かわる、かわる

外東葉久

かわる、かわる

 赤信号を待つ間、その葉を眺めるのが日課になった。大型スーパーの外壁沿いに植えられているツル植物。おそらく、壁に伝わせて建物を暑さから守るために植えたのだろうが、誰も手入れしている様子がない。雨だけで生きているその葉は、ところどころ茶色くなり、暑さのあまり諦めも感じられる表情であった。

 老人は、真っ白な半袖のシャツにベージュのチノパンといった、こざっぱりとした出で立ちで昼間の交差点に立っていた。ハットを被り、アイロンのかかったハンカチでときどき額をぬぐいつつ、手には一輪の花を携えている。

 歩行者用の信号が青に変わり、老人に似たシルエットが浮かび上がった。老人は横断歩道を渡り、左手の坂を登り始めた。青信号は点滅し始めた。老人は街路樹の影に入りながら、しっかりとした足取りで歩いていく。隣を、汗だくの高校生が自転車を立ち漕ぎして通り過ぎていった。

 坂の上に立ち、振り返ると海が見えた。海の上には大きな橋がかかり、トラックやら、乗用車やらが急いで行き交っている。海岸は一帯が埋め立て地で、赤と白のクレーンが数機並んでいる。自然を感じられる光景とはとても言いがたい。

 老人は何か思いつめるような表情で、数秒立ち止まっていたが、またすぐに歩き始めた。四角いポストの立つ角を右に曲がると、視界は開け、一面灰色の土地が見える。老人は灰色の中をすいすいと進み、海がよく見える場所に来た。

 一基の墓の前だった。

 墓石はまだ綺麗で、太陽の光をうけて輝いている。老人は墓石に水をかけた。あたりが一気にムッと蒸し暑くなった。老人は気にせずに花を供え、線香をあげる。

 そして、無言で手を合わせた。

 しばらくして老人は立ち上がり、近くの木陰に腰を下ろした。

 海が見える。

 街には四角い建物がずらっと並んでいる。そのうちのひとつをじっと見つめながら、老人は物思いにふけっている様子だった。

 線香が燃えきると、老人は来た道を戻り始めた。


 オレンジのひさしが住宅街でかわいらしく目立っている。その上にはクリーニング店の看板。店先では朝顔が健気に植わっている。

 小さな店の中は、シャツやズボンでぎっしり詰まっている。店に入ってすぐのカウンターには、「御用の方は呼び鈴を鳴らして下さい」の文字。奥で誰かが動いている音がする。

 「洗濯のじいちゃん」

青年の呼ぶ声がした。呼び鈴は使わないようだ。奥から老人が出てきた。

「やあ、ちょっと待ってな」

老人はそう言ってまた奥に戻り、大量の服の中から、迷いもなく青年の服を取り出した。

「はいよ」

「ありがと」

「お前、大学はどうだ」

「うん。楽しいよ」

「そうか」

「じいちゃんこそ、ひとりで大丈夫なの」

「なんてことないさ。何年やってきたと思ってるんだ」

「寂しくなったらうちへおいでよ。父ちゃんと母ちゃんも喜ぶし、ね」

「大丈夫だよ」

老人は微笑み、青年を送り出した。青年は店を出ても、「暑いから気をつけて」などと振り返っていたが、老人はそそくさと奥に引っ込んでしまった。

 けれども、奥に戻った老人の顔には笑顔が浮かんでいた。

 彼のことは生まれたときから知っている。

 ここは、街のクリーニング店である。


 妻とふたり、長年この店を営んできた。子どもはいない。さっきの青年のように、近所の人に支えられてここまでやってきた。長年の間に、街の様子は変わり、昔の様相はすっかり消えた。この店だけが、ずっと変わりなく立っている。

 妻はこの春亡くなった。今は自分が全てひとりで仕事をしている。効率は少し悪くなったし、お客さんも減った。そろそろ店を閉めるべきかとも思っている。けれども、店がなくなれば自分もなくなる気がして、踏ん切りがつかないでいた。

 妻はこの街の海が好きだった。預かった洗濯物を干すのに、海風があたってはいけないので、店だけは内陸にあるが、しょっちゅう港を歩いたり、丘に登って海を眺めていたりした。自分もそれについて行き、海の変遷も全てこの目で見てきた。だから、お墓は海が見える場所にしたのだ。


 妻を失った悲しさは、まだ心の中に色濃く残っている。アイロンをかけながら、この店も自分がいなくなれば、あっという間に新しい建物に更新されていくのだろう、などと考えていたりする。街が変わっていく光景は今までさんざん見てきた。別にそのことを嫌っているわけではない。ただ、この店に愛着があるのも事実。

 妻の墓に通っているのは、この複雑な気持ちを紛らわせるためでもあった。


 暑い夏が終わり、涼しい風が吹く季節になった。

 老人はいつもの交差点に立っていた。

 ツル植物の葉は、夏を耐えきれずに半分近くが枯れてしまっていた。残った緑の葉がまだらに見えている。誰も手入れしていなかったのだから当然。店員はこれで手入れが必要だと気づいただろうか。

 老人は茶色くなった葉を横目に、横断歩道を渡った。坂を登り、四角いポストの立つ角を曲がる。墓地の中をすいすいと進み、妻の墓の前に来た。

 老人はいつものように墓石に水をかけ、花を供える。その顔からはどこか疲れたような雰囲気が感じられる。

 老人はしゃがみこみ、手を合わせた。

 『なあ、もう店を閉めてもいいかな』

 老人は長いこと手を合わせていた。まるで、妻と会話しているようだった。

 老人はひとつ頷いて、目を開いた。その顔はさっきとうってかわって晴れ晴れとしていた。

 老人は立ち上がった。

 振り返る。

 海が見える。

 手前に小さくオレンジのひさしが見える。

 ああ、店がなくなる。

 毎日洗濯物が入れ替わっていたのに。店先の朝顔は種をつけたのに。ふたりで暮らしたのに。

 動いていたものがもうすぐ止まる。

 そして、また動きだす。

 私は知っている。

 

 かわる、かわる。

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