第5話

 閉店時間が近づいてミカと男以外に客がいなくなった時、マスターがやって来た。


「ミカちゃん本当にありがとう。ポトフとキッシュはおいしかった?」


 一日働いた後だからか少しつかれが見えるものの、マスターの顔にはエネルギーがつまっている。


「はい! すごく美味しかったです。ボリュームしっかりなのにほとんど野菜なので気持ちが軽いです!」


「うふふ。そうだよね。マスターは女の子の味方なのです!」


 楽しそうな女二人を横目に、男は「また始まったか」とでも言いたそうな顔で本を閉じた。


 ミカは気づかなかったが、男はいま相談屋モードではないので以前よりもだいぶざっくばらんで適当な振る舞いをしている。


「さて、今日なのですが『ai's cafe』の春メニューに合うお菓子を作るための試食会をします!」


 マスターはとても楽しそうに話している。マスターのところにだけ一足先に桜が咲いて満開になっているかのようだ。見ているこっちもなんだか楽しくなってくる。マスターは続ける。


「まずはこちらを飲んでください。知り合いのロースターでつくられたコーヒーです。『サクラコーヒー』、今回はこれに合うスイーツを作りたいと思っています。いまお菓子を持ってくるので味わってみてくださいね。コーヒー豆に桜の花を粉状にしたものが混ぜられているみたいです」


 そう言いながらマスターは花柄のカップとソーサーをテーブルに置き、またカウンターの奥に入って行ってしまった。


 ミカと男はカップを手に取ってコーヒーをゆっくりと口に含ませた。


「おいしい……」


 ミカの声が店内に響く。


 香ばしいにおいが鼻に抜けていく。華やかだ。だけど、味はとてもさっぱりしている。軽くて、ささっと飲めてしまいそうな春らしいコーヒーだ。


 しかし、飲み口はとてもまろやか。以前この店でお茶やコーヒーを頼んだときもそうだった。この店の飲み物には特有のまろみがあるのだ。水が違うのか、それともマスターの技術がすごいのか……。


「どうー?」


 トレーに何種類ものお菓子を携えて、マスターがやってきた。男が話す。


「おいしいよ。思ったより軽いんだね。雑味も少ない。酸味が強い系かと思ってたからびっくりした」


「そうだよね。私もなんか春爛漫って感じの味かと思っていたから意外だった。春の中でも涼しい晴れた日って感じかなぁ」


 男はうんうんと頷きながらコーヒーを啜る。


「ミカちゃんはどうだった?」


「すごく飲みやすくて美味しいです。すーっと入って来てそのまま一気に飲んでしまいそうになりました。なんだか不思議な味ですね」


 マスターも男も柔らかな表情でミカの話をしっかりと聞いている。


 さらに一口飲み込んだ男が二人に話しかける。


「普通にドリップしているだけなんだろうけど、なんだかさっぱり水出しコーヒーでも飲んでるみたいだねぇ。前に水出しをあっためて飲んだことがあったけど、テイストはなんか似ているかなぁ」


 男が口数多く話しているので、ミカは少し驚いている。この前小部屋であった時とは別の人のようだ。そんなミカの様子に気づいたのかマスターがフォローする。


「あ、ミカちゃん、もしかして驚いたかな? この人普通によく喋る人だからね。相談屋していないときは言葉遣いもそんなに丁寧じゃないし、突然雰囲気変わったと思うかもしれないけど、すぐ慣れると思うから」


「あ……。すいません。確かに仕事中とは違いますよね……」


 ミカはまだ少し呆然としている。


「あぁ、そうでしたよね。すいません。こんな感じの人間なのでよろしくお願いしますー」


 男は一瞬バツの悪そうな顔をしたけど、すぐに戻った。


 確かにこの前よりは適当な感じがしているが、根底にある空気感と当たりのやわらかさは変わらない。むしろマスターの空気と合わさることで独特のエネルギーが生まれ、会話がリズミックになっている。


「そのあたりは初めての三人組だし、ゆっくり慣れていくとして––。これが試作品。こっちは去年の春メニューだった桜のシフォンケーキ。参考までにどうぞぉー」


 マスターが持って来た大皿にはいくつものお菓子が乗っている。シフォンケーキに、緑色のスコーン、あずきの入ったパウンドケーキ、ドライフルーツのタルト。どれも美味しそう。そのラインナップを見て男が声を発する。


