パラソルガール
古蜂三分
パラソルガール
新潟に浮かぶ太陽は、地元のそれとは比べものにならないほどの輝きを放って燃えていた。真夏の太陽が海水浴場に建てられたビーチパラソルたちを鳥のように見下ろし、人々はサングラスを通してそれを見つめ返した。
真昼の空気がビーチの賑わいで熱気を帯びていく忙しない時間に、隣のパラソルの下で夏らしい音楽をかける彼、あるいは彼女は、とても優雅に鼻歌を歌う。爽やかなメロディーが熱された砂浜を海鳥のように巡り、わたしはテトラポットの奥に見える一文字の水平線を眺めた。
「カナ、海には入らないのかい?」
隣で文庫本を開く叔父さんは、海を眺めるわたしを見て何を勘違いしたのか、そんなことを訊いてきた。
「入らないよ」とわたしは言う。「だってベタベタするし」
叔父さんは、そうかい、とだけ頷いて、それからまた文庫本に目を戻した。
小学二年生ぶりの海水浴だった。正確には海へ入っていないから海水浴ではないかもしれないけれど、わたしが三年ぶりにこの砂浜を踏んだというのは事実だった。
ビーチサンダルの薄い靴底越しに微かな熱が伝わってくる感覚は懐かしいし、蝉の鳴き声の代わりに潮のせせらぎが聞こえてくる非日常は、わたしが海へ来ている事実を改めて実感させた。足りないものなんて何もない、はずだ。
「カナ。もうお昼だし、あっちで何か買ってきてくれないか」叔父さんはいつの間にか文庫本を閉じていて、代わりに財布の中から千円札を取り出してわたしに手渡した。「なんでもいいよ」
わたしは、わかった、と言ってパラソルの日影から身を出した。数時間ぶりに太陽と目が合うと、首の後ろが今にもジリジリと焦がされるように感じた。
海の家へと歩いている道中、何度もビーチサンダルが脱げてしまい、思っていたよりも時間がかかってしまう。そうしていると、砂浜の上は必要以上に体力を奪われると気づく。砂浜は人々から吸い取った体力を熱に変えて、日差しに地面を光らせていた。けれど人々は変わらずにビーチボールを打ち上げ、浮き輪に空気を入れ、バナナボートの上で悲鳴をあげている。
楽しそうだなと思う。きっと彼らは浜辺の熱さなんか忘れていて、頭の中では夏の音楽が流れていて、この一夏を満喫しているのだろうな。
くそくらえ、と思う。
本当はわたしだって、三人でこの光景に混ざるはずだったんだ。
『ごめんね、カナ。お父さんとお母さんね、ちょっとお仕事が入っちゃって、行けなくなっちゃったの』
あの日、午後九時にスーツ姿で帰ってきたお母さんはわたしにそう言った。遅めの夕食を囲む中で、「ごめんね」と両手を合わせた。
もう今から何を言っても駄目なんだろうな、とわたしは理解した。海へ行く予定が消えたと知って、絶望に近いなにかを感じて、それでも仕事の邪魔だけはしてはいけないと思って、ただ夢であればいいのにと強く願うことしか出来なかった。
お母さんはわたしが寝るとき、枕元でもう一度「ごめんね」と謝って頭を撫でた。その手つきが妙に優しくて、わたしはつい「海、行きたい」なんて口走ってしまったのだ。
翌朝、いつもより早く目が醒めてしまってトイレへ向かう途中、リビングから声がした。
「急な仕事が入っちゃって、少しカナを預かってくれない?」
それはお母さんの声だった。その後に、
「あともう一つお願いなんだけど、カナを海に連れて行ってくれないかしら。行く予定だったのだけど、それも潰れちゃって」
それから、わたしは叔父さんに預けられることになった。そして海に行くことになった。新潟にある叔父さんの家に行って、夏休みの三日間をそこで過ごすことになった。叔父さんはわたしに新しい水着やビーチサンダルを買ってくれたけれど、あまり喜んだ反応を見せないわたしに浮かない顔をするようになった。わたしはそんな叔父さんの表情を見かけるたびに申し訳なく思ったけれど、どうしても嬉しがる演技をする気にはなれなかった。自分に嘘をつくくらいなら、わたしはわがままなままでも構わなかった。
砂浜の上を歩きながらそんなことを考える。そのうち、一人の女の子がこちらを見ていることに気づいた。いいや、正確には睨まれていることに気づく。
わたしと同い歳くらいに見えるその少女はくりくりパーマの母親らしい女と髪の薄い父親らしい男を両脇にして、足取りの危ない弟と手を繋いで歩いていた。弟は浮き輪を持ち、父親の方はシュノーケルを手にしていた。言葉が行き交うと彼女は楽しそうに笑い、その光景を残したまま、パラソルの群れの中に消えていった。
