春の巻

第4話

 沼田ミカは自称一般人の会社員。今日は手早く仕事を終え、夜の道を歩いている。


「今週は忙しかったなぁ」


 いまは早梅が咲き始めた頃。年度末に向けてミカの会社もエンジンをかけ始めていた。とはいってもまだだいぶ時間があるのだが、新しい上司の方針で早期に仕事を詰めることになっていた。


 その考えに異論はなかったが、なぜかミカの負担が重く、中々に忙しい日々であった。だが、その仕事も今日でひと段落。そして今日は金曜日。久しぶりに「ai's cafe」で夕食をたべて、すっきりとした気持ちで休日を迎えるつもりでいた。


 普段の帰り道とは違う電車に乗ってカフェの最寄駅へ。足取りは軽い。


 少しずつ気温の高い日が増えて来ているとはいえ、まだ冬。昼の暖かさに気を取られ、やや薄めの格好をしてしまったミカの体は冷え始めていた。





 「ai's cafe」の食事メニューは凡そ週替わり。冬の寒い時期には暖かい煮込み系のメユーが並んでいることが多い。ほっこりと美味しいのだが、売り切れることもあるのでうかうかしていると乗り遅れてしまう。


 ミカは焦りと寒さに背中を押され、早足になっていた。


 ミカが初めて「ai's cafe」を訪れてから四ヶ月ほど。それ以来ミカは週に一回はあのカフェに足を運び、さわらかな空気を体と心に取り込んでいた。基本的には土日のどちらかで。しかし今日のように仕事が大変だったときは平日の夜にも行く。


 あるとき気まぐれに平日の夜と休日の昼に続けて行ってみて気づいたことだが「ai's cafe」の食事メニューは昼と夜で微妙に違いがある。メニュー自体が違うこともあるし、同じメニューでも具材や付け合わせの種類が違う。マスターの気まぐれなのか、仕入れの問題なのか、はたまた作為的なものなのか、ミカには知る由もない。


 とにかく今日は夜の食事メニューを食べられる。ミカの印象では夜メニューは昼よりも気持ち重めで、やや豪華になっている気がした。


 平日夜にはマスターが「おつかれさま」と声をかけてくれるのもあって、落ち着いた気分になることができる。


 毎週通っていることもあってか、マスターはミカのことを完全に認識しているようである。そのため、来店の際や注文の時に軽く言葉を交わし、人がいない時には砕けた口調で会話をする仲になってきている。


 しかし、特定の客と個人的に仲良くしすぎていると、そうでないお客の居心地が悪くなる。なので大抵の場合、マスターとの会話は一言か二言だけだ。だが、それだけでも心のつながりを深めていくのだから、やっぱりマスターはすごいのだ。


 ミカはマスターに救われたと思っている。そしてあの男にも。もしあの時「ai's cafe」に辿りつかなかったら自分はどうなっていたのだろうか……。きっといまだに立ち直れていないだろう。だからマスターたちは恩人だ。本当に感謝している。





 いつもの駅に着き、改札を出て商店街を進んで行く。人通りが少なくなった頃、一本奥の道に入り、さらにもう一本。そうすると右側に公園が見えてくる。最近は黄梅が花を咲かせている。


 公園の向かい側にある木造の家屋のような喫茶店。今日も営業中だ。


「いらっしゃいませー」


 ミカが入るとやや間延びした声でマスターが迎えてくれる。ミカを見て少し悪い顔になったような気がしたが気のせいだろう。ミカは挨拶を返して席に向かった。


 奥の席に座ろうとした時、隣のテーブルで読書をしている男と目があった。


「あれ?」


 そこにいたのは、数ヶ月前ミカの相談を受けたエキゾチックな空気のある占い師、いやカウンセラー? ミカの恩人となった男だった。


「どうも。今日は客として来ているんですよ」


 そう言って男は一瞬だけ微笑み、すぐに手元の本に目を戻した。


「あ、どうもです。お久しぶりです……」


 ミカも軽く返し、会釈をしながら席についた。


 男はもうミカの方を気にしてはいないようだ。本を読むのに集中している。


 ミカは見ない振りをしているが、内心ではめちゃめちゃ気になっている。どんな様子なのか、何をしているのか。なんの本を読んでいるのか。何を飲んでいるのか。何を食べているのか。


 そう思ってテーブルを見てみると、大きめのカップと皿が置いてあった。皿の上には乾パンが何枚か乗っている。以前ここに来た時にカウンターに乾パンが置いてあったことを不思議に思ったのだが、この男用だったのかもしれない。とはいっても乾パン? 食べている人をほとんど見たことがないのだが、やはり好物なのだろうか。おいしいのだろうか。注文してみようか?


