40. 婚姻の儀。

 穂狐さまの像が据えられた、神社の中心に位置する和室。四面の襖が開け放たれ、神社内のほぼすべての部屋が見渡せる。


 荘厳な雰囲気の中、わたしは白無垢と綿帽子を身に纏い、像の前で紫水と向き合い立っていた。紫水もわたしも、唇には真っ赤な紅が引かれている。

 紫水は黒の紋付袴を着ており、長い白髪を腰のあたりで緩やかに一つに結んでいる。凛とした美女に見紛うような彼の外見は、まるで大奥に登場するお局のようだ。


「これより、銘杏紫水、松ヶ谷きよのの婚姻の儀を始める」


 立派な狐耳が生えた神主が、低い声で宣言する。


 婚姻の儀では苗字が必要になるが、紫水は苗字を持っていない。彼の持つあまりに強大な力を恐れた両親が、生まれてすぐに彼を捨てたからだと言う。

 彼は仕方なく、ラーメン屋の名前である『銘杏』を苗字として名乗っていると言う。


 銘杏紫水。明鏡止水と同じ音を持つ名前は、なんて紫水に合っているのだろうと思った。

 彼の“清らかに澄みきった心”に、どれだけ救われてきたことかわからない。


 神主は、わたしたちに半紙のような薄い紙を差し出した。初めてこの神社を訪れたときに紫水と触れた紙と同じものだ。

 二人で紙の端と端を、両手のひらで挟むように持って、ゆっくりと膝をつく。なにかに仕えるようなポーズは、穂狐さまへの忠誠を表しているらしい。


「まず、両名揃っての月紙げっしの点火を行う」

「穂狐さまの眼前で月紙に触れるご無礼、どうかお赦しください。……点火!」


 紫水の掛け声とともに手のひらに意識を集中させると、紙がぼうっと音を立てて燃え尽きた。儀式を見守る穂狐教の信者たちの中から、「おぉ」と静かな騒めきが湧く。


「続いて、穂狐さまへ心を捧げよ」


 立ち上がって像に身体を向けたわたしたちは、右手で自分の心臓のあたりを押さえた。左手は横に広げ、ゆっくりとひざまずく。わたしたちが俯いて目を閉じると、信者たちが息を殺すような気配を感じた。


 重い沈黙が数分間続く。神主がどんと足を踏み鳴らしたのを合図に、わたしたちは顔を上げる。


 こんな風に様式にならって儀式は滞りなく進んでいった。終盤に披露された紫水の舞は、指先までまっすぐでしなやかで、美しいものだった。本来は声を発してはならない信者たちも、思わず歓声を上げたほどだ。


 彼の舞の後は、わたしが舞を披露する。舞なんてやったことがないが、紫水たちが根気強く教えてくれたおかげでどうにか形になった。


 腕を真っ直ぐ前に伸ばし、息を吸うと同時に手のひらを天に向ける。それからは小鳥のように軽やかなステップが続き、わたしの静かな足音だけが聞こえる。

 素晴らしすぎた紫水の舞と比べてくすりと笑う声が聞こえたが、見守る黒曜とお福の優しい視線に気付き、自信を持って舞を続けられた。


 わたしの舞もクライマックスを迎える。これまでの心を込めるような穏やかな舞から、部屋全体を駆け回るダイナミックな舞に大きく転換する。

 高く飛んで足を思いきり一歩前に踏み出す。さあここからが本番だ。


 ……そう思ったとき、黒曜の鋭い声が飛んできた。


「危ないッ!」


 振り返った瞬間、紫水に覆い被さられた。思いきり背中を打ったが、目を開けたときにはもう痛みなど忘れていた。


「紫水!」


 紫水の背中に小さな刃物が刺さっているのが見えた。じわりと滲む血が紋付袴を濡らし、黒を赤黒く変えていく。彼はわたしと目を合わせると、一瞬微笑み、また険しい表情に戻った。


「大丈夫。……まさか、あんたが襲ってくるなんてな」


 わたしが顔を上げると、嫌な笑みを浮かべている神主と目が合った。先ほどまで無表情で淡々と儀式を進めていたとは到底思えない。

 顔からさっと血の気が引いたのを感じた。恐る恐る視線を下に移すと、紫水に突き刺さるナイフを持つ手が見えた。このままではだめだと思ったが動けぬまま、彼は紫水の身体から思いきり刃物を抜いた。


