人外考察

押田桧凪

第1話

 俺はケンタウロス。


 不慮の交通事故に遭って、意識不明の重体。目覚めたのは2032年、人工冬眠技術コールドスリープによる身体断面の損傷部分の再生と修復、臓器移植等を行った結果、下半身だけ馬の姿で現世に引き戻されてしまったらしい。しかも治療費は、ゆくゆくの未来世代に請求されることになるそうだ。


 臨床実験が始まったのは数年前に遡る。被験者の脳からの司令と馬の下肢からの刺激が奇跡的に同期し、脊髄の神経回路が変化したという。そして、「馬の下半身」は歩行アシスト装具として、新しい神経伝達路の形成を促すこと、適応変化や学習といった可塑性を示すことが証明された。


 いまや魂を宿した傀儡として「肢」の役目を果たすことになった、馬にこの上ない感謝を送りたいと俺は思った。普通だったら今、俺は歩くさえできていないのだから。


 通常、自力で立っていられるほどの下肢の筋力がない場合、ある程度筋力の回復を待たないと訓練を始めることはできない。早期に歩行器や杖を使って歩かせようとすると上肢の負担も大きく、怪我することもある。しかし、腰から下の歩行を介助する部分(馬)を人体に接合することで、歩行能力の改善に大きく前進した。と、我が物顔で説明するのは気が引けるが、俺の体はそういうことらしい。医師による説明は念仏でも聞かされているのかと思うくらい、俺にはさっぱり分からなかった。


 病院では、血圧が下がってショック状態にならないよう監視され、血液循環のため大腿四頭筋と大腿屈筋(あたり)に定期的に電気刺激を与えることが行われた。これはひどかった。ピリピリなんてものじゃなかった。「動物にはデカい注射針を使え」理論かは分からないが、看護師の調節が下手なせいで俺は死にかけたこともあった。もう少し、人としての痛覚を理解して貰いたかった。俺は馬じゃない! と叫びたいところだったが、俺は馬だった。


 食事に関しては、「人間の汗は水分がほとんどで、電解質が失われることはないんですが、馬は汗とともに体液に含まれる電解質が多量に流出してしまうんです。不足分はミネラルを貯蔵している骨から補充されますが、ミネラルを十分摂取できるように塩分量はかなり多めに設定したメニューが考えられています」と院内の栄養管理士が言っていた。非常にありがたい。


 ただ、ひとつ残念なことがあるとすれば(すでに一つでは済ませられないくらいあるが)、人間の状態であれば癒しだった風呂の時間が消えたことだ。勿論、浸かることはできるが、浴槽の大きさは限られるし、もっと言うと馬体だと水中で受ける圧力が大きく、胸腔に加わる圧力を押しのけるためのエネルギーを消費するため、水に入るだけでも一苦労というわけだ。


 なんだか、俺は寄生虫みたいだなとふと思った。寄生虫は栄養を宿主に頼るので運動器、消化器含め全身が退化する。けれど、宿主を見つけるための感覚器や繁殖のための生殖器だけは発達するのだそうだ。退化は進化の一部だった。俺は馬に寄生していた。


 そして、まず初めに俺が思ったのは、ケンタウロスになってから太ももに誰かに押されているような感覚が常にあるということよりも、この病院のやり方はおかしいということだった。第一、俺はケンタウロスになることを承認していない。いや待てよ……、そういえば俺は臓器提供カードを記入してなかったな。もしや、生に執着している哀れな男だと思われて、せめてもの慰めでケンタウロスとしてもう一度生きるチャンスを与えられた? ふざけるな。生きるためなら手段を選ばないどころか、姿形を変えてまで生きようという意志は俺にはなかった。穏やかな死であって欲しかった。


 目覚めると異世界に転生していて無双する世界線とは対極にある、見事な実例を俺は身をもって経験することになってしまった。これが、俺の第二の人生の始まりだった。


「オギハラさん、リハビリの時間ですよー」


 2032年、ケンタウロスの存在は社会的に認められているのか、この病院内では俺以外のケンタウロスと何人(何体)もすれ違うことがあった。リハビリとは、肢の随意運動の回復を図り、自立した肢の制御を行うための訓練のことである。訓練では歩行スピード、歩幅、足の上げ方を矯正された。理学療法士の方による指導が厳しく、「調教」のように感じて、いつ鞭を持ち出してくるか分からない怖さがあった。俺は一応、人だよな……? と何度もリハビリ中に自問自答したが、俺は馬だった。


 中でも、俺と同じ時間帯にリハビリの予約が入っているケンタウロスのカンタと俺は馬が合った。カンタの話によると、彼はもともと陸上競技をやっていたらしいが重度の複雑骨折を重ねた結末、義肢をつけるくらいなら、ケンタウロスになった方ががいいと自ら決断したらしい。俺には選ぶ権利など無かったのに、と腹が立ったが声には出さなかった。カンタの前ではさすがに言えなかった。


 カンタがケンタウロスになることは、周りから相当反対されたそうだ。というのも、国内でケンタウロス式移植手術が始まってから、ケンタウロスを人として扱うのか馬として扱うのか、という議論が各地で起こり、『ケンタウロスは人間の道具として扱われるべきだ』『馬による労務提供は権利ではなく、義務だ。これは労働基準法に明記されている』と高らかに主張する人々が現れ、『ケンタウロスに人権を』と公約を掲げる人権擁護団体が動くことになったからだ。ケンタウロスの立場が社会的に確立されるようになるにはまだ長い年月がかかるだろうと予想されている。


 最近では、法整備が十分になされていないことから、『馬なんだから車道を走れ』(道路交通法2条1項11号では馬や馬車は軽車両とされる)と言われたり、『ケンタウロスは歩行者だろ』(道路交通法2条3項では自転車を押して歩いている者は歩行者とされるため、下半身が上体を押して歩くと考えるなら歩行者) という意見が飛び交っている。……という報道をテレビのニュースで見た。退院したら、社会にも溶け込むだけでも大変そうだ。歩くことさえ制限され、その上、馬として労働搾取されるのは嫌だった。森の中で暮らしたいと思った。野生に帰ろうと思った。


 いずれにせよ、俺は人間と馬の狭間の中で誰かにジャッジされながら生きることになるんだなと思った。ケンタウロスという存在が今後、引き起こすことになる社会の荒波を予感していた。覚悟はできていた。


 少しは「ハーフ」と呼ばれる人の気持ちが分かった気がした。日本と〇〇のハーフ。この呼び方が必ずしも正しいとは言えないが、顔立ちがいい、別の言語を話せる、彫りが深い、身長が高い……といった、日本人とは異なる特徴に対する憧れを持って、「ハーフ」と多くの人は口にする。それは、あくまで彼らを外国人として見ているからで、日本人の血が流れていることよりも、外国の血に対して特異性を、価値を見出しているからだろう。


 しかし、本人からしてみれば、多分それを分けることに意味は無いはずだ。アイデンティティや国籍がどこにあるかなんて誰かに決められるべきものではないし、何者であるかなんて自分でも分からない筈だ。


 実際、俺はそうだ。人間だと言われれば人間のように振る舞うのも、馬だと言われればいななくことにも疲れた。馬か人かなんてどうでもよかった。混ざりあった存在のなかで、俺だけが認識することができれば良いのだ。


 俺は、ケンタウロスだった。

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