「ゼロの偽証」 怪物

「こいつは……」

 目の前にある床に落ちた分厚い資料────『魔力の持つ異常特性の兵器利用の可否性、及び有意識動物に対するマジック・リコイルの影響実験記録』、表紙に『修正前、全三二〇ページ』の付箋が貼られているだけのそれを拾い上げ、前半の数ページをめくり内容にざっと目を向ける。

 蟻、蜘蛛などの昆虫。魚類や爬虫類、最終項には犬や猫、鼠などの哺乳類。

 それらの実験前のものとその末路の写真が並べられ、簡単な説明書きが書かれていた。

『境界、即ち自己認識の曖昧な生物は魔力の影響は精神ではなく、その宿主である脳に不可逆なダメージを与えるものと推測される』

 昼飯を食べる前でよかった。実験後の写真は、それはそれは凄惨なものだ。

 虫やトカゲならまだしも、犬や猫が目から、鼻から、耳から赤みを帯びた液体を垂れ流しながら倒れている姿などは吐き気がする。

 ご丁寧に補遺には垂れ流されている液体は血と液状化した脳であると書かれていた。悪趣味にも程がある。

『何かあったか?』

「動物たちのスプラッタ写真集だ。マジック・リコイルに関しての実験は認可されてたか?」

『対テロ特別措置法で禁止されている、保安局も地に堕ちたな。その資料は回収してくれ』

 後半に差し掛かるところで、イポスの手が止まった。

「は……?」

 六部で構成された実験記録。その最後にあたる第六部の見出しに書かれているのは。

「人体実験記録、だと?」

『……イポス、もう一度頼む』

「人体実験記録だ。あんたの耳は狂っていないと思うぞ」

 無線の向こう、ヘキサゴンタワー内の総合指令室でざわめきが起きているのが聞こえる。

 一枚、恐る恐るページをめくる。

「クソッタレ」

 思った通りだった。だが、予想が当たったことを嬉しく思うことは決してない。

 写真が二つ、それぞれに少年と中年女性が写っている。性別も年齢も、何もかも違う二人に共通しているのは椅子に座っていることと表情のみだ。

 動物の時と同じく耳と鼻、両目それから口から粘性のある赤い液体を垂れ流している。目が虚ろで焦点が合っていない。

 説明文を読まなくてもわかる、写真に写る二人は死んでいる。

『……どうだ?』

「説明して欲しいか?」

『っ、すまん』

 文章をひたすらに読んだ。写真に意識を向けた時、次は吐かない自信がないからだ。

 どうやら、マジック・リコイルのレベル毎に人体にどれだけの影響が出るかの実験だったようだ。ただ、実験結果は個人差が激しい様子がグラフや表からは見て取れる。

 喉の奥から何かが込み上げてくるのを必死に抑えながら最後のページまで流し読みが終わった時に、破れた跡があることに気付いた。

 見れば、最後のページは三〇二ページ。付箋に書いてあった数字から考えれば十八ページ分足りない。

「ジョン、この資料は最後の部分が破られている。誰かが持ち去ったようだ」

『順当に考えればブースだな、奴の足取りが掴めるような痕跡はないか?』

 足取り、そう一口に言われても何を探せばいいのかわからない。

 腰に提げたバックパックに資料を丸めて入れていると、ふと、床に転がった固定式のダイヤル電話が目に入る。恐らくビル内の内線通信だろう。ダイヤルボタンの上にあるインジケータに表示された手順を踏んで、履歴を確認する。