わたしは考え事をしていたせいで、自分の目つきがひどく鋭くなっていることに気づいた。彼女は睨まれたと思い、わたしをにらめ返したのだろう。円満な家族旅行に水をさしてしまったようで、なんだか申し訳ない気持ちになった。
それからわたしは海の家で焼きそばとイカ焼きを買って叔父さんのところへ戻った。手元からは食欲を誘う匂いと、小銭の触れ合う音がよく聞こえる。
ただいま、とパラソルの下を覗く。叔父さんは文庫本を開いたまま、両目を閉じて静かにいびきを立てていた。わたしはふふっと笑ってしまう。大人のだらしない姿はなんだか面白い。わたしは文庫本を閉じてあげて、その隣に焼きそばを置く。
それから、つま先だけを日向に出して、買ってきたイカ焼きを食べた。やたらと醤油が塗られて煎餅みたいな見た目をしたそれだったけれど、いざかじってみると中身はしっかりとイカ焼きだった。まだ熱いそれをはふはふと口の中で転がしながら食べる。
そうしてイカ焼きを食べ終わったころ、ふとわたしに近づいてくる人影があった。それはさっきわたしを睨みつけてきた女の子だった。海から上がってきたのか、水着のフリルから水が滴っている。
目があった。また睨まれるのではないかとわたしも睨み返す準備をしていたのだけれど、その女の子は驚くことに頬を緩めて薄く微笑んだ。その笑顔は真夏の砂浜にしては少し寂しげで、冬の軒下で音を奏でる風鈴のような違和感を浮かべていた。
彼女はまるで長い付き合いの友人かと思えるような動作でこちらに近づいて、そのままわたしの隣に腰を下ろした。
「ねえきみ、名前は?」
彼女は水平線の向こう、もしくは手前のテトラポットを眺めながら言う。
「カナ」とわたしはこたえる。
「そう。私、ヒナ。名前だけは可愛いんだ」
わたしはふーん、とだけ返す。自分の名前を可愛いと評したかと思えば、それとは反対にそれ以外は可愛くないと言っている。彼女のおかしな言動に、わたしの興味は反応した。
「私は中一」とヒナは言った。「カナは?」
わたしはそれに合わせて嘘をつくことにした。旅先で出会ったのだから、少し早めに中学生気分を味わったってバレないだろう。「わたしも中一」とこたえる。
「わお、同い歳だね。どこの部屋?」
「わたし、日帰りなんだ。夕方には帰る」
「そっか、泊まりじゃないんだね」
ヒナはもう一度そっか、と言って「わたしはね、明日の夕方までいるの。早く家に帰りたいけど、帰りたくはないな」と話した。
わたしはなんとなく頷く。たしかに、海は楽しいけど疲れるしね。家にいれば楽しくないけど疲れはしない。けれどわたしがそう言うと、ヒナは「えっとね」と困った顔をした。
「そうじゃなくて、帰りの車が嫌なの。渋滞になるとコウタが泣くし、お母さんは不機嫌になるし、お父さんも怒りっぽくなる。トイレに行きたいって言っただけで怒鳴られちゃうんだもん」
わたしは笑った。こういうことを話してくれるのは、クラスの友達でも中々いない。
「ねえ」とヒナは後ろでいびきを立てる叔父さんを見る。「この人は、カナのお父さん?」
「ううん、親戚の叔父さん」とわたしは言う。「わたしの家、お母さんもお父さんも仕事で忙しくて、叔父さんにしばらくの間預かってもらっているんだよ」
ヒナはそっか、とだけ呟く。それから、少し考える動作を見せた。大変だね、とでも言ってくれるのかと思ったけれど、彼女はまったく違うことを口にした。
「みんな、仲良し?」
わたしは小首を傾けながらこたえた。
「仲良し、なのかな。二人とも日曜日しか家にいないけど、喧嘩とかは見たことない」
ヒナはなんともなしに海の青を眺めている。一匹の羊が私たちの前を通り過ぎていくような沈黙のあと、彼女はいいね、とさっきよりも低いトーンの声で言った。
「うちはね、あんまり仲良くない。出かけるのはいいけど、その途中がいやなんだよね。車の中とか、部屋の中とかさ。この旅行だって、何回も何回も揉めたんだよ。どうして子どもの前でああいうことできるんだろう」
ヒナの話はわたしに、何度も消しゴムで擦った白紙のプリントを妄想させた。それは引き出しの奥深くから、くしゃくしゃな形をして出てきた。ヒナの親はそれを、きれいな紙だと言い張って聞かない。
太ももについた緑の海藻を指で弾きながら、ヒナは笑う。それから、唐突に、
