5. 空が色付いている。

 カララン……


 ドアベルに送られ、わたしは初めて外へ出た。

 紫水が様子を窺うようにこちらを何度も振り返る。彼は髪を、店にいるときのお団子ではなく、ポニーテールに結っている。


 暑くも寒くもない、いわゆる“陽の側”と同様、四月らしい陽気だった。暖かな風が吹き、わたしの髪を揺らした。


 外へ出た途端、わたしの目は遠くの空に釘付けになった。


 空が、ヴィヴィットピンクに色付いている。


 室内から見えないほど遠くには、目に痛い色の空が広がり、灰色の雲がもくもくと漂っている。わたしの真上にある青空とは違い、禍々しさを感じる。


 ぞくりと鳥肌が立った。逃げたくなった。


 紫水が右手をそっとこちらに差し出した。爪が尖った、白く大きな手を見下げる。


「もし良ければだけど、僕の手を取ってくれないだろうか。この間見たでしょ、ヴィヴィットカラーの怪物。万が一ああいうのに遭遇したときに離れてたら守れないんだ」


 気遣ってくれているのだろうが、余計に怖くなった。ここにはわたしがこれまで恐れたこともないモノがいるのだとより強く感じさせたからだ。


 彼はわたしの恐怖が増したのを感じたように、


「空を染める桃色は“濁り”といって、“陽の側”で発生した悪意や劣等感が溜まって出来るんだ。約百年ごとに空全体がヴィヴィットになって、その頃に“濁り”を浄化できる人間がこちらに送られてくる」


 と説明した。


 わたしの真上さえ変色するのかと想像しただけでぞっとする。漏れる程度の日光が道を照らす今でさえ恐ろしいので、陽の光がなくては到底外は歩けない。


「“濁り”が溜まってくると、空から化物が生まれる。雨みたいに液体が落ちて、しばらくすると化物になるんだけど……まあ、日本の“月の側”中で一ヶ月に一頭生まれるかどうかだから、目にすることはないと思う。説明が長くなったね、さあ、行こうか」


 手をさらにこちらに伸ばし、繋ぐように促す紫水に従って、彼の手を取ってみた。取るとはいっても指先同士をくっつける程度だ。


 それでもわかる。

 他人のために生きてきた人の指だ、と。


 皮膚が硬くなって、ところどころ皮が剥けている。指の付け根に豆が何個も見える。

 ラーメンを作るとき、そして狐になって化物から皆を守るとき。そういう場面が重なってできた、勲章のような手だった。


 考えているうち、不安がだいぶ和らいだ。彼の言う通り、守ってくれるだろうという気持ちになった。


 彼に指を引かれて石畳の敷かれた街の大通りをずっと進む。

 街の景観はわたしの家の周りとさほど変わらず、瓦の載った屋根の家が多い。古びた家を、人がいなくなると生えてくる謎の草が取り囲んでいる。どちらかといえば田舎町という雰囲気だ。


「僕が連れてきたかったのはここだよ」


 紫水が示したのは砂埃の舞うようなさびれた神社だった。神社の奥に竹林がある以外、家も人影もなにもない。一方で、神社自体は非常に大きく、赤漆が塗られた艶やかな外装をしている。


 ところどころに見られる、花や草をかたどった彫刻が美しい。


 わたしが抱きついて手が回るかどうかというサイズの鈴と、垂れ下がる鈴緒すずおの奥には、賽銭箱でなく一枚の紙があった。

 和紙のような半透明の紙には、朱色のインクで桜らしき花の判子が押されている。


「僕と一緒にこの紙に手を置いてくれないかな。ええと、名前は……」

「きよの。松ヶ谷まつがやきよの」

「きよのちゃん、ね」


 涼やかな声で「きよのちゃん」と呼ばれると、なんだか心が騒つく。掠れた声は変声期の少年のようだ。


 彼にならって紙に触れると、指先がほんのりと温かくなった。


「紫水、きよのの両名が参りました。穂狐すいこさまの眼前にて、月紙げっしに触れるご無礼をどうかお赦しください。……点火!」


 彼がそう叫んだのと同時に、一瞬、指に非常な熱さを感じた。

 わたしと紫水の指が触れたところから、炎が物凄い勢いで紙に広がる。あっという間に紙は燃え尽きて跡形もなくなってしまう。


 呆気に取られるわたしが恐れに満ちた瞳で紫水を見上げると、彼もまた呆気に取られていた。まるで恐ろしいものを見たかのように。


 首をぐりんとわたしのほうに向けたかと思うと、彼は両手でわたしの右手を取って、包み込むように握った。興奮からか、手が燃えるように熱い。


「やっぱり僕と婚姻関係を結んでくれないか。きよのちゃんの浄化力は人並外れている。あと二年しかないんだ、君の力が必要なんだ」

「婚姻と浄化になんの関係があるの? っていうか、離して」

「この“月の側”で信仰されている穂狐すいこ教では、代々僕たち狐族が占いをすることで、神である穂狐さまのおぼしがわかるとされているんだ。それほど穂狐教における狐族の影響は大きいんだよ。だから、狐族が浄化力を持つ人間と婚姻関係を結ぶことで、ようやく浄化作用を発揮すると言われている」

「言われている? 確かじゃないのに紫水はわたしと結婚するの? っていうか、離してよ」

「浄化は百年に一度行われるんだけど、これまで二回結婚して、どちらも上手くいった。だから効果については信用してくれて良いよ」


 百年に一度。それなのに二回、結婚?

 恐る恐る「歳いくつ?」と尋ねると、「ん、今年で二九八歳、だったかな」とけろりと言ってのける。指でニ、九、八を作って見せた。


 彼の肌は卵のようにきめ細やかで、しわひとつなく、真っ白だ。

 声についてわたしは、変声期の少年のよう、なんて形容したが、それは大きな間違いだったらしい。


 紫水の手に掴まれたところから、じわりと鳥肌が広がった。

 スイコサマや浄化について語る彼は、なんだか不思議な目をしていた。虚ろで、黄金色の瞳が濁って見える。次第に手に込められる力まで強くなっていく。


「離してってば!」


 わたしは思い切り手を振り払って、境内からひとり飛び出した。

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