第3話

 私は急いで廊下をわたり、転びそうになりながら、扉の前で足を止める。

 乱れた息を整える暇なく、扉を開ける。

 部屋の中を見ると、父がパソコンの前で作業をしている。昨日と同じく、漫画のプロットを考えている。

 父が遅れて、扉の音に気づくと、振り向いてこっちを見る。

 すると、私の切迫した様子に、驚いた顔をする。


「どうした朝凪、何かあったのか?」


そう言うと、父は椅子から立ち上がり、心配そうにこちらに歩み寄る。


「何かあったのかはそっちでしょ!!」


 怒鳴りつけるように言うと、例の自殺の本を父に向かって投げつける。

 足元にぶつかり、床に落ちると、彼はその本に視線を落とす。

 その瞬間、彼の顔が強ばる。その後、ばつが悪そうに、私を見る。


「……その反応。やっぱりこの本、お父さんのだったんだ」


 問いかけると、父は肩を震わせ、うつむく。そして、しばらくの沈黙の後、歯切れが悪そうにこう言った。


「……ああ、そうだ」

「本に挟まってたよ、この本を購入した時のレシート。お母さんが失くなった一週間後のものだった。自殺の本なんか買って、お父さん、死にたかったの?」


 私は責めるように、父を睨みつける。

 すると父は、両腕をかき抱き、消え入りそうな声で言った。


「すごく悲しかったんだ。あいつが……夜鈴がいなくなって。夜鈴とは幼馴染で、子供の頃からの仲だった。何をするにもいつも一緒で、夜鈴が隣にいるだけで俺は幸せだった」

「……」


 父の張り裂けそうな胸の思い。

 それを聞き、私はすごく悲しい気分になった。


「でもある日、夜鈴はこの世を去った。心が真っ暗になったよ。これからどうやって生きていけばいいかわからなかった。すごくつらくて、息苦しかった。だから、自殺に関する本を買ったんだ。夜鈴と同じ所に行きたかった」


 母が亡くなった時、私は悲しかった。

 でも父の悲しみはそれ以上に深いものだろう。

 私が生まれる前。私が母に出会うずっとずっと前から、彼は母と一緒だったんだから。


「だけど、本の中身を読んで、自分の自殺について考えた時、朝凪……お前の顔がよぎった。それで我に変えったよ。俺までいなくなったら、朝凪が一人になってしまうと。その時、自分が死のうとしてたことを、すごく恐ろしく感じた。自殺の本ももう、持ってるのが怖くなった。一秒でも早く、自殺のことを頭から振り払いたかった。だから、ちょうど視界に入った本棚、その後ろに本を隠したんだ。まぁ結局、お前に見つかってしまったがな……」

「そうだったんだ……大変だったんだねお父さん」


 私の中にあった怒りは、すっかり消えてしまった。今はただ、父を思いやる気持ちでいっぱいだ。


「俺は親の責任を放棄して、勝手に死のうとした。今話したことも、聞かれなかったら、自分から話す勇気は持てなかった。家族として話すべきことだったのにな。だから、ごめんな朝凪、勝手に死のうとして。本当に……本当に……ごめん」


 父が頭を下げ、申し訳なさそうにする。


「今はもう死にたいとは思ってないんだよね?」


 私は、静かにそう問いかける。


「ああ……。今はそんなこと考えたいとも思わない」


 父がしっかりと私の目を見て言う。

 きっと本当のことだろう。

 長い間、一緒に過ごしてきた家族だからわかる。


「……わかった。信じるよ、その言葉」


 でも死のうとしないだけで、心は生きていてない。

 彼は私のために、義務感で生きてるだけだ。

 私は知ってる。母が死んで以来、父が一度も笑ってないことを……。

 いつも、私に見せる笑顔は、私を安心させるためのものだ。

 かりそめの笑顔だ。その笑顔が本物に変わる日は来るのだろうか。

 父が母のことで、心を痛めていたことは知ってた。

 六年間、ずっとその悲しみを見てきた。

 でも、その悲しみはいつか消えると、思ってた。時間が解決してくれる。そう決めつけていた。

 だけど、死のうとした事実を知った今、もう楽観視はできない。

 彼は一生このままなんじゃないかと、不安に苛まれてしまう。

 深い悲しみに囚われたままで、大好きな漫画も描くこともできない。果たしてそれは生きてると言えるのだろうか?


 部屋の壁に貼られている、写真に目をやる。

 その写真は幸せの瞬間を切り取っていた。

 まだ生きてた頃の母がいた。大好きな母がいた。

 母は両手で私と父を抱き寄せ、楽しそうに笑ってる。

 同様に私と父も笑っている。

 全員、幸せそうだ。

 懐かしい情景。自然と、当時の記憶が鮮明に蘇る。

 父と母は二人で漫画を描いていて、いつも忙しそうだった。

 土日も休みなく、漫画を描いていた。

 でもつらそうな素振りは少しも見せなかった。

 父がお話を考え、作ったネーム。それに、ペンを入れる母は、宝箱を開ける無邪気な子供のように、楽しそうだった。

 父も同様だった。

 原稿が完成し、母の漫画の絵を見る。その時の父の顔は、すごく穏やかで、嬉しそうだった。この瞬間のために生まれてきた。そういえるほど、幸せをかみしていた。

 心が大きく揺れた。

 父が一生、このままなんていやだ。

 できるなら、あの幸せだった頃の父に戻って欲しい。

 でも、このまま待ってても、それは叶いそうにない。

 だったら、どうすればいい? 私に何ができるだろうか?