「こりゃまただいぶ袋小路っぽいな」


「そうなんよー」


 マスターと男が顔を見合わせながら話している。ミカはぽかんである。


 刹那、脳が再始動したミカが言う。


「えーっと、どういうことですか?」


「あー、これはですね。いつもはもうちょっとテイストとか、食材とか、テーマに統一感があるんですよ。マスターがある程度考えた上で、どれがコンセプトに合っているかとか、どれが飲み物に合ってるかとか、そういうことを検討するんです。ですが、今回はみんなてんでバラバラですよね。だから本当にどうしたらいいか分からなくなっているってことなんですよー」


 男が流暢に説明してくれる。ミカは頷きながら運ばれて来たお菓子をもう一度見た。みんな美味しそうではあるが確かに統一感はない。


「そうなの。本当に迷っちゃってさぁ。サクラコーヒーだけでも完結できそうなくらいの味だから選択肢が広くて……。あと、コーヒーが桜だから、お菓子の方は違うものにしたいなぁって思っているんだけど、なかなかしっくりこないんだぁ。だから試食した上で、今日はコンセプトの部分から話し合おうと思ってさぁ」


「うひー。難題だぁ」


 二人とも真剣なのだがどこかコミカルな空気が漂ってきている。男は続ける。


「俺ら突然意味わからないこととか、小難しいこと言い始めるかもしれないですけど、いつものことなので流して大丈夫です。ミカさんは感じたことを率直に話してくれればこっちとしてはとても助かるので、何でも話したり、聞いたりしてください」


「あ、はい。わかりました。お力になれるかわかりませんが頑張ります!」


 マスターと男の空気にあてられてミカのテンションも上がっている。二人ともミカを蚊帳の中に入れて、注視してくれているのが分かる。大事にされている気がしてミカはとても嬉しかった。


 夜が少しずつ深まり、星が空に光っている。


 誰も気がつかないうちに、今日も春に一歩近づいている。





 試食会が始まって二十分ほど。三人とも考え込んでいる。議題は「それぞれの春のイメージ」。すごく抽象的だ。


 これまでの話し合いを見ていると、会をまとめて意見を聞いているのは男の方だった。マスターの意見を汲み取ってまとめて、話し合いを進行している。相談屋をしているだけあってか、意をキャッチアップするのが早い。


 話を聞いて、違う言葉で言い換えながらまとめて、また意見を聞く。テンポよく話が進んでいく。質問の角度をミカに合わせてくれているので、ミカも答えやすい。しかも、二人ともやっぱり話をとてもよく聞いてくれる。久しぶりに楽しい会議だ。


 そしてマスターだが、意外にも頭の回転が早い。表情の動きだけ見ているところころとしていて漫画にでも出てきそうなのだが話し合いは真剣そのもの。


 短い時間の間に様々な意見が出たが、中でもミカの印象に残っている言葉は「それだったら作るのは私じゃなくていいよね」だった。


 さすがのマスター、たくさんのレシピストックがあり、アイデア豊富。これだったらコーヒーに合いそうとか、こういうのを食べたことがあって中々良いとか、そんなことを話していた。聞いているうちにミカは「それは試してみないのかなぁ」とか思っていた矢先、先ほどの言葉が飛び出した。


 正確には「でも、それだったら作るのは私じゃなくていいよね。……えへへ」だったため、すぐに爛漫な笑顔にかき消されたが、そこには底の見えない覚悟と決意と重みが込められている気がして、ミカの心にしっかりと響いてきた。


 いつもはカラっとしていてさっぱりとしたマスターだが、こんな一面もあるのだなぁと見つめ直した。「ai's cafe」には確かに柔らかくて軽い空気が流れているが、同時に円熟した落ち着きも孕んでいる。それはきっとマスターのこういう部分に依るのだろう。

 

 軽いけど揺らぎない、暖かいけど浮いてない。相反する性質を包み込んで体現してるのがマスターなのだ。さっき、男とミカでお菓子がすごく美味しかったと言ったらなんだか思いの外へらへらうねうねしていたような気もするが、きっとそうなのだ。すごい人なのだ。きっと……、たぶん……。


 ミカが半ば自分に言い聞かせるように思いを巡らせている頃、男が口を開いた。


「俺は結局、春って桜とかが咲く前なんだよなぁ。少しずつ暖かくなって来て、梅が咲き始めて、枯れ木のようだった植物たちが葉をつけて景色に緑が差してゆく。そんな光景を見ていくうちに『あぁ春だなぁ』って実感していくかな。そのあとに桜が咲いて、なんか騒がしい感じになる」


