4. 紫水のラーメン。

 胃のあたりに痛みが走る。内側から溶かされる気分だ。


「うっ……」

「あれ、起きたかな? おはよう」


 枕元から降る柔らかい声を聞いて、ゆっくりと目を開ける。

 真っ白な糸が暖簾のれんのように垂れ下がっている。窓から射し込む陽光に照らされて透ける糸は、まるで絹のよう。

 綺麗だなあ、と考えていると、額に冷たい布が当てられて飛び起きた。布団にタオルが落ちる。

 狐男は目を丸くして、その絹のような髪を耳に掛ける。


「おっと、あまり突然起き上がってはいけないよ」

「ひぃっ!」

「逃げないで。僕は君を傷つけたりしないよ。わけの分からないことが起きて、疲れてしまったんだろう。ゆっくり休むといい」

「き、狐男! 手を離して!」


 彼は「狐男、か」とつぶやいて優しく笑った。細く白い指が、わたしの手首を離す気配はない。


「僕はシスイ。紫に水で、紫水。せっかく二人になれたんだ、聞きたいことがあったら聞いて」

「……今起きてること全部、わけわかんない。ここはなんなの⁉︎ あなたたち化物はなんなの⁉︎」


 彼が穏やかな表情を浮かべていることにさえ苛立って、声を荒げる。

 叫んでいるうちに涙が滲み出し、頭がずきりと痛んだ。思わず顔をしかめたわたしに、紫水は困ったような笑顔を向けた。その表情がさらにわたしの神経を逆撫でする。


「答えてよ、笑っていてもわたしはなにも分からない! なにが面白いの」

「ああ、すまない。君が面白くて笑っていたわけではないんだ。ちょっと昔の知り合いに似ていてね。ここは……」


 わたしの腹が唸るような音を立てた。意識を失う前と同様の眩暈もする。


 後ろに倒れそうになったわたしの手首を、彼はぐいと引っ張った。


「そういえば昨夜からなにも食べていなかったね。厨房へ行こう、食事しながらでも話はできる」


 悔しいが、どうしようもないので手を借りて立ち上がり、彼に続いて下の階へ降りた。下の階は店、上の階は居住スペースと言ったところか。

 畳や障子が見られ、提灯風の照明が吊るされた内装には、特に目新しいものはない。日本家屋らしいそれが不安でいっぱいなわたしの、唯一の救いだった。


 カウンターに案内されて腰を下ろすと、紫水は厨房で調理をし、わたしの前にどんぶりを置いた。


 どんぶりの中で、素朴な醤油ラーメンが湯気を立てている。

 小麦粉の粒が見える細麺、とろりとした黄身が光を反射している半熟煮卵、正面に三枚並べられた海苔、程よく散らされたねぎ。良い出汁と醤油の香りが食欲を掻き立てる。


「どうぞ召し上がれ。僕、ラーメンの腕前には自信あるんだ」

「どうしてラーメン……?」

「どうしてって、ここはラーメン屋だよ。日本の“月の側”の中で一番人気のラーメン屋」

「さっき蛙男も“月の側”がどうのこうのって言ってた。なにそれ?」

「あれ、もう河津かわづさんから聞いているかと思ったのに。伸びるからラーメン食べながら聞いて」


 奇妙な狐が作った食べ物を口に入れて良いものか、と逡巡したのは一瞬で、空腹に耐えかねて麺を啜る。おっちゃんの屋台でなら、スープを初めに一口含むのに、それさえ忘れるほど腹が減っていた。

 スープが絡んだ細麺は、もちもちとして小麦粉の良い香りがした。飲み込んだ後、口内は鶏がらスープの豊かな旨味でいっぱいになった。


 少々濃いめの味付けに、箸が止まらなくなる。

 わたしの様子をじっと見ていた紫水は嬉しそうだった。


 箸を置いてレンゲに持ち替えたタイミングで、彼は話し始める。


「この世界は“月の側”、元々君が暮らしていた世界を“陽の側”と僕らは呼んでいる。……つまりね、ここは君がいた世界とは別の世界なんだ。並行して存在するイメージを持つかもしれないけれど、それは違う。“陽の側”の裏に“月の側”が存在するような、いわば表裏一体の世界同士なんだ」

「突然別の世界とか言われてもわけが分からない。こんなにそっくりで、ラーメンも美味しいのに」

「はは、ありがとう。ここは日本の裏側なんだ。“陽の側”では国境を越えることもそんなに苦じゃないらしいけど、“月の側”は国ごとに独立してる。アメリカの“月の側”へ行くことは不可能だ。君のいた世界と違うかどうかは、外に出ればわかるよ。ラーメンを食べ終わったら出掛けよう」


 すべてが嘘なんじゃないかと疑った。けれども昨夜、兎部の傷があっという間に治っていく光景や、獣が暴れ回る光景を見てしまった。わたしの常識が通じない場所だと身を持って感じさせられた。

 夢ではないか、という疑いも、今朝感じた胃の痛みやラーメンの美味しさが晴らす。


「どうしてわたしが“月の側”に来ちゃったの? わたしは屋台でラーメンを食べてただけなのに」


 そう口に出すと、おっちゃんのラーメンが無性に食べたくなった。味は紫水のラーメンとそう変わらないが、なにかが違う気がする。おっちゃんが醸し出す雰囲気のせいだろうか。


「君は“月の側”を救う浄化の力を持っているんだよ。それも出掛けて説明したほうが早い」


 わたしは一気にラーメンを平らげた。すぐにでも出掛けたかったというのもあるが、単純にラーメンが美味しかった。

 「ありがとう。美味しかったです」と言うと、彼は目尻を下げて笑った。

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