第2話・賄い係のひよりちゃん
早朝、ひよりが部屋の障子戸を開けると、庭先から風に乗って甘酸っぱい香りが鼻をくすぐった。
それは朝陽に照らされ美しく咲き揃う梅の花から流れ来る香りだった。
「いい匂い!」
春が近くなってきたなぁ。
朝の空気も一日毎に暖かく感じられるような気がして、ひよりは嬉しくなった。
冬の炊事は正直辛い。
朝は暗いし、炊事場は寒いし、水は冷たい。
煮炊きの湯気で調理場が暖まるまで時間もかかる。
少し前まではとにかく寒くて、朝はたくさん重ね着をして炊事場に立っていた。
着膨れたひよりを見て、ダルマちゃんだの、太った栗鼠とか。
早朝の鍛練に出向く隊員の一人に、ひよりはよくからかわれた。
しかし華奢で寒がりなひよりは、たくさん着込まないと身体が暖まらないのだ。
賄い係の朝は、とっても忙しい。
テキパキと作業をこなさなければ、時間はどんどん過ぎてしまう。
自分を含め、六人分の朝食をひとりで作るのに、寒いの眠いのとは言ってられない。
私には、
自分ができる範囲のことは、しっかりやるのだと決めて、ここに来たのだ。
ダルマだろうが太ったリスになろうが、構うことなく冬の間、ひよりは重ね着でしのいだ。
それでもようやく、今朝のように陽気が暖かくなってくれば、そう何枚も重ね着をしなくてもよい。
ダルマちゃんとか太った栗鼠とか。略して『
ひよりはぼんやり考えながら鏡台の前で身支度を整える。
肩まである薄茶色の髪をしっかり梳かしてから後ろに結わえ、頭に三角巾を被る。何枚か手縫いで作った中で今日は白布に薄紅梅色の糸で小さく控えめに花の刺繍を施した三角巾を選んだ。
制服でもある割烹着は若芽色。薄淡い黄緑系だが落ち着いた灰みのある色合いだ。
支給されている割烹着や
割烹着の
眠くてぼんやりしていた緑色の瞳にもようやく活気が入る。
賄いの仕事は大変だが、料理を作ることは昔から大好きだった。
調理の仕事に携われることは、ひよりにとって、幸せなことの一つだった。
『たくさんの幸せを感じ取り、それを想いに変えて、心を込めて作られた料理は食べた者に〈特別な糧〉を授けることができる。』
これはひよりが尊敬してやまない、大好きなお師匠さまの教えのひとつ。
『特別な糧』というのは、力の源を元気にする栄養のようなものだと、お師匠さまは言った。
───想いを込めて作った料理には、ときに想像もできない力を秘めるときがあるんだよ。
これもお師匠さまがよく言っていたことだ。
手紙はもう届いただろうか。
「……さて。支度、支度!」
お腹いっぱい梅の香りを吸い込んで。
ひよりは部屋を出た。
ひよりが住み込みの賄い係りとして出向いているのは、妖霊を退治する戦闘師団の中でも、特に優れた戦闘能力を持つ
妖霊は人間に憑りつき、人が持つ負の想いを糧にして妖力を増大させる。
妖気が薄く形の定まらない〈妖霊〉から力を増すにつれ〈霊鬼〉〈鬼獣〉と姿も変化し、最終変形体は〈妖鬼〉と呼ばれ人の姿に近くなる。
妖鬼は人間を喰らうこともあれば、精神と肉体を乗っ取ることもある。
狙われるのは主に〈
闘魄とは〈戦う闘志〉の意。庶人とは帝国で暮らす一般人を意味する。
ここ『晶蓮国』では闘魄を持たない者を庶人。
闘魄を身の内に秘めた者を仙者と呼んている。
仙者の中でも闘魄値が定められた数値よりも高い者は、帝国の中枢である晶蓮城で更に細かく調べられ、闘魄の数値により文仙と武仙に分けられ、城内での職に就くことが許されていた。
文仙は帝王が治める晶蓮国の政事に携わり、武仙は帝国を守る軍部の隊員として
晶蓮城には、帝が政事を執り行う『統司宮』があり、戦事を担う『戦闘師団』があり、ひよりは去年の秋頃から戦闘師団内にある部署『糧給支部・厨房班』に配属となった。
闘魄は多少あっても文仙のひよりはもともと四司の機関がある統司宮の中でも〈第四宮
糧司宮とは、晶蓮城内において仙者の食に携わる職務を担い、食に関する供給等全般を取り仕切る機関だ。
御年十七歳のひよりは五年前、十二歳で晶蓮城入りし、糧司宮で二年間の調理師見習い期間を終えた後、城に仕える仙者たちが利用する大食堂で調理補佐となり三年が経っていた。
それが突然、どうしたことか年明けに移動となった。
戦闘師団内にある『糧給支部・厨房班』という移動先に不満はなかった。
厨房班でなら、調理の仕事は続けられる。
きっと補佐役に欠員でも出たのだろうと、当初はそう思っていた。───が、
その後、自分を待っていた辞令にひよりは驚愕した。
まさか自分が護闘士班隊へ出向し、専属の調理人『賄い係』になるとは。
戦闘師団は一から十の班隊に分かれている。
一から五班隊が【上番隊】と呼ばれる部隊。
六から十班が【後番隊】と呼ばれる護闘士班。
その違いは闘魄の強弱や戦闘能力の高低などで分けられ、後番隊になればなるほどに能力の差には広がりがある。───つまり、ひよりの出向先、九班隊は護闘士班最後尾から二番目。
戦闘師団の中でも、最強に近い隊員が集まる班、ということになる。
そこの専属賄い係。
ちなみに『護闘士』とは戦いに使用する
破魔の力を持つ太刀を得た武仙だけが昇格し後番隊の班員となり護闘士を名乗ることができるのだ。
私が護闘士班隊専属の賄い係になんて……。
そんな役職に就けるのは、調理補佐を終えて、班長とか厨房長とか、料理長とか!
支部長とか!
そんな階段を上がった、ごくごく一部の、偉~い文仙が務める職だと思っていたし、そう聞いていた。
それに……。班専属の賄い職は十年前に廃止になった……とも聞いていた。
なのになぜ?
けれどひよりに真実が伝えられることはなかった。
上司でもある糧給支部長はひよりに言った。
「それはさぁ、九班隊の
なんだか……なんだろう。───嘘っぽい。なにか裏があるような……?
とは思ったが。これ以上聞くなという雰囲気があったことと、ひよりの立場上、遠慮はしても断ることなど当然許されず。
「はい」と返事をするしかなかった。
何かスッキリしないものが心の隅に残ったけれど。
尋ねても教えてもらえそうにない。ならばもう、ただ美味しい料理を毎日作ろう。
そう心に決めた。
仙者とはいえ文仙で、そのうえひよりの持つ闘魄は、とてもとても小さい力だけれど。
心を込めて、美味しいご飯を作ることが、今のひよりが精一杯頑張れること。
この帝国で、晶蓮城で。
自分に与えられた唯一の仕事なのだから……。
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