今はこれで我慢するっ

 俺は恐る恐るドアを開けた。

 室内は薄暗く、サヤは明かりも点けずにベッドに腰掛けて俯いていた。

 顔は良く見えなかったが、その手にはなにか本のような物を持っていた。あれは例のドラマの台本のようだ。


「サヤ……ちょっといいか?」


 声をかけた途端、サヤは慌てて右手で目元を拭って立ち上がる。


「あ、みーくん。どうかしたの?」

「いや、サヤが本当は落ち込んでいるんじゃないかと思って、気になって見に来たんだ」

「なんだそっか。それならこの通り、全然大丈夫だよ」


 そう言ってなんでもないように取り繕ってはいるが、微かに目尻が濡れているのを隠しきれていない。

 やはり役が取れなかったのが堪えているようだ。


「無理しなくていいんだぞ。せめて俺の前では本音を隠さに話してくれないか」


 マジセプのリーダーという立場もあり、メンバーの前では気丈に振る舞わなければならないのは仕方のないことかもしれない。

 ならばせめて一人くらいは本音を話せる相手がいたほうが良いのではないか。

 出来ればその相手が俺であって欲しいと思う。


「みーくん……うん、そうだよね。平気なフリしてたけどやっぱりちょっぴり悲しいかな……サトちゃんが受かって嬉しいっていうのも本当だけど、やっぱり私が演じてみたかった」

「そう気を落とすなって、サヤは精一杯やったんだから」

「ううん、実はそうでもないの。言ってなかったけど、オーディションの時に緊張してちゃんと台詞が言えなかったの」

「え、そうなのか?」


 小学校の音楽会でもそうだったが、サヤは最初の大舞台ではつい緊張して、思うように実力を発揮出来ない癖がある。

 しかし今のサヤは、芸能人としてそれなりに場数を踏んでいるはず。

 にもかかわらず、そんな素人のようなミスを犯すとは。にわかには信じ難い話だ。


「うん、みーくんに祝ってもらえると思うと、つい力み過ぎちゃって……」

「そうだったのか。俺が余計なプレッシャーを与えてしまったんだな。ゴメンな……」

「みーくんは悪くないよ。私が勝手に一人で突っ走っちゃったのがいけないんだし」

「サヤ……そんなに自分を責めることはないよ」


 にわかにサヤが昔の卑屈だった頃のような表情になり、慌てて傍に駆け寄る。

 あれは小学生になる前のこと。幼稚園の冤罪事件がきっかけで、サヤはどんな些細なことでもすぐに謝る癖がついてしまっていた。

 俺が何度も勇気づけてようやく自信を持つようになったが、もうあの頃に戻るようなことはさせない。


「最初の内はこんなもんさ。サヤの実力ならこの先いくらでもチャンスはあるよ」

「そう……かなあ?」

「もちろんだよ。サヤがどれだけ努力しているかは俺が一番良く知ってる。その俺が言うんだから間違いないに決まってるだろ」


 俺がそう言うとサヤの瞳にようやく明るさが戻ってくる。


「みーくん元気出てきた。」

「そっか俺になにか出来ることがあったら」

「わかった、それじゃあ一つお願い言ってもいい?」

「なんだ?」

「膝枕してくれる?」

「ん、ここで?」


 やや唐突感のあるお願いに、思わず聞き返してしまう。

 だが異論がある訳ではない。


「ダメ?」

「まあ……いいよ。サヤがして欲しいなら……」


 何気なくそう言うと、サヤは「ありがとっ」と言って、コテンと俺の膝に頭を預けた。


「んふふぅ……みーくんのお膝……気持ち良いよぉ……」


 サヤは膝の上で、本当に気持ち良さそうに恍惚とした声を漏らす。


「そうだサヤ、もし合格したらお祝いにキスするって言ってたけど、その……サヤがして欲しいって言うなら……」


 本来ならご褒美的な意味合いがあったものだが、サヤの努力を考えたら、その労に報いてもいいんじゃないか、と思ったのだ。

 サヤはしかし続きを言いかけた俺の唇をピトッと人差し指で塞いでこう言った。


「それは駄目だよ。これは私自身の力で勝ち取ってこそ価値があるものなんだから。今ここでしたらズルになっちゃう」

「そうか……そうだよな。いやゴメン、サヤならそう言うと思ったんだけど一応な」

「ありがとうみーくん。いつかキスするのに相応しい時が来るまで待つことにする。でも……」


 言ってからサヤは、人差し指を離して今度は自分の唇にぷにっと押し当てる。


「今はこれで我慢するっ」

「あ……」


 これは完全に間接……。

 キスを言い出したのはサヤのほうなのに、これでは俺が寸止めされた気分だ。

 そんな俺の心境も尻目に、サヤはやがてくぅくぅと可愛らしい寝息をたて始めた。


「おっそいなあサヤ……何してんだ?」


 ところがしばらく待っても一向に出て来る気配が無いので、心配になった俺は様子を見に行こうとした。

 “見る”と言っても、遠くから呼びかけるだけだ、と独りで言い訳してみる。


「あ」

「うえぇ……みーくぅん……のぼせちったよぉ……」


 丁度良いタイミングで、顔を上気させたサヤが覚束ない足取りで出てきた。


「お前もうフラフラじゃねーか! どうしてこんなになるまで入ってたんだよ?」

「ちょっと考えごとしてたらぁ……何だか頭がボーっとらってぇ……ぁ」


 にわかにサヤが足をもつれさせてこちら側に倒れてきたので咄嗟に受け止める。必然的に抱き締める格好になってしまった。


「おい危ないぞ。もっとしっかり立て」

「んうぅ……らめぇ……体に力が入んなぁい……。みーくんっこしてぇ……」


 とろんとした目がやたら扇情的で、急に動機が激しくなる。


「お、お前なあ。ガキじゃあるまいし甘えんじゃないよ!」

「やらぁ、みーくんにっこして欲しいのぉ……。ね、お願い……今回だけでいいから、私のわがまま聞いて?」


 極めつけにサヤの腕が腰に巻きついてくる。

 確かにこうして支えていても、今にも倒れそうな彼女を見るに、どうやら歩けないのは本当らしい。


「あーもう、しゃーねえな! 今回だけだぞ。ホラ、しっかり捕まってろ!」


 俺は渋々観念し、サヤを抱きかかえて部屋まで運んでやる。

 当然ながら横抱きの姿勢――いわゆるお姫様抱っこ――になっている。


「んふっ……ありがとぉ。やっぱりみーくんってやさしーんだね。私のおーじしゃまー」


 サヤは嬉しそうに俺の首に腕を回して顔を近づける。


「ったく調子に乗るんじゃない、コイツめ」

「アテッ、えへへ」


 戒めに軽くコツンと頭突きを喰らわしてやるも、やられた本人はむしろ喜んでいた。


「みーくんらーいしゅきぃ……」

「……まあ別にいいけどな」

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