 直近でかけたのは一〇三、そばにあったダイヤル帳によるとブース直属の即応機動部隊、エンヴィー部隊の隊長にかけたようだ。

「ジョン、エンヴィー部隊について調べてくれ。ブースが一時間前にかけたようだ」

「仕事熱心なことだ」

 背後から、突然声がした。

 慌てて、マテバを構えて振り向く、その瞬間に左頬を尋常ではない衝撃が襲う。

 綺麗に顎に入った。後ろに下がった右足が平衡感覚が保てなかったせいで踏ん張れず、背後のデスクを自分の身体で押し退けながら床に倒れる。

 ぼんやりとした視界に、襲撃者の姿が見える。ここでようやく、誰かに殴られたのだ、ということを理解した。

 背はイポスよりも二回りほど大きい、黒いシンプルなコンバットスーツを破らんばかりに隆々とした筋肉、グレージュの短髪とくすんだ灰色の眼。

 冷静とも無関心ともとれる男の瞳の奥には、イポスを敵視する色が見てとれる。

「熱心なのは良いことだが、風情が大事を成そうとは、些か傲慢ではないか?」

「……何言ってんのかわかんねえよ」

 胸倉を両手でつかまれて、低い声が投げかけられた。憎まれ口で返してやると、両の足が宙に浮いた。凄まじい腕力だ。

「知る必要もない。知ろうが知るまいが、どのみちお前は死ぬ」

 重力を感じなくなる。身体が宙に浮いたのだと理解すると同時に壁面ガラスにイポスの身体が衝突する。

「がぁっ!」

 背面の厚み十センチの強化ガラスに蜘蛛の巣のような亀裂が走った。背骨が砕けるような衝撃で、呼吸が止まった。

 細かなガラスの破片を撒き散らしながら、床に落ちる。

 身体を脱力感が支配する。指一本動かす気力も湧かない。

「所詮、凡人だ。絶望的な能力差を見せつけられれば、成すがままになるのが定めというもの」

 首筋を左手で掴まれ、強引に直立させられる。

「君は気丈だ、いや蛮勇というべきか」

 両足を踏ん張る。確かに、強化ガラスにヒビを入れ、人を予備動作無しで軽々投げられるほどの腕力。あまりに人間離れしている。それに比べれば、イポスは凡人だ。

 だが、こいつは非凡と言うよりかは、人外だろう。

「どちらにせよ、君はどちらが格上か理解できないただの猿だ!」

 吐き捨てるように、鳩尾に拳がクリーンヒットする。

 繰り返すようだが、昼食を食べる前で良かった。喉奥から胃酸が込み上げ、首を圧迫していた左手が離れたことで、イポスはその場にしゃがみ込んでしまう。

 胃酸を無理やり飲み込む。喉と食道が焼けるようだ。

 内臓がやられていないか、血管は破裂していないか、不安は募っていく。

 その不安や吐き気、眩暈、耳鳴り、どれもが戦闘の上で致命的な不利を誘発するものだ。

 このままでは、もう一度ガラスに叩きつけられて外に放り出されるか、殴られ蹴られて脳に致命的なダメージが入るかの二択だ。

 だが、身体が動かない。

 失敗か。ネガティブな思考が身体を鉛に変える。

 視界が白飛びし、意識は霧の中のように靄に包まれた。



「いつ何時でも冷静に頭を使いなさい」

 いつもの台詞だ。この次に出る言葉を俺は知っている。

「理解し、干渉すれば、操作できるようになる。それはあらゆることに共通している」

 タンクトップと女性物のコンバットパンツだけ身につけた彼女の顔を、仰向けの状態で眺める。

 ここはヘキサゴンタワーの地下六階、トレーニング機器などが数多く存在するフロアで、射撃訓練場に次ぐ実働部隊御用達の場だ。

 その内、普段は物置────と言っても、ここに物が置かれている時を見たことはないのだが、ともかく空いている部屋にレラジェとイポスはいた。

 実地訓練生のイポスは、ほぼ毎日の頻度でこの部屋に来てはゴムナイフとラバー製の警棒を使った訓練を行っている。

 しかしながら、そこで行われるのは訓練と呼ぶには憚られるものだ。

 使う得物が非殺傷性なだけで、殺し合いと大差ない。

「貴方に必要なのは相手を誘導すること、行動を読むだけでは限度がある」

 結果はいつも決まっている。今日のは、体勢を崩されたイポスの喉元にナイフが刺さる、というものだ。

 この前のは銃弾が心臓を貫いたし、その前はナイフが片目を貫いて脳を損傷させた。ある時は明るい中で、ある時は真っ暗でほんの数センチ先も見えない中で。そうやって、イポスとレラジェは研鑽を積んでいた。

