第3話 忘れたくても忘れられない人

 かつて愛した人はどこで何をしているのだろう……。そんな疑問が頭に浮かび、私は力なく首を振った。そんな無駄な想像はもう辞めにしたはずだ。あの人がどこで何をしていようが今の私には関係ない。


 ベッドに横たわったまま昔のことを思い返していると、いつの間にか随分と時間が経っていたようだ。

 長いお昼寝明けの重たい身体を起こし自室を出る。階下からの美味しそうな香りに誘われてキッチンに向かった。


 キッチンでは家政婦が夕食の準備をしていた。この家政婦の名前は《百合子》。5年前、私たちが結婚したタイミングでこの新居に雇われた。年齢的には私のお母さんという感じだろうか? 

 私は母を早くに亡くしているので、父親の秘書も含め男性が多い如月家の中で、百合さんは何でも相談ができる唯一の存在である。


「ねぇ……」


 私は忙しそうな後ろ姿に声をかけた。


「わっ! ビックリした! 奥様、どうかなさいましたか? お夕食なら間もなくできあがりますよ?」


 百合さんは驚きこちらを振り向いたが、すぐに作業に戻ってしまった。それでも私は構わず話を続ける。


「ねぇ、百合さんはその……、忘れたくても忘れられない人とかいる?」

「えっ!? 急になんですか!?」

「いいから教えてよ」

「そうですね。やっぱり初恋の人は忘れられないですね」

「初恋か……。ねぇ、もしもその人にまた会ったらどうする?」

「どうするって……。何もしませんよ? もう終わったことですし」

「そっか……」

「奥様?」

「なんでもない。今のは忘れて」

「はい……。でも一つだけ……。万が一奥様にそのような方がいらしたなら、そのような気持ちを抱いていることは絶対に周囲にバレてはいけませんよ? 特に奥様を溺愛されている旦那様には……」

「そんなこと分かってる」

「それなら安心です。ではこの話はおしまいにしてお夕食にいたしましょう!」


 百合さんに背中を押され、私は一人きりで食卓の席に着いた。

 静かな部屋にカチャカチャと食器が運ばれてくる音が響く。今晩のおかずはオシャレなソースで仕上げられたハンバーグ。百合さんが作る食事はいつも栄養バランスが整っており、見た目も味も完璧だ。

 並べられたお皿をじっと見つめていると、自分が初めてハンバーグを作った時のことを思い出した。


『ごめん、焦げちゃった……』

『ハハッ! でもまぁ、焦げが良いアクセントになってるよ!』


 当時、伊織はそんな冗談を言いながら笑って食べてくれたっけ。


「焦げたハンバーグなんて美味しいわけないじゃん……」


 私は百合さんが作ってくれたハンバーグを頬張った。肉汁が口の中に拡がり、美味しさに包まれる。でも何かが足りない。また一口頬張ると、今度は無性にあの笑顔に会いたくなった。私は大きくカットしたハンバーグを口に詰め込み、浮かんできた笑顔を頭から追い出した。



 夕食後お風呂に入ると、夫婦で使っている寝室で横になった。自室にあるお昼寝用の小さなベッドとは違い、この部屋にあるベッドは大きすぎて一人で寝ると居心地が悪い。私はベッドの端で小さくなり、約束どおり煌大の帰りを待った。

 しばらくして玄関扉が開く音と百合さんの出迎える声が聞こえてきた。煌大が帰って来たようだ。


「おかえりなさい」

「ただいま」


 煌大は帰ってくるなり、ベッドで横になる私に覆いかぶさってきた。キスをしながらネクタイを緩め着ていたシャツを脱いでいく。本当に器用だなと毎回感心する。そしてあっという間に煌大に抱かれ、私の身体は快感で満たされた。しかし心は何も感じていない。

 煌大がシャワーを浴びに部屋を出ると、私は仰向けになり天井を見つめた。最後に伊織とキスを交わした時のことを思い返す。くうに手を伸ばし、幻想の彼を自分の胸へと抱き寄せた。

 事あるごとに伊織のことを考えている自分が嫌になる。私は彼のことを恨んでいるはずなのに、なぜ忘れることができないのだろう……。



◇ ◇ ◇


『先生! 小鳥遊先生!』


 制服姿の彼女が俺の名前を呼ぶ。


(あぁ、またこの夢だ。早く目を覚まさなきゃ……。でももう少しだけ……)


『伊織、愛してるよ』

「俺も愛してる」


 しかし突然場面は変わり、彼女の表情が笑顔から泣き顔になる。


『最低……。二度と私の前に現れないで……』


「優芽! 待ってくれ!」


 俺は自分の声に驚き目が覚めた。息はあがり、身体には大量の汗をかいている。目覚ましのアラームを止め、もう一度ベッドで仰向けになった。

 優芽と別れたあの日から、毎日のように彼女の夢を見るようになった。未練がましいが、俺はいまだに優芽のことを忘れられずにいる。

 俺は空に手を伸ばし、目の前に現れてくれた優芽の手を掴んだ。


「優芽、会いたいよ……」

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