 ミカがそんな思考に没頭しているとき、のっそりとマスターが現れ、声をかけた。


「ミカちゃん。今日もおつかれさまです。あのぉ、今日このあと予定はありますか? もし空いているようだったら閉店後に一時間ほど時間をもらいたいのですけど……」


 マスターは小声だったが、ミカにはしっかりと聞き取れた。ミカは答える。


「はい。今日も明日も特に予定はないので少しくらい遅くなっても大丈夫です。何かあるのですか?」


「あー、そうですか。今日このあとこの店のお菓子の試食をしようと思っているのです。ミカちゃんさえ良ければ食べてもらって感想を聞きたいのです。もちろん、他の人には内緒ですよー」


 マスターはいたずらする子供のようなあどけない笑みを浮かべて、ミカの方を見た。


「え、本当ですか? それはうれしいというか、こちらこそというか。でも私でいいんですか?」


 ミカもマスターにつられて少しだけいたずらっぽい、でも明るい笑顔を浮かべて答えた。


「はい。もしタイミングが良かったら一度お願いしたいと思っていたところなのですよ。なので、今回だけでもお願いします!」


「わかりました。だいじょうぶですよ。というかお願いします」


 ミカはマスターを見て微笑みながら頭を軽く下げた。


「あー、よかったぁ。今回はミカちゃんのような若い女の子が喜ぶお菓子を作りたかったんですよー。そこの彼もいるので時間が来たら声をかけに来ますねー」


 そう言ってマスターは、ミカの隣にいる男の方に目をやってから楽しそうにスキップしてカウンターの方に戻っていった。


 男は話す。


「そういうわけで今日はここにいるんです。まぁ今は他のお客さんもいますし、詳しくは後で話しましょう」


 言い終わると男はまた本に目を落とした。ミカも期待に胸を膨らませながら頷き、メニューを手に取ったのだった。





 さて、ミカが夕食に選んだのは『たっぷり野菜のポトフ&キッシュセット』だった。夕食メニューの中で一番体があたたまりそうで、何より一番興味を引かれた。最近覚え始めた感覚、体が欲しているような感じを信じて注文したのだ。これがぴったりきているときに摂取したものはとてもおいしい。


 注文する時にポトフにパスタを入れるかどうか聞かれた。やや少なめなため、足りない人のためにオプションとしてつけているらしい。せっかくなのでミカは「少しだけ……」と言ってお願いした。



「おまたせしました。たっぷり野菜のポトフとキッシュのセットです」


 注文してから五分ほど後、マスターのいつものふんわりとした笑顔と共に今日の晩御飯が運ばれて来た。


 お盆の上には確かにたっぷりと野菜の入ったポトフが大きめの深皿に、キッシュが一ピース、ミニレタスサラダとピクルスが小鉢皿に乗っていた。ミカはまずサラダとピクルスを食べてみることにした。


 ピクルスの具は大根、人参、玉ねぎ、きゅうり、蓮根。具がごろごろとしていて美味しそう。ミカは箸をのばして人参を口に運ぶ。しゃくっ。人参は生ではなく少し火が通っているよう。味は酸っぱすぎずまろやかな風味。野菜の甘みが引き出されている。


 ピクルスというだけあって確かに洋風なのだが、どこかに和の風を感じさせる。どうやって作っているのだろう。すごく美味しい。胃腸が整えられていく気がする。


 次はやっぱりポトフ。白菜、ジャガイモ、人参、玉ねぎ、ソーセージが見える。まずはスープを一口……。


 おいしい。具のエッセンスが凝縮されていて、うっすらとハーブの香りがする。ピクルスは和風テイストの洋風だったが、こちらはがっつり洋風だ。スープの温もりごと栄養が胸に沁みわたって行くような気がする。


 このスープの栄養は舌から入って心の方に吸収されているのではないか。そう思えてしまうほど優しさに包まれる味だった。仕事で疲れたミカにぴったりの一品。さすがマスター、本当においしい。そして、そこにはペンネが入っていた。ボリューム感もばっちりだ。


 最後にキッシュ。メニュー表によると具材はブロッコリーとかぼちゃがメインのようだ。あれ、軽い料理をたのんだはずだったのに意外と重いセットじゃない?


 ミカの脳裏にそんな考えが浮かんだが、ナイフとフォークに手を伸ばしてキッシュをひとかけ、口に入れた。


「あれ、見た目に反してすごく軽く食べられる!」


 脳内でそんなことを呟きながらミカはパクパクとキッシュをさらに食べた。ポトフとも相性がよく、さっくりと食べられる。ミカは知らないがこのキッシュは豆乳とモッツァレラチーズを使って作られており、口当たりもカロリーも軽めになるように作られているマスター自慢の逸品だ。


 ポトフ、キッシュ、ポトフ、ピクルスでさっぱり。キッシュ、ポトフ、ポトフ……。


 組合わせの妙によりあっという間にミカは平らげてしまった。しっかりお腹は膨れたが、ほとんどが野菜。なんて罪悪感の少ないメニューだろう。


 心も体も軽くなった、気がする。実際には食事の分だけ確実に体は重くなっているはずなのだが、そんな細かいことを気にしていたら生きていけない。そう思い込んで、ミカは背もたれに体を預け、思いっきり背伸びをしてから「ごちそうさま」とつぶやいた。

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