「受け身でいたら本当に死ぬわよ」

「教官に殺されそうです」

 イポスは優秀だ。

 前歴こそないが、体力・射撃・体術、スペクターの実施するどのテストでもほぼ満点を取っている。

 実地訓練や潜在テロ組織を一斉検挙した「高崎事件」でも手柄を挙げたイポスは、一人で中規模組織を撃滅できるとされる者に与えられる「エージェント」の勲を受けている。

 だが、そんな優秀な彼でもレラジェを打ち負かしたことがない。

「優秀な貴方を殺す愚を犯す気はないわ。少なくとも味方のうちは」

 壁の端に避けてあった上着から、レラジェはイポスに背中を向けて煙草を1本取り出す。

 暖かな光が灯ったかと思うと同時に、レラジェは口から煙を吐きながら振り返る。痛む四肢に鞭打って上体を起こしたイポスの横にレラジェは座った。

「私は単純なパワーでは貴方に劣っている。でも、現代戦はそれだけでは語れない」

 彼女の動きは多彩で、予測がつきづらい。避けることも攻撃することがそもそも難しい。

 加えて、レラジェはこちらの動きを完全に分かり切っているように動く。

 単純なパワーでは勝っていても、レラジェには敵わない。

 答えはいつも、レラジェが言っている。

「如何に自分の間合いに持っていくか、ですか?」

 レラジェの言葉の続きを、イポスは続ける。

 彼女は黙ったまま、煙を吐いた。その煙は丸い輪を描いて、天井へと向かっていく。正解、という意味だろう。

 微笑んだレラジェが煙草の吸い口をこちらに向けてくる。

「一口いかがかしら?」

 一瞬黙考した後に、軽く頷く。

 彼女の手が伸びて、吸い口と細い指が唇に触れた。イポスの心臓は少しばかり跳ねる。

 口の中に入ってきた煙と、汗に濡れた彼女の物憂げな顔が、肺と心臓を締め付けた。


 気を失っていたのは5秒にも満たなかったらしい。

 グレージュの髪の男がうずくまったイポスの脇腹に蹴りを入れた痛みで、イポスの意識が現実へと引き戻された。

 イポスの身体は、グレーのタイルカーペットの上を転がる。

「存外、丈夫なようだな」

 イポスは立ち上がった。

 右腕のスマートウォッチを見る────ヘキサゴンタワー襲撃事件収束から一時間二十五分が経過していた。

「凡人にもできることがあることを証明したくてな」

 いつ何時でも、冷静に。理解し、干渉し、操作する。レラジェの口癖だ。

 グレージュの髪の男との距離は三メートル程度。

「所詮は凡人だ。いつまで持つかな」

 勝負は一瞬でつける。手負いの状態で長期戦に持ち込むのは悪手だ。

 アドレナリンが痛覚を鈍くする。男の左眼を鋭く睨む。

「少しは楽しませてくれよ?」

 飛ぶように、近づいてきた男。およそ人間業ではない速度の右フックを、上体を反らすことで避ける。

 左足を引いて身体を引き寄せることで次の左フックを避ける。

 攻守交代、イポスは左拳を鳩尾にヒットさせる。いくら鍛えようと、鳩尾は急所の一つだ。ある程度のダメージは入るはず。

