第6話 5年の時を経て

「如月煌大の妻です」


 私は声が震えそうになるのを堪えながらそう名乗った。


『……はい。いつもお世話になっております』

「少しお話しがしたいのですが、今よろしいですか?」

『……はい。どうぞ』


 伊織は周囲に気を使ってか、あたかも取引業者からの電話のように装っている。副社長夫人として電話したのに、伊織の声を聞くとすぐに “優芽” に戻ってしまった。


「伊織、なんでこの会社に入ったの? 偶然なんかじゃないよね?」

『……そのことについては、直接お話ししたいので、今度お時間いただけませんか?』

「えっ? わ、わかった。金曜日の夜はどう?」

『大丈夫です』

「じゃあ、金曜日の19時に式典のあったホテルのラウンジで」

『かしこまりました』

「あっ、周りには知られないようにしてね。特に煌大には……」

『もちろんです。では』


 電話が切れても伊織の声が耳に残り、懐かしさで胸が苦しくなる。伊織の声をもっと長く、もっと近くで聞いていたい衝動に襲われる。

 伊織にまた会える。幸いにも毎週金曜日の夜は、煌大は会合に出席してるため朝まで帰ってこない。時間はたっぷりある。あの日の言い訳、この会社に入った理由……、すべて伊織の口から聴くんだ。


 でも、もしあの日の別れに別の理由があったなら? 伊織に『まだ愛してる』なんて言われたら? 私の心は揺らがずにいられるだろうか……。




 それから伊織との約束の日までがとても長く感じられた。私は煌大にバレないよういつもと変わらず過ごしていたが、百合さんには勘づかれてしまっていた。


「奥様、今日は何かいいことでもあるんですか?」


 金曜日の朝、煌大を送り出した後、百合さんにそう声をかけられた。


「な、なんで?」

「先ほど鼻歌を歌っておられましたよ? それに、ここ数日楽しそうなお顔をされていましたから」

「え!? 本当に!? もしかして煌大にもバレたかな!?」

「旦那様の前ではいつもどおりでしたので、それは大丈夫かと思いますが……。一体今日は何があるのですか?」

「……今晩久しぶりにに会うの。あっ、晩御飯はいらないから」

「お知り合いですか……。では、お帰りは何時頃に?」

「えっと……、あんまり遅くはならないようにします……」

「……朝帰りはダメですよ?」

「わ、わかってる」


 ダメだ。百合さんにはすべて見抜かれてしまう。


「あの……、このことは煌大には秘密にしてもらえると助かるんだけど……」

「分かっております。わたくしは奥様の味方ですから」



 18時を過ぎ、お気に入りの黒のワンピースに着替え、髪を大人っぽく緩めに束ねてみた。私は大人の女性になったんだと伊織に分からせるために。そして部屋を出る前、自分の左手を見つめ、悩んだ末に結婚指輪を外した。


 約束どおり19時にラウンジに着くと、すでに伊織がカウンター席に座っていた。学校の時はラフな格好ばかり見ていたから、スーツ姿がやけに眩しく感じる。


「お待たせ」


 彼の横の席に座るため背もたれに手をかけると、伊織はすぐに支払いを済ませ席を立った。


「……え? どうしたの?」

「ここじゃ人目につく。部屋を取ったからそっちで話そ」


 部屋に二人きりはさすがにマズいかと思ったが、確かにここに二人きりで座っている方が危険かもしれない。私は彼の後ろを付いて行った。


「はい、どうぞ」


 伊織に促され、ついに部屋に入ってしまった。私の緊張が伝わったのか、伊織がクスっと笑った。


「そんな緊張しないで。大丈夫、何もしないから」

「そんなの当たり前でしょ? 私、副社長夫人だよ?」


 私はなぜか負けた気がして、つい喧嘩腰になってしまった。すると伊織は真面目な顔をして頭を下げた。


「あの時は本当にごめん。俺がバカだった」

「ねぇ、本当は何があったの?」


 伊織は、私の知らないところで何が起こっていたのか全て話してくれた。話を聞きながら私は、お金の力で私たちを別れさせた父親にも、私に何の相談もなしに勝手に別れを決めた伊織にも腹がたった。

 確かにあの時の私は、大人たちから見れば、何も分かっていない子どもだったとは思う。でも、私の幸せはお金なんかじゃなく伊織のそばにあった。それだけは確かだ。


「伊織、私のことまだ好きなの? だから如月の会社に入ったの?」

「うん、優芽のことずっと愛してた。だから少しでも傍にいたくて……。自分から別れを切り出したくせに未練ばっかでごめんね……」

「私は伊織のことずっと恨んできた。だから一日も忘れたことなんてない。そして今すごく怒ってる。……ねぇ、私の気持ち早く静めてよ」


 すると伊織は私の前に立ち、私の左手に触れた。

 

「指輪外してきてくれたんだ? ……俺、期待してもいいのかな?」

「どうぞご勝手に……」


 するとすぐに優しいキスがたくさん降って来た。懐かしくて甘い伊織の匂い。心がほだされ、伊織のことを愛してるから忘れられないんだと改めて実感する。


 5年の時を経て、私たちの引き離された想いが再び繋がった。でもそれは同時に、不倫という禁断の愛の始まりでもあった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る