「離婚届って、見たことある?」
と言った。わたしは見たことないな、と返す。
「ふつうはそうだよ。少なくともふつうの親なら、リビングのゴミ箱の中なんかに、そんなの放置したりしない」
遠くの海を見つめながら、あるいは海の向こうのどこかを見つめながら、ヒナは続ける。
「拾って見たら、私とコウタの名前があってさ。それを見るとね、私はお母さんに引き取られて、コウタはお父さんの方に行くんだって。なんだか、ほんと笑っちゃうよね」
潮の音を遮って、ヒナの乾いた笑い声がした。砂浜は風が吹き始めていて、パラソルがうたた寝するみたいに揺れて傾いていた。わたしたちを見下ろしていた太陽はすっかりやる気をなくし、雲に隠れて少し早めの昼寝を始める。
わたしは訊いた。「おとうとって、かわいいの?」
「ぜんぜん」ヒナは首を大きく横に振った。「すぐ泣くし、すぐもの失くすし、すぐに駄々こねる」
わたしは一人っ子だから、その感覚があまり分からなかった。わたしがうーんと唸っていると、「小学一年生の自分が隣にいると思って」と言われ、その鬱陶しさがすぐに理解できた。
それから少しの間を開けて、でもね、とヒナは言う。「でもね、すぐ私に頼ってくるのは、すごく偉いと思うの」
「え、どうして」わたしは訊く。
「だってそうでしょ。自分たちのことばかりで、子どものことなんて考えてない親よりも、お姉ちゃんの私を頼った方がいい」
そういうヒナの表情は、今まで見た中でいちばん嬉しそうなものだった。その顔を見て、わたしはどうしてかお母さんのことを思い出す。膝の上で洗濯物を畳むお母さんの後ろ姿。わたしが宿題の分からないところを教えてもらいにいくと、お母さんは決まって柔和な目で笑って「ちょっと待ってね」と家事の手を早めていた。今のヒナの表情からは、そういう暖かさといった類いの何かが、薄くにじんで漏れ出ていた。
「ヒナはおとうとのこと、大事にしてるんだね」
わたしが言うと、ヒナはそんなことないと返す。それから足元の濡れた砂を指でなぞって、「ただ、これが正しいことだと思うから」と話す。
「憎たらしくて鬱陶しい弟だけど、何かあったら私が守ってあげるの。私は何があっても大丈夫だけど、コウタは違う。まだ泣き虫で根性なしだから、私がなんとかしてあげないといけないの。それに、私が守れるものは、それくらいしかないからね」
まっすぐ水平線を見つめるヒナの横顔は大人特有の静かさや落ち着きといった類のものを持っていて、わたしはヒナが中学生であることを思い出した。背伸びをしたけれど、やはりわたしなんてまだまだ子どもなんだなと思う。
「コウタくんが羨ましいよ」と呟く。
「どういうこと?」
「ヒナがお姉ちゃんだったらなって、思っただけ」
「いや、同い年じゃん」
そうだったね、とわたしは笑った。ヒナも笑った。わたしたちの笑い声に誘われて、雲の影に隠れていた太陽がうっすらと顔を覗かせた。現金な太陽だ、と思う。風は止んで、パラソルはきれいに直立するだけだった。
わたしは笑って、ヒナの手を取って立ち上がる。ヒナは少し驚いてから、「うん」と立ち上がる。ヒナの座っていた位置は濡れて、黒い染みができていた。
「叔父さん、海入ってくるね」
叔父さんは不思議そうな顔をする。口元には少しよだれが垂れていて、なんだかだらしないなと思った。わたしは笑みをこぼす。叔父さんはより一層不思議そうな表情を見せて、それから少しの間を開けると、いってらっしゃいと微笑んだ。
パラソルの日陰を出ると、そこには夏を帯びた熱があった。ビーチサンダルを履かないで、砂浜の熱を直に感じる。夏らしい音楽は聞こえなかったけれど、そんなものがなくても、わたしは今が夏であることを感じ取れた。ビーチボールも、バナナボートも、お母さんとお父さんもいない。足りないものばかりだ。けれどそれでも、わたしは海水浴に来てよかったとたしかに思えた。
「はやく泳ごうよ」
「私、浮き輪ないと泳げない」
「うーん、じゃあ……えいっ!」
「きゃ、冷たっ」
遊びはしゃぐわたしたちを、叔父さんはビーチパラソルの日陰から静かに見守っていた。
文庫本は閉じられたまま、焼きそばの隣で寝息を立てるだけだった。
パラソルガール 古蜂三分 @hachimi_83
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