 少し男がよろめいた。こじ開けた勝算だ、逃す手はない。右足で男の右膝の裏を蹴る。

 男の体勢が崩れる、はずだった。よろめきはしたが、左足で踏みとどまったのだ。

 反撃が来る。

 イポスは顔面を覆うように両手でガードする。そこを目掛けて、男は拳を振るう。

 驚異的な速さの右拳は、イポスのガードを容易く崩した。

 イポスの首元に男の左手が伸びる。壁に押し付けられ、イポスの首にかかる圧力が強くなる。

「楽しませてもらったよ」

 顔を上気させ、酸素を求めて口をぱくぱくさせるイポスに、口の端を歪めて男は語りかける。

 イポスの足は壁を叩くだけで、床に触れることはない。

 呼吸ができない。イポスは、抵抗するために男の左腕を両手で叩くが、それが打開になる程のダメージを男には与えられない。

「だが、君一人にかけられる時間は少ない」

 男は笑い、そのまま首の骨を折らんばかりにイポスの気道と動脈をさらに圧迫する。

「私の勝ちだ、凡人」

 高らかに、目の前の非凡な男は勝利を宣言する。


────イポスが一瞬笑った。

 同時に男の視界を眩い光が支配した。

 拘束が解ける。自由になったイポスは床に落ちて、咳き込みながら文字通り死ぬほど欲した酸素を忙しく肺に送り込む。

 視界の端で、男は目を覆って雄叫びを上げている。

 民間に紛れ込むことも多い実働部門の職員にとって、不審がられることなく実戦的な武器を持つことは必須だ。

 スペクター創立当初は所属職員が闇討ちを受けることも多く、また銃を不必要に携帯することは社会不安をいたずらに増大させてしまった。そこで組織されたのが世界中の科学技術の粋を結集した研究機関、それがスペクターの研究部門だ。

 テロリストを効率的に無力化する技術は、同時にスペクター所属職員の命を守る技術でもある。ボタンひとつで展開できる防弾シールドや、伸縮式の特殊警棒、そして二式警棒。無数にあるガジェット、そのどれもが実働部門の職員たちの要望で作られ、多くの命を救ってきたのだ。

 イポスの右手首に巻かれたスマートウォッチも、その一つだ。

 バイタルデータのモニタリング、自動マッピングなどの様々な機能が備わっている便利な腕時計だ。

 このスマートウォッチには、側面に一つ、丸い金属パーツが付いている。主に回転させて操作するものだが、これを引き抜くと、人の目を潰すほど眩い光が時計盤上から発せられる。

「計ったな!?」

 男が目を押さえながら叫ぶ。イポスは答えることなく、男の服の襟を両手で掴み、遠心力を使って天板が少し凹んでしまっているデスクに放り投げる。

 けたたましい音と共に、男は動かなくなる。

 その通り、全て計っていたことだ。

 過剰な自信家であること、武器を使わないこと、選民意識があること。男はベラベラと全て喋ってくれたのだ、その十分すぎる情報から行動パターンを叩き出して唯一の勝算────フラッシュによる目潰しまで相手を誘導する。

