエレベーターが来ないだけならともかく、うっかりカゴが来て中で閉じ込められた時が最悪なんだぞ。

「やめなって。なんだって君は蛮勇あふれてるのかね」

「あふれてなかったら実家飛び出して探偵事務所なんてやってないわ」

「まあ今のところ探偵と言うよりペット探し屋だけど」

「それは言わない約束よ」

 君は気分を害した様子もなく笑う。エレベーターの扉が開くと「ほら見てみなさい」とばかりに胸を張り、腕の中の猫をあやしながら堂々と小さな箱に入っていく。こうなると僕は呆れながらもそれについて行くしかない。

 定員2人、と書いてあるが猫1匹分ギリギリオーバー。ゆっくり下降する箱の中で僕は息をひそめる。そして、案の定というべきか、ガタンとエレベーターが急停止する。

「……あら、嫌だわ」

 しばしの沈黙の後につぶやいた君は、腕の中の脱走癖持ちの黒猫にねえ、なんて声をかけて。さては余裕があるな、君。しまいに思い出し笑いまでし始めるなんて。

「何か楽しいこと思いついた?」

「うふ、小さいころにノアの箱舟ごっこをしたのを思い出しただけ」

 ああ、あれはひどかった。君ってば小さいころから雷や嵐が好きで、大雨の日に自室のクローゼットに屋敷内やら庭やらで見つけてきたありとあらゆる生き物……つまり猫やらネズミやら虫やらを押し込んで、最後に嫌がる僕を引っ張ってきて2人でそこに籠っていた。当然、旦那様や奥様、使用人がそれを発見した時にはもう阿鼻叫喚。2人でこってり叱られたのも鮮明に覚えている。本人曰く。

「ただのおもちゃで再現するだけなんてつまらないじゃない」

 思えば君の蛮勇はあのころからだ。きれいなワンピースの裾を泥まみれにすることもためらわず、その白いハトみたいな手を土に汚して名前の分からない甲虫を掴み上げて、亜麻色の髪を雨水でしとどにぬらして雷の中で飛び跳ねながら笑っていた。よく考えたら、あの時点でバレなかったのがちょっと意外だ。あんな嵐の中庭に出るなんて屋敷中の誰も考えていなかったんだろう。

「あら」

 君は声を上げてエレベーターの扉に着いたガラスに目を向ける。どうやら不調は一時のようで、またゆっくりと下降し始める。そういえば、エレベーターが止まっても不思議と恐怖はなかった。どうしてかな、不思議だね。

 ぎこちない動きで扉が開き、向こう側から日の光と風がなだれ込んでくる。身の引き締まるような冷たい風に長い髪を躍らせ、白いコートのすそをはためかせた君は1羽のハトだ。

「さ、帰りましょうか。アンナが首を長くしすぎてキリンになっちゃう前に」

「それが良い」

 往来に出ると、エリックがみゃあと声を上げた。それに導かれて不意に空を見上げ、君は笑う。

「見て、虹よ!」


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箱舟には2人と1匹 鹿島さくら @kashi390

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