着替えと工具の準備を済ませ、夜墨を空のリュックサックへ入れようとすると、夜墨はするする逃げてどうしても入ろうとしなかった。閉じ込めておくのも危ないから、結局一緒に外へ出た。

 夜墨はいつもより距離を取るものの、私の周りからは離れない。先へ行って振り返っていたり、追い越したら後ろをずっとついてきていたりする。

 一度家へ帰るべきだったな。

 それなら、また夜墨をシャンプーすることにげんなりせずにすんだ。

 夜墨は泥を跳ね飛ばしながら走り回る。身体じゅう泥だらけだ。

「やっちゃん、ここから先は入っちゃだめだからね。めっ!」

 板を水たまりに掛け、渡る。夜墨に手のひらを見せつけて声強めると、夜墨はぴたと止まった。でも不満げだ。

「よーしよしよし。そのまんまだからね、やっちゃん」

 一安心。潤滑スプレーを振る。錆び付いた蝶つがいにこれでもかと吹きかけ、ドアノブを引いた。ズルズル、ちょっとずつ開く。ちょうどいい幅が開いたところで、工具を抱え中に滑り込んだ。

 滑り込みながら後ろがちらっと見えた。木の板の向こうで座っていた夜墨が、お尻を振っている。猫ならひとっ飛びで中に飛び込むこともできなくはない距離だ。

「やっちゃん、だめ!」

 言うが早いか、開けたばかりのドアを思いっきり押し閉めた。がちょん、ドアの閉じた音の向こうで、カリカリひっかく音がする。

 ギリギリセーフ。私も夜墨も感電死でイチコロになるところだった。

「しばらく待っててね。遠くに行ってもいいけど帰ってきてよ?」

 声が届いているのかいないのか、不機嫌そうな唸り声は聞こえた。ごめんて。

 一息つくと、背中がやけに寒いことに気がついた。風がある。冷風だ。外でドア前に立っていたときには気が付かなかったから、ドアの密閉は完璧なんだろう。バイザーの頭に付けたヘッドライトを点ける。人が一人通れるだけの幅を残して、機器がずらっと立っている。天井隅にエアコンがあった。換気扇も付いている。

 外は暑いし機器は熱をもつ。温度が高過ぎれば絶縁性能は落ちてショートする。機器の温度を適切に保つためには、今これくらいの温度設定が必要に違いない。

 それにしたって寒いけど。

 汗が冷え切ってめちゃくちゃ寒い。凍えそうだ。

 バイザーの通信機能はちゃんと動く。指示されていた通りに、指示を仰いだ。

 バイザーの視界を共有した指示は具体的だった。言われた通りの器具で見せられる通りに操作し示される通りの箇所へ繋いで検査した。

 習っていたことが、いざ目の前になるとこういうことだったのかと思う。

 ずっと遠くから、バイザー越しに操られるように作業し続けた。

 バリッドン! ゴウッ。カラカラカラ。

 そんな音にはっとした。バイザーの更に奥から聞こえる音のほうが大きい。すぐ五十センチ左で起きたことだ。

「す、すみません! なにか大きな音が」

「問題ない。氷が落ちただけだ。換気扇が動いただろう、湿度も問題ない」

 バイザー越しに指示を送ってくる技術者は、むしろ自慢げに答えた。

「でも溶けたら、水が」

「床の隅に排水口がある。虫も通らない小さな穴だ」

 床を見れば、確かに、明かりを反射するものがある。形は暗くて見えないが、足で触れると冷たい。結露が天井で凍り、外気温が上がるにつれて端が溶けて落ちるのだろう。

「こんなことを繰り返すのは事故の危険性が高いと思うのですが」

「ひよっこにはそうだろう。だがそうするしかない理由があってやっていることだ。新入りが意見することではない」

「……すみません……」

 技術者は有無を言わさない調子で、私はそれ以上口答えすることができなかった。

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