 まだまだレラジェに比べれば稚拙だが、彼女はイポスを十分に育て上げてくれていた。

「サイラス!」

 部屋の外から女性の声がした。

 ドアの方を振り向くと、黒い目隠しで両眼を塞いだ細身でスーツの女性がいる。その手に握られているのは消音器付きの拳銃だ。

 床に転がっているマテバに手を伸ばし、拾いながら前転。二回の抑制された銃声がイポスの鼓膜を揺らす。

 床に寝転がり、拾ったマテバを両手で構え、上体を少し持ち上げて照準し、目隠しした女へ二度発砲。素早く身を隠され、銃弾は空を切って廊下の壁に二つ穴を空けた。

 すぐさま立ち上がって、威嚇射撃を二度行いながらドアへ向かって走る。

 破壊されたドアを潜り、マテバを構えて件の女が身を隠した方向である右を向く。七メートルほど離れたところにしゃがんだ女、拳銃をこちらに構えている。

 ほぼ同時の発砲。

 立っていることを想定していたがために、照準がブレた。頭を狙ったマテバの銃弾は、左腿の辺りに命中する。

 逆に女の弾は、イポスのスーツの左肩辺りに命中、防弾スーツを貫通することはなかったが、既に満身創痍のイポスにはきつい一撃だった。

 なんとか踏ん張って倒れずには済んだが、大きな隙ができる。次に飛んでくる弾丸が致命傷にならないようにイポスは顔を右腕で覆う。

 一方、イポスと同じ防弾スーツを着た女は左大腿に当たった銃弾の衝撃に少し顔を顰めながら、イポスの顔を狙って引き金を引く。

 銃弾はイポスの右の二の腕の付け根あたりに命中し、痛みと衝撃で顔を覆った右腕を引き剥がす。

 イポスは短い呼吸の後、向けられた銃口に意識を注ぐ。崩れかけた姿勢で、射線から身体を無理やり逸らす。

 四度目の静かな銃声。銃弾はイポスの顔の五センチ程離れたところを駆けていく。女の銃のスライドが後退し、弾き出された空薬莢が床のカーペットを転がって止まる。

 次に狙われるのはどこだ。

 イポスの弾避けの技術は、銃口と相手の目線、基本的な射撃教本に見られる優先目標の理論から次弾の射線を推測することで成立している。それ故に、射撃技術の高い人間の方が射線を読みやすい。この目の前にいる女性の射撃精度は、恐らくイポスと比肩する程高い、それ故に銃弾は避けやすい筈だ。

 だが、次弾の射線が読めない。無理な体勢で弾を避けたせいで、銃口が自分の身体で見辛くなってしまった。行き場の無い焦点は黒い布で覆われた女の眼に合うが、その両眼が何を、イポスのどこを狙っているかが分からない。いや、そもそも何か見えているのかすらも分からない。

 銃声、それと同時に激しい動きで捲れたジャケットを九ミリ被甲弾が押し除けていき、イポスを貫いた。


 当たりどころが良かったのだろうか、膝から崩れ落ちたイポスが動かないことを確認してから女────トーカは立ち上がる。若干の疼痛が左足を襲うが、ゆっくりはしていられない。

 相棒のサイラスの安否確認をするために、防弾スーツを整えて歩き出す。

 愛銃UP9Cのマガジンキャッチを押し込んで弾倉を床に落下させ、ポケットから取り出した替えの弾倉をグリップ部分に押し込む。

 亜麻色の短い髪を揺らしながらブースのオフィスへ向かう、その時だった。

 イポスが動いた。うずくまりながらも、右腕を伸ばしてマテバでトーカの拳銃を狙っている。

 油断していたトーカは、コンマ数秒、反応が遅れた。火器が支配する現代戦において、それは致命的なものだ。

 銃声、九ミリ弾は当たることこそなかったが、その衝撃波がトーカの右手を襲う。痛みに耐えかねたトーカは拳銃を落とした。

 イポスは立ち上がる。トーカとの距離、目測でおよそ五メートル。

 既に六発撃ち切ったマテバを、トーカに向かって全力投球、それと同時に走り出す。トーカは顔面に向かってきたマテバを左腕で払いのけ、懐からナイフを逆手で取り出す。

 向かうイポスの右手には、二式警棒が握られている。

 初撃が早かったのはイポスだ。トーカの左頬を狙った二式警棒は上体を反らされたせいで空を切る。避けたトーカは、体勢を立て直し、右手に逆手で握られたナイフをイポスのがら空きになった首筋目掛けて振り下ろす。素早くそれを察知したイポスは右腕を強引に引いて、振り下ろし切る前の腕に無理やりぶつけてナイフを制止する。

 一秒間の静止。それはナイフを刺そうとするトーカと刺されまいとするイポスのせめぎ合いの時間でもあったが、次の一手を脳をフル回転させて考える時間でもあった。

 先に動いたのはトーカだ。空いている左手でイポスの首の付け根を後ろから掴んで思い切り壁に叩きつける。必死の抵抗としてイポスはトーカの右腕を絡め取り、自分の顔の前に持ってくることで壁とのクッションにする。

 衝撃、意識はまだある。

 トーカは巻き込まれた右腕を引き抜かんとして握っているナイフをイポスに向ける。無論、イポスはそれを左手で押さえて抗う。状況は不利だ、この状態をどう切り抜けるべきだ?