「ぐあぁ……!」


 びちゃ、という生々しい音とともに、床に赤黒い液体が水溜まりを作る。逃げ惑う信者たちがさらにパニックになり、地響きのように床が揺れる。


 もう一度刃物を紫水に向けた神主……いや、“奴”とでも言おうか、の前に、黒い狐が立ち塞がった。


「黒曜!」

「おい、紫水。まだ動けるか?」

「あ、ああ。変化すれば全然余裕で……」

「理性失ってどうすんだ。あいつのこと食い殺すだけだろ、それじゃ意味がねえ。耐えられるかって聞いてるんだ」


 苦しそうな呻きを漏らし、足元がおぼつかないながらも、紫水はどうにか立ち上がった。目にぐっと力を入れ、にやりと笑って見せる。


「ああ、耐えられるさ。怪我の手当ては任せたぞ」

「お前が上手くやれば、手当てしてやる。よし、始めるぞ」


 黒曜もつられたように不敵な笑みを浮かべると、奴に対し攻撃の構えを取った。


 黒曜の鋭い眼光と低い声に、奴は一瞬怯む。しかしひとつ大きな叫び声を上げると、紫水の血に塗れた刃物を黒曜目がけて投げた。

 くるくると回転して迫り来る刃物に、彼はまったく動じない。むしろ刃物に向かって駆け出した。

 口を大きく開けて刃物に飛び付き、ちょうどの部分を咥える。


 血濡れた刃物を口に咥え、自らをじっと見据える黒い妖狐に、奴は恐怖に満ちた視線を注ぐ。歯を食いしばって恐怖に耐え、腰元からもう一本刃物を取り出す。


 座り込んだままのわたしに、紫水は手を差し伸べた。


「少しだけ、走れる? 絶対に怪我はさせないって約束する」


 頷いて彼の手を取り、引っ張られるまま走って黒曜の影から出た。


「もう、守られるばかりのわたしじゃない。わたしだって紫水に怪我させたくないんだ」


 小さくつぶやいた言葉は、前を走る彼には届かなかった。


 刃物を持って黒曜に投げつけようとしていた“奴”が、わたしたちに意識を向ける。歪めた笑顔を浮かべてこう叫ぶ。


「そんな速さで俺から逃げようなんて甘いんだよ! 婚姻は阻止させてもらう!」

「ねえ、紫水! まずいよ、出口までまだ結構ある。間に合わない」

「これでいいんだ。……あ、うっかり刃物を弾いたり防いだりはしないようにね」

「え?」


 奴が投げた刃物が、空気を切って真っ直ぐこちらに飛んでくる。


 わたしは『なにもしない』ことだけを考えていた。紫水がどうするつもりかは分からないが、彼ならきっとどうにかしてくれる。きっとなにか作戦があるはずだ。


 刃物があと少しでわたしたちに到達する、というところで、紫水は一瞬刃物とは反対側を見遣った。小さく「よし」とつぶやくと、振り返ってわたしを思いきり突き飛ばした。

 尻餅をつくと同時に、ガンッ、と固い音がした。途端に逃げ惑っていた信者たちの足が止まり、悲鳴が沸き起こる。


 和室の真ん中に据えられた穂狐さまの像に刃物が突き刺さり、深いひびが入った。ひびはさらに大きくなって像が真っ二つに割れる。穂狐さまの頭の部分が奥にごろりと落ちる。

 信者たちの悲鳴は次第に怒号へと変わっていった。


「穂狐さまになんてことを……!」

「お前には絶対に罰が下るぞ!」


 逃げていた彼らが一気に奴に向かって走り始めた。また一本、腰から刃物を取り出したが間に合わず、あっという間に人の山に飲まれてしまう。


 やったね、と紫水のほうを見る。しかし彼はこちらを見てはいなかった。

 脇腹あたりを押さえて、肩で息をしていたのだ。一点を見つめた瞳は虚ろで、背中に負った傷がじわじわ彼を蝕んでいることを感じさせた。


「紫水!」

「おい、俺の背中に乗れ! きよのもだ。お前の血がつくことなんて大したことじゃねえんだ、むしろあいつの汚ねえ返り血を浴びなくて良かったぜ」


 黒曜は“奴”のほうを見遣って笑った。奴の姿はもう見えないが、人の山の中で息絶えていることは確かだった。

 黒曜の硬い毛に横たわる紫水は、ゆっくりと目を閉じ、ふうとひとつ息をつく。彼をそっと撫で、満たされたように笑う。


「まさかあいつが水証会のやつだとは思わなくて、予想以上に深い傷を負ったけど……ひとまず、成功……だね……」

「穂狐さまの像に誘導する動き、見事だった」

「ふふ。黒曜が僕を褒めるなんてね、まなびやのときは夢にも思わなかったよ」

「医者まで走るぞ。それ以上喋ると傷が開く。静かにしてろ。出来ねえなら口縫い付けるぞ」


 紫水が黙ったのを確認すると、彼は走り始めた。紫水と一緒に背中に乗るわたしだけが、笑顔を浮かべたままの紫水の表情を見ている。

 どうやらなにかが起こることを予測して、事前に対策を立てていたらしいこの盟友二人は、再会を果たしてからずいぶん仲良くなったらしい。

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