第4話 再会の時

 ベッドの上でしばらく夢と現実のはざまをウロウロとしていると、耳元で再びアラームが鳴り始めた。俺は重たい身体を起こし、それからスーツに着替えて家を出た。だが、向かう先は学校ではない。教師は3年前に辞めてしまった。


 電車に揺られること数十分。ビル群の中でもひと際目立つこの高層ビルが俺の今の職場だ。建物の上部には、社名が朝日を浴びて光り輝いている。その名は《如月総合商社》。

 俺は今、優芽の父親が経営する会社で働いている。自分自身、心底馬鹿なことをしているのはよく分かっている。もし優芽と再会できても、すでに彼女は人妻だし、顔も見たくないほど俺のことを恨んでいるだろう。どんなに足掻いても取り戻せない恋だ。だから何度も『諦めろ』と自分に言い聞かせた。でも、どうしても優芽の近くにいたかったのだ。

 それでも転職する際は、優芽とのことで落とされるかもしれないと懸念していた。しかし、そんなことは無用だった。社長と最終面談をした際、名前を述べても何の反応もなかったのだ。きっと如月家にとって俺と優芽の問題は、子どものちょっとした火遊び程度のものと認識され、記憶にすら残らなかったようだ。


 だが俺たちは本気だった。だからこそ俺は、いまだにあの日の自分の選択を悔やんでいる。でも、優芽を傷つけたあの行動は、すべて優芽のためだったんだ――


◇ ◇ ◇


 卒業式の三日前、俺のもとに如月社長の秘書がやって来た。目的は俺たちを別れさせるため。もちろん俺はそれを拒否した。婚約者より俺の方が優芽のことを大事に思っているし、彼女を必ず幸せにできる、と……。しかし秘書は、そんな俺の前にジュラルミンケースを出し、その中に入った札束を見せ淡々と話し始めた。


「ここに入っているお金は、あなたのような新人教員の年収とほぼ同じ金額です。一方お嬢様の婚約者は、この金額を三か月程度で稼いでいるような人物です。旧家の一人娘であるお嬢様が、一生不自由を感じることなく暮らしていけるのはどちらなのか……、お嬢様の幸せを願うのなら一目瞭然ですよね?」


 俺は現実を目の前にして何も言い返すことができなかった。すると秘書は、ジュラルミンケースを軽々と持ち、最後に一言残し部屋を出て行った。


「卒業式の日の夕方、お嬢様の部屋の玄関チャイムを鳴らします。それが終わりの合図です。……お嬢様を大事に思っている小鳥遊様なら、必ず正しい選択をすると信じております。ではまた」


 扉が閉まると、俺は拳で壁をドンと叩いた。悔しくて情けなくて、涙が止めどなく溢れた。


◇ ◇ ◇ 


 こんなに後悔すると分かっていれば、絶対に別れなかったのに……。


 デスクトップの起動画面をぼんやりと眺めながらそんなことを考えていると、デスクの内線電話がなった。


「はい、経理課の小鳥遊です。……総務課にですか? 分かりました」


 俺に何の用だろう? そんな疑問を抱きながら総務課に向かうと、会議室に通された。会議室にはすでに数名の人が座っていた。顔ぶれを見るに、各部署から一人ずつ社員が呼ばれているようだ。目の前のホワイトボードには《如月総合商社記念式典》と書かれてある。


「副社長が入ります」


 総務課の声を合図に、そこにいた皆が一斉に起立する。副社長で優芽の夫の如月煌大が颯爽と入って来た。

 煌大のことは、副社長ということもあり入社当初から名前だけは知っていた。しかし、実際社内で出会うことはなく、こうして間近で姿を見るのは初めてだ。


 煌大がホワイトボードの前に準備された席につくと、皆の席に資料が配られ始めた。資料を見る限り、どうも俺は式典の運営メンバーに選ばれてしまったらしい。

 総務課が資料を読み上げている時、俺は何度も煌大の姿を盗み見た。


 この男が優芽の結婚相手。優芽と一緒にいる権利がある人。そして、優芽に触れることができる唯一の男……。


 優芽と煌大が抱き合う姿を危うく想像しかけ、俺は急いで式典の説明に意識を戻した。



 その日の晩、同じく運営メンバーに選ばれた同僚と一緒に飲みに行った。酒を酌み交わし、いい感じで酔いが回って来た頃、俺は思い切って同僚に尋ねてみた。


「なぁ、副社長夫人って見たことある?」

「いや~、俺、副社長が結婚する前から働いてるけど、一度も見たことないなぁ」

「でもさ、一度も姿を見せないとか変じゃない? ……実は不仲とか?」

「それはないない! 副社長ああ見えて夫人のこと溺愛してるらしいから。 ‟若くて綺麗” って噂の夫人を男たちに見せたくないんじゃない?」

「そっか……」


 苦しむのを覚悟して入社したはずなのに、実際に煌大の姿を目にしたり、こうして優芽との話を聞いたりすると、俺の心の中は嫉妬で荒れ狂った。



 そんな俺の心とは裏腹に、煌大の的確な指示により準備は順調に進み、当日を迎えた。

 会場の端からステージを見ていると、副社長の隣になんと優芽が立っていた。優芽の出席は予定されていなかったので、俺は思わず『優芽!』と名前を呼びそうになり、慌てて手で口を塞いだ。

 優芽は副社長夫人らしく美しくなっていた。でもあの時のような笑顔はなく、無表情のまま真っすぐに前を見据えていた。


 やっと会えた。優芽、頼む。こっちを見てくれ……。


 俺は心の中で必死にそう願った。その時、願いが届いたのか、ふと優芽がこちらを向いたのだ。でも彼女は、俺の存在に気づくことはなかった。


 その後パーティーは順調に進み、俺は運営の仕事をこなしながら優芽のことを目で追い続けた。

 優芽は煌大にエスコートされながら、来客者に挨拶をして回っている。

 しばらくして、優芽が一人で会場の外に出るのが見えた。俺はその姿を追って急いで会場の外に出る。

 廊下に出て左右を見回すと、少し先に彼女の後ろ姿が確認できた。すぐに呼び止めたかったが、ここは社員の出入りが多く、声をかけるには危険すぎる。

 周囲の様子を確認しながら後ろを付いていくと、優芽は廊下の隅で窓の外を眺め始めた。近くに煌大の姿はない。声をかけるなら今だ。


「……優芽」


 俺は想い続けた愛しい人の名を呼び、その手を掴んだ。

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