 手首を器用に回し、握ったナイフで首を刈らんとするトーカの右腕を右手と顎で動けないようにする。左手を握り、ナイフが握られたトーカの右手の付け根を思い切り叩く。

 痛みに耐えかねたトーカがナイフを落とした。

 イポスは壁を蹴ってトーカの拘束から逃れ、トーカの腕は掴んだまま後ろの壁に激突する。素早く身を引いたトーカはそれに巻き込まれることはなかったが、腕を引かれたせいで無防備な正面をイポスに晒してしまう。

 イポスはさらに右腕を強く引き寄せてトーカを近づけ、同時に右脛を狙って右足を横薙ぎに払う。

 軸足を払われたトーカは背中から倒れ込む。だが、まざまざとやられる訳では無い。横向きに倒れながらも左手を伸ばしてイポスのスーツの後ろ襟を掴む。

 トーカが床に倒れ、それに引き倒されてイポスもトーカにのしかかるように倒れる。

 何とか左手を床についたイポスの身体が、トーカが立てた右足に乗っかっている。そのことに気づくが、それはほんの少し遅かった。イポスは重力に逆らって頭上方向へ飛ばされる────巴投げだ。

 受け身が間に合わなかった、イポスは背中を強かに打ちつける。

 トーカは起き上がって落としたナイフを拾い上げ、そこに倒れているイポスの顔を狙って振り落とす。

 イポスはそれを転がって避け、ナイフは床に突き刺さる。イポスは立ち上がって二式警棒の円筒部分を左手で握って鎖をピンと張る。

「お前らは誰だ」

「聞いたところであなたは死ぬわよ?」

 イポスの問いに答えながら、トーカは逆手で握っていたナイフを順手に直す。

 来る。トーカが右腕を伸ばしてナイフの刺突を繰り出す。イポスはそれを二式警棒の鎖で捌く。

 二撃目、三撃目、流れるように攻撃を逸らす。まだだ。

 四撃目、隙が見えた。首元を狙ったナイフを滑らせるように鎖でいなして手首に巻きつける。

 イポスは身体を半回転して、トーカの右腕を担ぎ上げるように左肩に載せる。

 トーカは抵抗するように腕を引き抜こうとするが、動かない。鎖ごとイポスはトーカの右腕を持ち上げ、勢いよく左肩にぶつける。

「がぁっ!」

 骨が軋む音が、トーカの叫び声で掻き消される。

 ナイフが床に落ちる。それを確認した後、イポスは左手を離して肘打ちをトーカの鳩尾に行う。同時に右手を引いて巻きついた二式警棒を回収する。

 トーカはと言うと、痛みを堪えて立っているのがやっとなほどだった。

 イポスはその隙を逃さない。左肩に載せたトーカの腕を入れ替えて、腰を落として背負い投げる。

 投げられたトーカは床に落ちる。咳き込みながら、投げ飛ばされた時に感じた背中の異物感の正体に手を伸ばす。左手に金属特有の冷たさが伝わるのを感じる。それを掴んでみると、あまりに手に馴染む。見なくてもわかる、それは愛銃だ。

 トーカを投げたイポスは踵を返してトーカに弾かれたマテバを回収する。弾切れなのはわかっている。シリンダーを急いで開放し、六つの空薬莢を排出する。

 そうしたら一発だけシリンダーの一番下に込める。

 トーカが体を起こし、こちらに背中を向けてマテバをリロードしているイポスの頭を狙う。平衡感覚を失ったせいで照準が覚束ないが、当たる。そう確信したうえでトーカは引き金を引く。


