Squall

吉村杏

第1話

 Life doesn’t run on railway tracks.

 It doesn’t always go the way you expect.

 ――William Boyd(1952-)



 クリスタルガラスのきらめくシャンデリア。優雅なひだが幾重にも垂れ下がるドレープカーテンが、ちりばめられた光を包みこみ、漆黒の闇が広がる外には漏らさない。

 色とりどりのテーブル・フラワーや種々の国旗で飾りたてられたレセプション・ホールには、上等のハバナ葉巻の紫煙が充満している。

 ホールのしつらえは、いささかフランス風に傾倒していた。列席者にここが異国であることを思い起こさせるのは、テーブルや壁に飾られた花々に、極楽鳥の羽のようにあざやかな、花弁のとがった紅い花や、娘のまとう腰布のように、ふわりと波うつ花びらを広げるものが使われていることくらいだ。

 寄せてはかえす波のような、人々のざわめき。招待客の林のなかを、グラスをかかげた黒服の給仕が器用に縫っていく。

 黒ジャケットの出席者に、濃紺の夜会服ディナー・ジャケットを着用した海軍軍人の姿もまじる。

 そのなかに、見知った顔をロバート・アトウッド大尉は見つけた。

 男は袖口に階級章のついたネイビー・ブルーのメス・ジャケットを着て、わずかにウェーブのかかった黒髪を、額に沿ってうしろへ撫でつけている。一分のすきもない身のこなし。

 男は招待客に呼び止められるたびに二言三言言葉を交わすが、けしてひとところに長くは立ち止まらない。ホール全体が自分の縄張りででもあるかのように、鷹揚とした足どりで歩きまわっている。

 全体を見回すふりをして、ロバートは男の動きを確認する。相手もこちらに気づいているのかどうか、なんのもないが、わかっているのだろうと予想はついた。

 しばらくして、男がひとりでホールから出ていった。依然として、ゆっくりとした歩調は変わらない。

 男のあとを追い、ロバートもホール入り口のガラス戸を押して外に出た。

 日が落ちてもなお、外には昼間の熱気が残っている。この時期には一日に何度もおとずれるスコールは二時間前にあがっていたが、この国特有の、ねっとりと絡みつくような空気までは洗い流していかなかった。

 レセプション・ホールは、密林ジャングルのなかのコテージを模して建てられていた。建物から一歩でも出ると、そこは熱帯の草木が生い茂る、夜の森だ。

 ロバートは糊のきいたシャツの襟に指をつっこみ、ボウ・タイをゆるめた。室内は冷房がきいているとはいえ、想像を超える気温と湿度のこの国にあって、自国と同じディナー・ジャケットの着用を義務づける規則を狂気の沙汰だと思う。

 この国に来るのは二度目だったが、慣れる、ということはあるのだろうかと彼は思った。空港の到着ゲートを抜けた瞬間、ふねのタラップへ足を踏みだしたとたんにノックアウトされる、この熱を含んだ空気に。ここには雨に濡れた草の匂い、潮の匂い、香辛料の匂いが常に漂っている。

 棕櫚しゅろの木の葉が生い茂る中庭を抜け、ロバートはホールのある棟と客室棟をつなぐ渡り廊下を進んでいった。ほかに客の姿はない。夜目にもわかる真白いシーツをかかえたルーム・メイドがべつの廊下にあらわれ、すぐ消えた。

 ラワン材の床板はよく磨かれていて、そこここにかかげられた松明の光をやわらかく反射している。革靴の立てる足音は、木の床と湿った空気がしっとりと包み消してくれた。

 廊下の一方は地面へ降りる階段になっている。ロバートはそこから庭へ降りた。

 足もとは芝生になっているが、二十ヤード〔約50m〕もいけば砂がまじり、ホテルのプライベート・ビーチとなる。昼は細かく真白い砂が輝きを放つ砂浜は暗く、波の音しかしない。

