第15話 脳裏の死神

 タナトスのことが知りたい。その存在は人間の世界でも有名だとベリーとセラが言っていた。

 放課後、ミューは職員室にいるトト先生の元を訪れた。トト先生はデスクでたくさんのプリントを広げ、作業中だった。


「おや、ミューくん、何か御用ですか」


「トト先生、タナトスという魔物のことを知っていますか?」


 単刀直入にたずねた言葉に、デスクでプリントをトントンしていた手がピタリと止まる。


「ここじゃなんですから場所を変えましょう」


 トト先生はプリントをデスクの上に置き、すでに生徒もいない教室へと移動した。外から差し込む夕日が今日は異様に赤くて、ちょっと不気味だ。

 トト先生は適当な席に座り、自分も一つ間を空けた隣の席に座った。


「……」


 先生は何かを考えるように机の上を見ている。聞いてはいけないことを聞いただろうか。空気の重さに恐縮してしまう。

 少しして、やっとトト先生は眼鏡の中心を指で押し上げると「さて」と口を開いた。


「すみませんね、移動させちゃって。その魔物のことは口にすると嫌がる人もいるもので」


「そうですか……有名な魔物なんですか?」


 トト先生は「そうですね」とうなずいた。


「ミューくんの年代だと知らない人も多いでしょうね。色々嫌な記憶もありますから、そのことについては高学年にならないと授業でも話しません。けれど私の年代では多くの人がその名を知っています。強大な力を持つ上級天魔タナトス、別名死神です」


 ミューの心臓がドクンとはずんだ。


「十年以上前のこと、その魔物は存在していました。全身を黒い毛で覆われ、黒い翼を生やした黒い死神。魔物ですが人間のパートナーはおらず、けれど自我を保ち、自分の欲望のままに人間を喰らう恐ろしい存在でした。それを誰が倒したかは、ミューくんは知っているのではないですか」


 その質問に「はい」と答える。今さっき、自分のパートナー二人が言っていた、タナトスは過去に二人で倒した、一人では手に負えない存在だったと。


「すみません。昨日は言わなかったのですが……そう、君の召喚したセラフィムとベリアス、その二人の力で過去にタナトスは倒されました。タナトスが魔界の門に帰したことで、この世界は大いなる脅威から救われたんです」


「先生、なんでベリーとセラはタナトスと戦ったんですか。それは二人の昔のパートナーがお願いしたんですか?」


 魔物が自らの大義名分のために戦うなんてないだろう、特にセラ……何かしら自分に利がないと危険な相手に挑むことはなさそうだ。

 それなのになぜ二人はタナトスと戦ったのか。


「……それについては、また二人から話もあるでしょう。それまでは待っててあげてください」


 しかし話してはいけない内容だったのか、話ははぐらかされてしまった。ただ、今の先生の言い方でわかったことがある。


「やっぱり、トト先生はベリーとセラのことを知っているんですね」


 先生は数秒後に落ち着いた声で「はい」と答えた。先生はどうやらいろんなことを知っているらしい、けれど隠している。そのことについて今ここでどれだけ引き出せるか、わからない。でもできるだけ聞いてみたい。あの二人について、もっと知りたいから。


「ミューくん」


 トト先生は何かを思い出すように目を閉じた。まぶたがかすかに震えているのは、つらい出来事だから、だろうか。


「君のご両親は過去、魔物に喰われていますね。すみません、苦い記録を思い出させてしまいますが、その時のことを覚えていますか」


「はっきりとは……というよりも全然覚えてないです。でも今朝、ふと思い出したのは黒い魔物がいたということです」


 そのことを口走ってミューはハッとした、もしかして。

 トト先生は目を開け、首を縦に振った。


「そうです、君のご両親を喰ったのはタナトスです」


「え、タナトス、タナトス――うっ」


 不意に頭が痛くなり、ミューは顔をしかめた。なんの前触れもなく脳裏に浮かんだのは黒い魔物だった。それは低い咆哮を上げて白い牙をのぞかせている、獲物を見つけた視線はこっちを見ている、瞬時に飛びかかってきて身体を捕まえられる。


「い、やだっ……!」


 これは、これは幻? 急に眠って夢でも見たのか? けれど捕らえられた身体が生ぬるい体温に包まれている。ふしゅう、という息づかい、血のような獣の匂い、横目に見えた唾液を滴らせる牙。

 なんの抵抗もできないうちに、それが自分の喉元に突き立てられた。


「いたい、いたいっ!」


 この痛みは錯覚だと頭のどこかではわかっている、なのに。

 自分は首筋を押さえていた。この状況が幻か夢かもわからない、怖くてたまらない。

 自分の首からは血が流れる、強い痛みが走る。泣き叫びたいのに声が出ない。


「だ、だれか……お父さ、おかあさ――」


 首筋を押さえた手とは反対の手を床に伏せた両親に伸ばす。すでに動けない両親は我が子の助けに応えることはない。その間にも魔物は自分の血をすすり、美味なものを口にする歓喜なうめきを上げ、冷たい息を吐き出す。


“平凡な味だ、つまらん”


 黒い魔物は感想として、そんな言葉を発していた。


「う、うぅ……こわい、よ……」


 目の前が暗くなりかけた時。大きな存在が、二つの影が、自分の前に現れた。二つの影は片方ずつ手を伸ばし、黒い魔物に向かって力を、白い光を放った。

 黒い魔物は苦痛の叫びを上げる。

 それからは、その時、自分は――。


「ミューくん、ミューくん! 大丈夫ですか」


 ハッと目を見開く。目の前には自分の両肩をつかむトト先生がいた。


「急にボーッとたから……大丈夫ですか? まだ召喚を経験して二日目、身体が色々なことで疲れているのかもしれませんね」


 先生は再び席に戻ると「今日はもう休んだ方がいいですよ」と言った。

 ミューは「はい」と答えながら、脳裏にまだいる黒い魔物を頭を振って追い出そうとする。

 嫌だ、嫌だ、いつまでもいないで。もうこっちの世界に来ないで。


「先生、タナトスが、またよみがえるなんてことはあるんですか」


「……ないことではありません。一度死んだ魔物は魔界の門に帰ります、けれど生まれ変わります。しかしこちらの世界には召喚されなければ来られません。強大な魔物ですから生半可な力では召喚もできないでしょうけどね」


「でも昼間、ベリーがタナトスの気配を感じたって言っていたんです――」


 ミューは日中あったことを先生に話した。

 すると先生は天井を仰いでうなった。


「タナトスの再来……もしアレが復活したらまた多くの悲劇が生まれてしまいます。それは絶対に起きてはならないことですね。ですが今の君には頼もしいパートナーが二人もいます。そうならないように彼らも動いてくれると思いますので、彼らを信じるといいでしょうね」


 その言葉を聞き、脳裏にいた魔物が二人の力が働いたかのように消えていった。

 あの二人がいれば大丈夫、そう思えるのは自分があの二人を信じているからだろう。

 ベリーとセラなら、きっと。

 そんな時、近くに誰かの気配を感じた。

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