座敷の打掛

牛尾 仁成

座敷の打掛

 この家に来てから何度目になるかわからないため息を吐いた。


 いくらなんでも不便過ぎる。この令和の時代にスマホがほぼ使い物にならないような土地がこの国にあるのが信じられなかった。インターネットに繋がるのはこの広い家の中で、教授が臨時の研究室を構えた客間だけだ。わざわざそこまでいかないと電話の一つ、ウェブ検索の一つも出来やしない。


 電話だけならもう一つ手段がある。この家の外廊下にある黒電話だ。


 意外にも軽い音で受電を知らせる黒電話の姿を見た時、衝撃を受けた。博物館にあるものがまだ現役で人の生活の場にあることに新鮮な感動を覚えたとも言える。


 家にあるものは何でも使っていいと家の主から許可をもらっていたので、彰は廊下へと出てダイヤルを不慣れな手つきで回して電話を掛けた。重たい受話器の向こう側に実家の母親が出る。実家に帰る予定がズレることを報告をして受話器を置いた。


 ふと、顔を廊下の奥へと向ける。


 今、そこに何かいなかったか?


 廊下の奥は座敷へと繋がっており、昼間だというのに締め切られているせいで日が入らず薄暗くなっている。そういえば、座敷の戸はいつも閉められていた気がする。そんなことを考えながら、僕は座敷の入り口へと足を向ける。


 やはり戸は開け放たれていた。ぽっかりと姿を現した座敷は他の部屋と様相が明らかに違う。まず、奥に向かってぐんと長い造りであり、一番奥に至っては暗すぎてよく見えない。壁面や天井などは派手な意匠を凝らした模様がびっしりと施され、真新しい畳の香りが部屋いっぱいに広がっていた。


 ずっ


 音がする。


 何か重いものを引きずるような音だ。薄暗くてよく見えない座敷の奥に何かがあるのが見えた。


 それは、打掛だった。白地に赤い花や鳥の意匠に、金色の線が彩られた遠目に見ても立派なものだとすぐにわかるものだ。どうしてあんな立派な打掛が畳の上に無造作に置かれているのだろうか?


 ずっ


 その打掛がずるりと動いた。


 ずるり、ずるり、と地を這うように打掛が僕の方へとにじり寄って来る。打掛の下から何かが見える。


 それは手だった。


 白く細い女の手に見える。血色が悪すぎて爪が青黒い。


 その爪が畳に食い込み、ぐいっと引き寄せると打掛が大きく動いた。


 その瞬間に僕は内臓がぎゅっと引き絞られ、体が固まるような感覚を味わった。すぐにでも座敷を飛び出したいのに、足が縫い付けられたように動かないのだ。呼吸が浅くなるのが判る。涼しいはずの座敷の中で全身から嫌な汗がどっと湧き出てきた。


 僕が戦慄するのを待っていたと言わんばかりに打掛は腕を使ってどんどん僕に近寄って来る。腕も1本から2本3本と、打掛の下からもぞもぞと這い出てきてクモの足のように勢いよく動き始めた。


 打掛はもはや走っていた。ばたばたと無数の腕を使って僕に近づき僕を掴もうと、その青白い腕を伸ばした時。


 僕は襟首を何者かに掴まれて、廊下に放り出された。


 僕が板間に倒れ込むのと、座敷の戸が閉められるのは同時だった。


 見上げると、僕をこの家に連れてきた張本人が眉をこれでもかと顰めて見下ろしていた。


「まったく、不用心にもほどがあるぞ五十嵐くん。勝手に家の中をうろついちゃならんだろう?」


 息を整え、何とか立ち上がって僕は先生に抗議した。


「いや、家の中の物は使っていい、とご主人はおっしゃっていたじゃないですか」

「加地さんは物については許可していたが、部屋については何も許可など出されてはいない。古い家の開かずの座敷なんて地雷以外の何物でもないんだから、許可なく入るのはあり得ないぞ、キミ」


 先生は呆れ果てたと言った感じで鼻を鳴らした。


「何を見た?」

「え?」

「私からは何も見えなかったぞ。座敷の奥を見たのは五十嵐くんだけだ。キミは何を見たんだい?」


 豪華な打掛が見えた、と答えた。そして腕が生え、僕目掛けて動いて来たことも話した。


 普通の相手であればこんな話はしない。だが、先生は特別だった。にも詳しい人なのだ。むしろこういう時には下手に体験談をトリミングしない方がいいと僕は経験から知っていた。


 ふむ、と少し唸って先生は僕の全身を上から下までさらっと見回す。


「ああ、そうかキミ交際相手いなかったか」

「そ、それと何の関係が?」


 ナチュラルにセクハラ気味なことを言われて僕は少し面食らうと、先生は極めて煩わしそうな声で言った。


「大いにあるとも。キミは彼女に気に入られてしまったようだ。コイツは面倒なことになるぞ」

 

 そう言って、先生が僕を指さす。正確には僕ではなく、僕の左腕だ。


 左腕に目をやると、手首より少し肘側に何かが付いている。


 あざだ。内出血を起こしたように青く、三本の、ちょうど女の指ぐらいの太さの痣が僕の腕にくっきりと残されていた。




 


 

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座敷の打掛 牛尾 仁成 @hitonariushio

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