 昼間とは打って変わった静けさが、周囲の闇を支配している。

 海岸へと続く小道はたどらず、ロバートは客室棟をぐるりと囲む、庭園の散歩道へ入った。舗装されてはいないので、足音が響くことはない。外灯はなく、少しはなれたバンガローから漏れてくる明かりと月の光が頼りだ。

 濃い緑のリュウゼツランが王冠状に葉を伸ばす。椰子が大きく枝を張り、月明かりに漆黒の影を落とす。我がもの顔に生い茂る、名前も知らない南国の植物たち。昼にもまして、むせかえるような花の匂いはますます強くなる。

 ロバートはアイス・ブルーの目をこらし、そこにいるはずの相手の姿を探した。

「こっちだ」

 闇の中から声がした。同時にぐいと腕をつかまれ、潅木の陰にひっぱりこまれる。

 倒れる、と思う間もなく、ロバートの体は力強い腕と厚い胸板に抱きとめられていた。

 闇に目が慣れてくると、かすかな月明かりに、ヴィクトール・フレーザー大尉の顔が浮かびあがった。

 白皙のヨーロッパ人を父に、褐色の肌のアジア人女性を母に持つ彼の血は、オリーブ色の肌となってあらわれていた。濃いとび色の瞳は闇に溶けて、ほとんど黒に見える。

「遅かったな」

 からかうようにヴィクトールが言った。がっしりしているが形のいい指が、ロバートの脇腹を撫でる。

「こっちは、すぐにわかったぞ……。夜だと、あんたは、とくに目立つな」

 ロバートの金の髪のことを言っているのだ。それには応えず、

「外の空気を吸うと言って出てきた。実際、煙草の煙のなかにいると頭が痛くなる。そっちは?」

「トイレに行くと言ってきた」

「わかっているだろう、あまり長くはいられな――」

 最後の言葉は、かみつくようなキスでふさがれた。

「半年ぶりに会えたっていうのに、くだらないおしゃべりで時間をつぶす気か?」

 熱くなめらかな舌で口中をかき回されながら、ロバートの脳裏に記憶がよみがえる。

 ヴィクトールにうのもこれで二度目。最初の夜も今夜と同じようなパーティーで、客の数は今回よりも多かった。

 ものごしは将校らしく洗練されていたものの(叩き込まれるのだ)、ヴィクトールはあきらかに居心地が悪そうだった。

 かたやロバートの方はパーティーに出るのがなかば仕事と化していた。客のおしゃべりや、ときには重要な情報が交換される場につきあうのも任務だ。

 ヴィクトールはもの珍しげに話しかけてくる中年女性たちに囲まれており、ロバートは同郷の外交官と中国について話をしていた。

 ――つまらない話だ。ヴィクトールもロバートも、互いに困惑し、話に飽きてふと顔をあげると、互いの目が合った。

 そして瞬時に理解した。でなければなぜ、無言で会場を出ていった男のあとを正確に追えたのか説明がつかない。

 男は車寄せのかげで、太い柱を背に立っていた。背は五フィート九インチ〔約178cm〕あるロバートと同じか数インチ低いくらいだが、腕や胴回りは鍛えられて丸太のようだ。

 ――海軍で、ここまで鍛えている人間はめったにいない。海兵隊か、特殊部隊の出身か……?

 そんな疑問などどうでもよかった。

 なにが起こるのか承知のうえで、ロバートは男に近づき――文字どおり捉えられたのだった。

 神々の舞踊が彫られた柱を、ロバートは抱えこむかたちになった。男神は女神をその腕に抱え、目を見開き、牙をむきだした獣がつき従う。

 顎をのけぞらせると、神々の柱は天上に届くように見えた。

 背中に感じた男の体は熱かった。

 あわただしく情を遂げると、なにごともなかったかのように別れた。名前も、素性も、あとで知った。

 ――それきりだと、思っていた。

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