13. 味噌ラーメンの味が記憶に残っている。

 結局、紫水の心の内を聞いてしまってから、これまでどう接していたかわからなくなって、上手く話せなくなった。素直に接しよう、なんて言えたものではない。


 気まずさが続くある日、紫水はおずおずとカウンターに座るわたしにどんぶりを出した。


「“味噌ラーメン”、これまでで一番美味しく出来たと思う。あちらのラーメンと比べてどうだろう?」


 味噌の淡い茶色のスープに、艶やかな麺が沈んでいる。スープをそっとれんげですくうと、味噌が爆発したようにぶわりと広がり、ごまが液面を漂う。

 味噌特有のインパクトの強い香りが鼻腔をくすぐる。


「見た目や匂いはわたしが好きだったラーメンにそっくり! いただきます」

「召し上がれ。ちょっと緊張するなあ」


 麺を啜る。味噌の風味が口に広がったとともに、わたしの目から涙が溢れ出した。


 ああ、この味だ。おっちゃんのラーメンは確かにこんな味だった。


 自力で元の世界に戻ってやるぞと決心してから、わたしは泣かないと決めていた。泣くってことはつまり悲観することで、悲観するってことはつまり帰れないと諦めることだから。

 それなのに味覚の記憶はやけに鮮明で、否が応でも懐かしさで胸がいっぱいになってしまう。


 ぼろぼろと涙を零しながらラーメンを食べるわたしを、彼は心配そうに見つめていた。声を掛けようとしたが、箸を止めないのを見てなにかを察し、ぐっと堪えた。


 一言も発することなく一杯を食べ終わった。箸を置き、ふう、と息を吐く。


「……ごちそうさまでした。すごく美味しかった。記憶通りの味だったよ、泣いちゃうくらいには」

「な、なんて言ったらいいのかわからないじゃないか」

「あはは。気を遣わなくていいよ、わたしはさらに帰りたいって決心を固めただけだから」

「そっか、もし自由に行き来できるようになったら、僕もきよのちゃんおすすめのラーメンを食べに行きたいな」

「楽しみにしていて! 豚骨ラーメンやゆず塩ラーメンのお店にも連れて行ってあげる」


 紫水は「楽しみだな」と言って、聞いたことのないラーメンの味を夢想する。


 そのとき店を訪れたお福が、わたしたちを見て目を丸くした。


「どうしたの。二人が変な感じだったから、今日は駒を持ってきたのに」


 赤や黄色で彩られた駒を巾着から取り出して見せる。

 わたしたちは顔を見合わせて笑った。


「お福ちゃんにまで気を遣わせていたなんて。ごめんね」

「このまま仲悪くいてくれたほうが恋敵としては嬉しかったんだけど、三人で話すの楽しいし……ううん、なんでもない! 紫水くん、お腹空いたー」


 ごにょごにょと可愛らしいことを言う彼女を見て笑っていたら、「なに⁉︎」と怒られた。表面ではこうして厳しい態度を保とうとしているが、本心が次第に変わりつつあることは容易に見抜けてしまう。


 紫水はどんぶりに味噌ラーメンを盛り付けながら、


「今日はね、一味違った“まかない”だよ」


 と得意げに言った。その表情に期待感を高められたお福は、目の前にどんぶりを置かれただけできゃあきゃあと喜んだ。


 一口食べると、今度はあまりの美味しさに黙り込み、麺を凝視する。ひとしきり見たかと思えば、喉に詰まらせないか心配になるほどの勢いで食べ進めた。

 彼女専用どんぶりに盛った小サイズのラーメンをあっという間に平らげた。大人と同じサイズを頼めば良かったと言わんばかりに未練がましい瞳で、空のどんぶりを睨んでいる。


「なにこれ」

「味噌ラーメンって言うんだ。“陽の側”では有名な食べ物らしくて、きよのちゃんが教えてくれたんだよ。味のアドバイスもたくさんくれた」

「ふうん」


 彼女は再びどんぶりに目を落とした。かと思ったら、


「すっごく美味しい! くせになっちゃうね、あと二杯は食べられる!」


 と満面の笑みで言った。


 味に自信がなかったわけでは当然ないが、普段素直に喜んだり褒めたりしないお福にそう言われると安心する。


 使い終えた食器を洗っている紫水から逃げるように、お福はわたしを外へ連れ出した。


「今の巾着がほつれてきたから、新しいのを買ってくるだけ!」


 外出を心配する彼にそう答え、近所の巾着屋へ入る。

 灰色の浴衣をしわなくぴしりと着た初老の男性が、上品にわたしたちを迎え入れてくれた。彼はたびたびラーメンを食べに来ているので顔見知りだ。

 店には上質な生地で出来た巾着やがま口財布が並ぶ。大小さまざまな花が散りばめられた和柄が可愛らしい。


「突然どうしたの。わたし、外出しないから、こっちで使えるお金は一銭も持ってないよ」

「お姉ちゃんに払ってもらおうなんて思ってないよ。お金だけはこーんなにあるんだから」


 見せられた財布の中をちらりと覗くと、札束が無理やり丸め込まれたように詰まっていた。こちらでは使える貨幣が異なると言えど、一枚の価値はさほど変わらない。

 目を見開くわたしに、お福は吐き捨てるように言う。


「水証会の大人たちはお金しか知らないんだよ。可愛がるとか大事にするとかは出来ないの。お金さえ渡しておけば福は従うと思ってる」


 彼女はわたしが何か言う前に売り物の巾着をむんずと掴んで店主に渡した。先ほどの暗い瞳はどこへやら、すっかり少女の純粋な瞳に戻っている。

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