憧憬

 現実では魔法も使えないし、モンスターもいなければ、亜人種だっていない。


 たぬきやキツネは化かさないし、暗闇を覗いたって出てくるのはせいぜい酔っ払い。


 ホラーや都市伝説は好きだけど、おっかなびっくりも、実際にはそれを見たことも触れたこともない。


 ゾンビに満たされた世界を夢想しては、それから生き延びるにはどうしたらいいかとも同時に脳内冒険して中二病を癒す。


 いつも遠い目をしては「夢ばかり見て」と大人には笑われ、馬鹿にされる。


 でも。


 現実にはなくても、異世界なら……。


 転生して並行世界にでも行けば……。


 そこは剣と魔法のファンタジー!

 夢の冒険が、自分が輝ける世界が、きっと待っている!!


 って。

 そうそれは、昔から思われていたんです。

 江戸の昔から。


 移動の制限はお達し(法律)で定められていただけでなく、厳しい奉公制度もあってなかなか自由な旅は難しい。そもそも、山には山賊もいれば危険な狼や熊もいて旅行と気軽に行ける安全もない。

 江戸は安全だけれど、それと引き換えに何の変化もない日常があるばかりで退屈、ため息。


 憂さを晴らすために遊郭などという娯楽施設もあるけれど、祭りだ何だと意外と年中にぎわっているけれど。


 やっぱり江戸の外も見てみたい!


 冒険にあこがれるのは、人間としての一種の本能というものです。


 ヨーロッパならそれが大航海時代を生んだといっても過言ではなく、アメリカではフロンティアスピリッツで西部開拓へとつながりました。

 日本人がじゃあ、なにでそれを満たしたのかといえば、地方史、地理誌でもある風土記だったのです。あるいは地方での薬草採取の本草学を始まりに、そこで見分したものをまとめた博物学も民間の興味を掻き立てました。奇々怪々なるファンタジー世界が、書物のなかには広がっていたのです。

 都会にはないものも、神秘のお宝も、不思議な動植物も、地方に行けばあふれている! ……はず。

 そう、思わせてくれるものばかり。


 異世界にあこがれる現代と、そこはまるで変わらない。


 しかも、そこに描かれるのは誰も行ったことのない異世界ではなく、往来は難しいとはいえ行く人もあれば来る人もある我が国土のこと。


 現実としての証言もあればなお。


 行きたい!

 変わらない日常から抜け出して、おっかなびっくり、不思議な世界へ!

 

 ……でも、行けないよなあ。

 お上も旦那様もうるさいし。


 ますます募る思いに、出版業界は応えます。

 妖怪ブームも巻き起こすほど。


 同時期のヨーロッパと日本との違いの一つとして、日本の識字率の高さがあげられます。

 ヨーロッパでは支配階級がその特権として、また庶民が知恵や知識を持って結集、支配者へ反乱を起こさないためにも読み書きを取り上げていた側面もありました。

 しかし日本では、文書主義により、政府こそが読み書きを推奨し、特におひざ元の江戸や、大阪、京都などの大都市では高い識字率の源となりました。

 お触れ、高札、時代劇なんかで見たことありますよね? ヨーロッパだとそれは、お役人なんかが村々にきて高々と読み上げる。誰もが、少なくとも村でも町でも誰かはお触れを読めるからこそ、日本ではそれを張り付けるだけでよかったのです。


 高い識字率を背景に出版ブームが巻き起こるのはごくごく自然なことだったでしょう。

 誰もが本を楽しめるんですから。

 明治には西洋に感化されて文字ばかりの本をもてはやす傾向にありましたが、それは逆です。文章に対する権威などなかった日本では、もともと書物は広く親しまれていました。それだからこそ、かしこまらず、堅苦しいものよりも、絵付きで分かりやすい、黄表紙とか、赤表紙とか言われた滑稽本が流行ったのです。文字を、文章を、だれもが楽しめていた我が国の文化を誇りに思っていいことです。卑下する必要などなかったのです。


 話を戻しましょう。


 妖怪ブームに乗った書物に、奇妙な見たことのない化け物、日常からかけ離れた世界が、錦絵も隆盛して生き生きと描かれていれば……。


 異世界(地方)への憧憬は増すばかり。


 出版業界もこれこそ好機とそのブームに乗って、化け物話や昔話をかき集めてくる。

 現代のファンタジーの原点ともいえるものがそこには凝縮されていたのです。


 あこがれは、増せば増すほど、膨らみます。

 相乗効果といえるでしょう。

 現実を見て幻滅するかもしれなくても、頭のなかの世界は無限で決して壁がない。その壁のない世界の広がり、江戸の昔から今にも続いていると思えば、それこそ夢のあるお話。


 ファンタジーにあこがれるのは決して、現実を見ていないことではありません。


 夢を現実に!


 欧米でも日本でも、それが探検へとつながり、未知なる解明へともつながるのです。

 夢を追うからこそ、知識も得ようとするのです。

 夢がなければ現実もない。


 ファンタジーへのあこがれ、持ち続けていたいです。

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