34. 匂いも、空気も、懐かしい。

 わたしは神社の境内にある、小高い丘の頂上に立っていた。そばには縞井の扇子を持った紫水がいて、空いているほうの手でわたしの手を握っている。

 丘の上にいるので紫水と視線の高さが同じくらいだ。彼の顔を真正面から見ることなどこれまでなく、つい顔をじろじろと見てしまう。


 彼は念を押すようにわたしの手を小さく揺らした。


「向こうに着いてから二十時間後、なにがあっても“月の側”に戻る儀式を行うこと。場所は着いたところだ。こちら側で僕が扇子で風を送って待ってるから、風を感じても感じなくても鍵の言葉を唱えるんだよ」

「分かってるって。五回は聞いたし十分すぎるほど分かった」

「なにか異変を感じたら、すぐにその場から離れて、まずは儀式を行なってみて」

「それでもなにも起こらなかったら、人目につかないところに隠れて約束の時間を待つ、でしょ?」


 紫水は頷くと、わたしから距離を取った。握っていた手はするりと肌を撫でるようにして離れ、あんなに背の高い彼が、今はわたしより低い位置にいる。


 丘の下では黒曜とお福が見ている。わたしがちらりと見るたびにお福は大きく手を振ってくれる。


 わたしたち四人は互いに視線を交わし合い、力強く首を縦に振った。皆がごくりと音を立てて唾を飲む。


 紫水が扇子をわたしに向けてあおぎ、風を送る。黒曜とお福は周囲に気を張り詰め、なにが起きても対応できるよう臨戦体勢を取る。

 髪を風になびかせながらわたしは叫んだ。願いを頭に強く思い浮かべて。


「開け、小麦粉!」


 瞬間、目の前が真っ暗になり、スライダーを滑っていくような浮遊感を覚えた。トンネルの出口のように見える光に飛び込んだとき、皮膚全体で熱さを感じ、目が眩むほどのまぶしさに襲われた。


 尻を強く打つ。地面に着いた手や足から、自分が土の上にいることが分かる。まだ目が明るさに慣れないが、わたしは勢い良く立ち上がった。


 この匂い。この空気。

 ああ、わたしが二十年間過ごした故郷まちだ。


 五感すべてが懐かしさを訴え、目が染みるように痛んだ。ぶわりと溢れ出した涙はなかなか堪えきれず、頬を伝う。

 濡れた目で周りを見ても、ここがどこかすぐに分かった。


 思い出が詰まった神社。わたしが生まれる前も来たと聞いたし、母の病気が治りますようにと願いごとをしたのもここだった。結果的に治っていないので、わたしはそれ以来神を信じなくなり、ここに来ることはなくなったが。


 家までは歩いて十分程度しかない。急かされるような足取りで家までの道を歩く。

 ねぎが生えた畑や、車がほとんど停まっていない駐車場を見るだけで、あまりの懐かしさに足が止まりそうだった。けれども時間には限りがある。早く父と祖母に会わなくてはならない。


 他の家となんら変わらない造りをした、なんら特徴のない赤い家。わたしが育ってきた家だ。

 たった三ヶ月しか離れていないのに、屋根瓦や壁が色褪せたように感じる。


 門の脇に掛けられた『松ヶ谷』、『三國』の表札は、彫りに土が付いて読みづらい。わたしと父の苗字と、祖母の苗字が横並びに掛けられているため、郵便の配達員を混乱させてしまうのが常だった。

 マジックでも良いから、どっちがばあばでどっちがお父さんか、表札に書いておくべきだよ。

 わたしの代わりを務めていた“第二のわたし”もそんな風に文句を言っていただろうか。


 引き戸の窪みに指をかけて力を入れてみても、戸は鍵が掛かっていて当然開かない。


「ばあば!」


 呼びながら戸を揺らす。古い家なのでがしゃがしゃとうるさく鳴る。


 中から祖母が歩く音が聞こえてくる。鍵が開いて姿を見せた祖母は、相変わらず腰が曲がっていてわたしより小さかった。


「あれ、きよの。学校はどうしたの?」

「あーえっと、午後は休講になった!」

「そうなのね。今ちょうどお茶を淹れたところなのよ、早く手を洗ってきなさい」


 玄関の段差を上がる。古い家にはバリアフリーなんてあったものではない。

 廊下の時計を見ると、昼の一時だった。明日の朝九時前にはまた神社に戻らなくてはならない。


 手を洗って居間に入ったとき、自分が荷物を持っていないことに気が付いた。祖母に怪しまれなくて良かった。


 畳の上にふわふわの座布団を敷いて、正座する。壁際の棚には日本人形や家族写真が飾られていて、長押なげしには三國家の先祖代々の遺影が並んでいる。

 一ミリさえ動いていないそれらを見上げるわたしに、祖母が不思議そうに声を掛けた。


「どうしたの、ぼうっとして。お茶が入ったよ、お菓子は煎餅でいいかい?」

「うん。……あ、お煎餅だけじゃ足りない。もっといっぱい欲しい」

「お昼食べてこなかったの? あんまりお菓子ばかり食べていると虫歯になるよ」

「今日はそういう気分なの。夕飯もたくさん食べたい」


 突然食欲旺盛になったようで変だろうかと思ったが、祖母は「食べ盛りなんだね」の一言しか言わなかった。


 祖母が選んだ美味しいお菓子も、祖母がレシピもなく作った美味しい夕飯も、今日が本当に最後かもしれないのだ。出来るだけ時間を掛けて腹を満たして帰りたい。


 祖母が出してくれた煎餅や饅頭は、甘さがほどよく美味しい。買ったものではなく、祖母の友人が手作りしたものだからだろう。

 祖母の人柄ゆえか、近所の手作り菓子はすべてうちに集まる。


「美味しい。お茶も良い葉っぱに変えたでしょう、すごく良い味」

「お茶の話はこの間したじゃないの。分かったぞ、みたいな顔をしていたじゃない」

「あ、あれ、そうだっけ」


 こちらで暮らしていた“わたし”が思っていたよりもずっとわたしに近く、恐怖を感じた。

 当然、父や祖母は本物のわたしがいなくなったことに気が付かない。それってつまり、本物のわたしがいてもいなくても変わらないってことなのではなかろうか。いや、本物のわたしというのが“陽の側”で家族と一緒に暮らすわたしのことを指すのならば、今のわたしは本物とは呼べないのではないか。


 そんなことを考えていると、インターホンが鳴った。祖母が扉を開けるとともに、女性の元気な声が聞こえてくる。


「こんにちはー。あれ? きよのちゃんいるの?」


 隣の家に住む、一個上のお姉ちゃん。かおりちゃんの声だった。

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