第2話 篁、幼馴染に恋をする。


 屋敷を囲む築地塀ついじべいの門をくぐると、入ってすぐの車宿くるまやどりには牛車ぎっしゃがとまっていた。

 八葉紋が鮮やかな深緑色の屋形をもつなかなか立派な牛車だ。おそらく、父の友人である藤原三守ただもりが来ているのだろう。


 たかむらは、己の膨らんだ懐を見下ろした。

 万が一、この子犬が人語を喋ることが家人に知れれば、魔物だと騒がれてしまうだろう。客が来ているなら、なおさら知られるのはまずい。庭の池を大回りしてこっそり部屋に戻った方が良いだろう。


 そう考えて中門をくぐろうとした篁は、ハッと息を呑んだ。

 中門の向こうには、まるで篁を待ち構えていたかのように、薄紅色の衣を着た美しい少女が立っていたのだ。


「おまえ、誰だ?」

 そう誰何してから、誰かの面影がふっと頭をよぎった。


「タカちゃんたら、あたしを覚えてないの?」


 少女はプクッと頬を膨らませた。

 その顔が、頭に浮かんだ女の童めのわらわの顔と重なった。


「おまえ、壱子いちこか? 大きくなったなぁ! 見違えたよ!」


 少しドギマギしながら、篁は平静を装った。

 陸奥へ行っていた四年の間に、短かった壱子の髪は背まで伸びて、さながら蛹が蝶へ羽化したかのように眩い美少女へと変貌していた。


「タカちゃんほどじゃないよ」


 壱子はそう言うと、眉をひそめてしげしげと大きな篁を見上げる。


 「壱子」という名は、篁がつけた呼び名だ。

 女の子の名前は、よほど親しい間柄でないとなかなか教えてもらえないのだが、一緒に遊ぶとなると名を呼べないのはとても不便なのだ。


 藤原三守ただもりの一の姫だから壱子────と言っても、壱子の母は藤原の屋敷に住まう正妻ではない。三守が若い頃に通っていた女人の子だ。祖父母も母親も亡くした壱子を、三守が藤原の屋敷に引き取って育てている。


 ただ、壱子は藤原の家には馴染めていない。

 幼い頃からまるで使用人のように、正妻の子供たちの世話をさせられているのだ。

 だから時々、三守は壱子を外へ連れ出してやる。

 その行き先は、大抵、篁の家だ。


「それにしてもひどい恰好ね」


 片袖が破れた篁の衣を、壱子はつまんで見ている。

 そんな壱子を見下ろしていた篁は、良いことを思いついてニカッと笑った。


「壱子、おまえに頼みがある。俺の部屋に、こっそり食い物と水を持ってきてくれないか?」

「いいけど……」


 首を傾げる壱子に「頼んだ!」と言い捨てて、篁は庭の池を大回りして自分の部屋へ向かった。


 ひと気のない裏庭に面した回廊に胡坐をかき、懐から取り出した子犬をそっと板の間に下ろしてやる。体を包んだ狩衣かりぎぬの片袖は血とドクダミの汁で汚れていたが、どうやら血は止まっているようだ。


 新しいドクダミの葉を傷口にあてて、きれいな布で巻く。

 血で汚れた腹を拭っていると、壱子がやって来た。


「なぁにその子? 怪我してるの?」

 お盆を板の間に置いて、壱子は篁の向かいに座り込んだ。


鳥野辺とりのべの林の中で見つけたんだ。壱子……何があっても驚かないでくれるか? それと、こいつのことは黙っていてくれるか?」


「うん、それはいいけど……タカちゃんが食べるのかと思ったから」


 ちらりと視線を向けた盆の上には、山盛りのご飯と水の入った器がのっていた。


「大丈夫だ。まずは水を飲ませてやろう」


 篁は片手に水を少しだけ注ぎ、子犬の口元に持って行った。すると、子犬はペロペロと水を舐め始めた。





 半時もすると、子犬はみるみる元気になった。まだ動き回りはしないが、ちょこんと座って、水で柔らかくしたご飯も平らげた。


「……助けてくれてありがとう。オイラはシロタ。エンマ様のお使いなんだ」


「えっ、なっ、何この子!」

 壱子がのけ反って、そのまま後ろに尻餅をついた。


「だーから驚くなって言ったろ。俺は篁だ。こいつは壱子。ずいぶん元気が戻って来たな」

 篁は大きな手のひらでシロタの頭を撫でた。

「で、エンマ様って?」


「冥界の王様だよ。オイラの兄ちゃんたちは、寿命をまっとうした魂を迎えに行く仕事をしてるんだけど、オイラは魔魅まみって妖怪を倒す役目を言いつけられたんだ。けど……上手くいかなくて」


「おまえ一匹でか? その兄ちゃんたちは手伝ってくれないのか?」


 篁がそう訊くと、シロタは途端にモジモジしはじめ、モフモフの尻尾は元気をなくした。


「兄ちゃんたちは、オイラを弟だと思ってないんだ。オイラは、母ちゃんが散歩に出た時に、人界に住む白狼に一目ぼれしてできた子だから……姿も全然違うんだ。オイラの毛はこの通り白いけど、兄ちゃんたちの毛は茶と黒のまだら模様なんだ。だから、オイラのことを魔犬と獣の混血だって、意地悪するんだ」


「はぁ? なんだそれ」


 篁は憤慨したが、隣に座りなおした壱子は小さく息をついて「わかるわ」とつぶやいた。おそらく、壱子は自分の身の上をシロタに重ねているのだろう。


「まぁ、そうだな……俺もちょっとはわかるよ。おまえは本当に岑守みねもりの息子かって、帝にも言われたし」


「それはタカちゃんが勉強しなかったからでしょ? ちゃんと勉強さえすれば、タカちゃんは参議にもなれるって、父さまが言ってたわ」


「さっ、参議ぃ~?」


 篁は素っ頓狂な声を上げた。今の参議は壱子の父三守ただもりだ。その後継には、地方官を歴任中の父、岑守みねもりがなるのではと囁かれている要職中の要職で、本当に父の子かと嘲笑われている篁には夢のまた夢でしかない。


「ちゃんと勉強しなさいよ!」


 壱子にはっぱを掛けられた篁は、「うっ、うむ……」と頷くだけだった。

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