 銃声は、鳴らなかった。

 抑制されているという意味ではない。文字通り、一切鳴らなかった。

 イポスがシリンダーを戻して振り返る。トーカに銃口が向いているのは明らかだ。

 銃声。今度はきちんと響いた。

 咄嗟に腕で顔を覆ったトーカの胸部に九ミリ弾は命中。生憎、そこにあったのは防弾スーツだったので、貫通することはなかった。

 しかし、その一撃は強烈だった。先ほど込めた銃弾は強装弾────いわゆるマグナム弾だ。通常扱う銃弾よりも薬莢内に入れる火薬の量を多くして弾頭の初速とマンストッピングパワーが高い。無論、小口径の銃弾が持ちうるエネルギーは人間からすれば微々たるものだ。

 だが、どこに重心が、どこに急所があるかを理解すれば数秒間行動不能に陥らせることは可能だ。

 イポスの眼に狂いは無かった。

 防弾装備の大半は致命傷に至らないというだけで、その衝撃を逃してはくれない。三半規管の狂ったトーカには、一発の弾丸が体幹を崩すのに十分だった。

 トーカはその場で倒れ、落下の衝撃とトーカの体重で動作不良を起こした拳銃を落とした。

 トーカの全身がズキズキと痛み、動くことを拒んだ。


 もう時間がない。

 イポスのシャツは左腹部が赤く染まり、焦げたような穴が空いている。赤いシミは刻一刻と広がり続けている。

 トーカに撃たれた時のものだ。弾は貫通しているが、アドレナリンの分泌が止まったのか酷く痛む。

 出血で意識が霞んだ。

 マテバをホルスターにしまってから、トーカとサイラスを放って壁伝いに歩いて行き、階段を登る。

 途中、所々で死体が道を塞いでいた。ふらふらとおぼつかない足取りでそれを乗り越え、三階分の階段を登り終える。

 あの二人は誰だったのだ。あの異常な身体能力は何なのか、目隠ししていながら何故あんなにも正確な射撃ができる、何が見えていたのか、いやそもそも何か見えていたのか?

 思考がぐるぐると回転しているうちに、屋上への扉が目の前にあった。大きな何かが風を切る音が聞こえる。恐らくはヘリコプターだ。

 ゆっくりと、ドアノブに手をかけた。その瞬間、扉が引っ張られた。

 ノブを握っていたイポスはそれに引かれて、外へと飛び出す。足がもつれてその場で転んだイポスをゾロゾロと、顔をペイントが施されたフルフェイスガスマスクで隠した兵士たちが素早く囲う。

「動くな、手を頭の上に載せろ!」

 気づけば数人に囲まれている。そのうちの誰かがイポスにその場を動かないよう指示する。イポスはそれに従って手を後頭部に載せた。

 仰向けの状態のイポスには、それが敵か味方かわからない。ちょうど真横に立っていた兵士の一人が、足を使ってイポスをひっくり返す。

 視界がクリアになった。そこにいるのは屈強な男たちだ。黒を基調とした装備に身を包んだ兵士たち、その左腕に見えるのは角の折れた隻眼の鬼の徽章ワッペン────「泣く鬼クライ・デビル」のコードネームを持つエージェント直属の機動部隊のシンボルだ。

 そして、その「泣く鬼」の隊長に据えられているのは、イポス。すなわち目の前にいるのは味方だ。

「失礼いたしました、イポス大尉」

 顔を確認した部隊員たちはライフルを下ろして敬礼をイポスに送っている。

「怪我が酷いようです。肩を貸します、ヘリで治療しますので乗ってください」

 徽章の下のついた階級章に三本の山が、大尉を示すシンボルがついている、この中で最も位の高い部隊員がイポスに左手を伸ばす。

 それを右手で掴んで立ち上がり、肩を借りて大型の輸送ヘリに歩いていく。

 初めて会う自分の部隊員たちに挨拶や礼の一つでもしたいところだが、既に喋ることすらままならない程にイポスは疲弊している。

 だが、言わなければならないことがある。

 たった一つ、言わなければならないことを脳内で組み立てて、肩を貸してくれている部下に言葉を搾り出す。

「中に、二人……怪物がいる」

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