「なるほどぉ」


 ミカとマスターの声が重なる。最初はお花畑にチューリップが並んでいるのを思い浮かべていたミカは自分の短絡さに恥ずかしさを感じながらも、その通りな気がして同意した。


 マスターが口を開く。


「桜ってとってもきれいなんだけど、お花見だーってみんなが騒ぐのは私そんなに好きじゃないかもなぁ。それよりは道を歩いていて、すっとお花が咲いている方が落ち着くし、『春やなぁ』って一服お茶でも飲みたくなる」


 ミカがうんうんと頷き、続く。


「私もそうですねぇ。桜は好きなんですけど、途端に広がるあの空気には馴染めないです……。春と言ったら桜とかチューリップをみんなで見ているイメージが湧いたのですが、それは私の春ではなかったみたいです」


 ミカの言葉を聞いて、目を三割増しで輝かせたマスターが机に身を乗り出しながら言う。


「それだ! それにしよう!」


「え?」


 ミカは素っ頓狂な顔をしている。男はもうマスターが言っていることを理解したようで冷静だ。


「うん。それがいい! 今年の春のメニューのテーマは『私たちらしい春』にしよう!」


 マスターがミカに真っ直ぐな瞳を向けている。なんて直接で眩しい視線だろう。でも嫌じゃない。というか好きだ。胸があったかい。


「うん……。いいんじゃないかな。なんか頑張って華やかにしようとして行き詰まっていたような気もするし、自分たちの春を表現するつもりで行こう」


 男は指を口元に持って行き、これからどうしていくのかもう考え始めているようである。


「で、ですけど、もうコーヒーは決まっちゃってますよね? 桜って、世の中の春のイメージど真ん中だと思うんですが……」


 ミカは男とマスターの勢いに気圧され、心なしか慌てている。


「そだねぇ……。でも名前がサクラってだけだよね。味のことを考えたら、むしろ控えめで美味しかったなぁ。それこそ私が好きな春みたいで……」


 マスターが返す言葉をミカはしっかりと聞き、イメージを捉えなおす。


「たしかに……。すっと香ってくる感じでしたよね? 野山を歩いていたら野生の桜が偶然生えていたみたいな。サクラ違いかもしれませんが、散歩していたらサクラソウがひっそりと並んでいた、みたいな……。桜に香りはないですけど……」


「そうだよ……。そういうことだよ! 私たちの春とか桜とかってさ。やっぱりミカちゃんとは波長が合う!」


 マスター、いつもにもましてニヨニヨしている。そしてどこか自慢げなのはなぜだろうか……。そろそろ「えっへん」とでも言い始めそうな様子である。


 そこに男の冷静な声。


「え……、桜の花って匂いするよね?」


「えっ? 私は嗅いだことないけど……」


「私もです」


 女性二人の声に驚いた様子の男。


「確かにソメイヨシノとかはあんまりしないけど、いろんな桜があるからさ。街歩いてるとたまに『あ、桜が香って来てるなぁ』って嬉しくなったりするんだけどそれって俺だけなの……? 白い桜とかさぁ……」


「たぶんそうだよ。聞いたことないし」


「私も初めて聞きました。そんなことありますか?」


 マスター、ミカが続けて反応する。


「ミカちゃん、この人鼻が良いんだよ……。たまにおかしなこと言うの……」


「俺を変な人見るような目で見ないでよ……」


 初めてちょっとしょげた様子の男を見て、ミカはなぜだか嬉しくなった。新しい一面である。


「まぁ、それはそうと––」


 一瞬で持ち直した男が主導権も握り直そうとする。


「とりあえずテーマは決まったんだし、もう一度食べ直してみるか。お菓子たち」


 我に返ったマスターが応える。


「そうだね! コーヒー冷めちゃったし、淹れなおしてくる。ちょっとまっててね」


 どちらかといえばおっとり系のマスター、今だけはとても素早い動きでカップとソーサーをまとめて、カウンターの方へ歩いて行った。


 空気が一瞬静かになったが、すぐに男が話し始めた。


「それにしても、ミカさんも楽しめているみたいで良かったですよ。あと、あれから良い生活を送れているようですね。元気そうで安心しました」


 突然あのときと似たような相談屋モードに男がなったものだから、なんだかちょっぴり恥ずかしい気持ちが湧いてきて、ミカは鼻のあたりにツンとしたものを感じた。これはやばいと思った時にはもう遅く、右目から一筋だけ涙がこぼれ落ちた。


 男としては変なことを言ったつもりなどなかったから、突然のことに若干狼狽えた。


 しかし、ミカの目から流れる雫に暗い色が混じっていないことに気がついて、ただその光景を受け入れた。そして一言だけ、まるでこの空間自体に囁きかけるように落ち着いた声で言った。


「大丈夫ですよ」


 ミカはただゆっくりと頷きながら下を向くことしかできなかった。

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