 そばにいて、会話をして、家族として寄り添う以外にしてあげること……。

 思考を巡らせると、その答えはすぐに見つかった。

 拍子抜けするくらい簡単に。

 どうして今まで思いつかなったんだろう? 

 ……いや違う。今だから、思いついたんだ。

 今の私は父を助けたいと思ってる。どんな手を使ってでも、助けたいと思ってる。

 だから、良心が咎めるやり方を、視野に入れてしまう。

 ……それなら、心がぶれる前に、前に進もう。

 踏み出そう。

 私は真面目な顔で言う。


「今回のことはきれいさっぱいり水に流すよ。許してあげる」

「ああ、ありがとう。本当にすまん……」

「ただし、罰を受けたらね。娘を不安な気持ちにさせた罰……」

「罰か……よしわかった。何でも言ってくれ」

「何でも? その言葉、家族として、二言はない?」

「ああ……ない」

「よし、じゃあさ……」


 一泊間を置く。そして、相手の目をしっかり見て、こう言った。


「私のために漫画を描いてくれない?」

「朝凪のために……?」

「うん。お父さんの考えたお話、そのお話の絵を、私に描かせて。それで私を有名漫画家にしてよ」

「……」


 罰の内容が……予想外だったのだろう。

 父は困惑ぎみに首をかしげている。


「えっと……まず一ついいか」

「どうぞ」

「お前、プロになる気はなかったんじゃないのか……今朝そう言ったよな?」


 その通りだ。漫画は趣味で描くつもりだった。

 商業で漫画を描くのは、なかなかハードだ。

 決められたスケジュールの中で、読者を納得させるものを作らなきゃいけない。

 身体にかなり負担をかけることになる。

私はそのことで、父を心配させたくなかった。不安にさせたくなかった。私がそうであるように、彼にとって私はたった一人の家族なのだから。

 でももうそんなことは言ってられない。

 父が苦しんでる。助けるために、前を踏み出さなきゃいけない。

 今の私の本心を知ったら、父はそれを重く受け止める。私の提案をためらうだろう。

 だから、私はあえて、本心を隠す。

 

「商業漫画は旨味がないからね。でも父が、何でも言うこと聞くって、聞いて、気が変わった。アニメ化も経験してるベストセラー作家が原作についてくれるなら、ヒットする見込みは高い、このチャンスを逃す手はないよ」

「それで、原作者になってくれて頼んだのか」


 私の建前に一応理解を示すと、父は、顎に手を乗せ、うーんと唸る。

 その顔色は難色を示している。


「……申し出はありがたい。だけどなぁ、朝凪。俺はここ六年、漫画をかけてないんだぞ。お前の期待に応えてあげることはとてもじゃないが……」

「関係ないよ。信じてるよ私は、お父さんが私のために面白いお話を考えてくれるって、信じてる」


 きっぱり断言すると、父が戸惑いの声をあげる・


「何で……どうしてそこまで言えるんだ……」

「だって、お父さんはお母さんが選んだ相手だもん。私が憧れて、世界で一番すごいと思った漫画家、その人が一緒に漫画を作ろうと、心を許し、パートナーとして背中を預けてた人が、お父さんなんだよ。信じるには充分な理由じゃない?」


 父ははっとした顔をする。

 母の名前を持ち出したのが、心に響いたのだろう。


「そうだ。俺は夜鈴とずっと一緒に……漫画を……」


 父が写真立ての中に映る母に目をやる。

 それを見て、決意が固まったのか、彼は拳を強く握り言った。


「わかった。二人で一緒に漫画を描こう」

「決まりだね、じゃあよろしくね、お父さん」


 そして、私達は握手を交わしあった。

 父と一緒に漫画を描く。

 今まで、こんなこと、考えようとも思わなかった。考えても、実行しなかったと思う。

 だって端から見て、今私のしてることは、ズルだ。親の力にあやかって有名になろうとする卑怯とも取れる行動だ。

 でも、私はあえて、その卑怯なことをする。彼の罪という弱味につけこんで、彼を良いように使う。

 娘の私のためになら、彼は再び漫画を描いてくれると思ったからだ。再び歩みはじめてくれると思ったからだ。

 私達はやることが決まると、仏壇がある部屋に行き、正座する。

 まず母に、今日のことを伝えなくちゃいけない。

 私は線香をたくと、静かに語り始める。


「私、漫画家を目指すよ。お父さんと一緒に、漫画を描く。絵もいっぱい描いて、もっともっと上手くなる。それでね……」


 言葉の途中で、ふと頭によぎる。小学校の頃の事が……。

 授業参観。私は無邪気に、楽しそうに、将来の夢を語っていた。母は嬉しそうにそれを聞いていた。

  

 『私の将来の夢は漫画家になることです』


 あの頃の純粋な気持ちが蘇る。

 私は自然と笑みを浮かべた。


「お母さんみたいな立派な漫画家になるよ」


 だから、見ててね。私の成長する姿を天国で見守ってて。

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