10・黒猫

 教祖が息を呑む。

「はい? どういうこと? だって……」

「時生さんが憑依能力を発揮し始めたのは、あたしを抱いてからでしょう? その時に能力が目覚めたのは、あたしだったの。霊能力者はあたしで、時生さんは能力を目覚めさせる触媒だったということ。それは、目覚めた瞬間に理解できた」

「ウソ……なんでそんな大事なことを隠していたの……?」

「2人で話し合ったのよ。時生さんが次期教祖として認められるためには、能力を持っていると思わせておいた方が安全。比嘉の……本当の父親をそんなふうに呼ぶのイヤだけど、暴力組織の介入を防ぐにも、切り札は隠しておいた方が有利だっていう計算だった。でも、教団の犯罪行為に利用されるのもまずい。だから限界があるフリをして、能力を使うことは最小限に止めていた」

「なぜそんなことを……?」

「最初の夜から、あなた方がやってきたことを許せないと思っていたから」

 教祖が、さも羨ましげにつぶやく。

「許せないって……そんな力があったなら……天啓に恵まれていたなら、権力を握って好きに生きられるのに……」

 梨沙子の視線は冷たい。

「あなたも比嘉も、そういうふうに考える人。でも、あたしたちは違う。この能力は、凶器よ。あたしたちはただ普通に生きたかっただけ。でも教団にいたら、それが許されない。しかも時生さんとの子が産まれたら、あたしが死ぬだけじゃ済まない。未知の能力と教団の欲望が結び付いて、世界をどう狂わせていくか想像もつかない。絶対に防ぎたかった」

「なぜ、神の恵みを捨てるの……? 今まで誰も得たことがない特権なのに……」

「特権なんかじゃないからよ。これは、人を狂わせる呪い。あたしが不完全な人間であることの証拠」

「何が不完全よ⁉ 誰もが羨む権力じゃない!」

「その権力への執着が、みんなを壊したのよ!」

「壊した……?」

「……あなたは母親なのに、あたしたちが普通の双子として仲良く生きることを許さなかった。産まれた瞬間から引き裂かれなければ、兄妹として穏やかに過ごせたはずなのに。幼馴染の柚とも、おばあちゃんになるまで友達でいたかった。なのに教団は、みんなの人生を出発点から歪めてしまった。そして、たくさんの人を巻き込む悲劇の原因を作ってしまった」

 教祖が気づく。

「それって、あなたが憑依で人殺しをしていたってことよね……」

 梨沙子がうなずく。

「生きるに値しない人たちばかりだったから。時生さんには必ず相手を調べてもらっていました。あなたと同じように、他人の生き血を啜って肥え太ったような人しか手にかけていません。全員、自殺させた――ってわけでもないし」

 教祖が皮肉っぽい笑みを浮かべる。

「何人かは殺したってこと? 殺していなくたって、社会的に抹殺したのよね。全財産を奪われて離散した家族もいる。神様にでもなったつもり?」

「でもそれって、今まではあなたが時生さんにやらせたと信じていたんでしょう? あなたは殺人も厭わなかったってこと」

「でも手は下していない! あなたみたいな傲慢なことはしていない!」

「傲慢……? 教祖様に言われるとは思わなかったけど……あたしはただの心が弱い女です。無理やりに理不尽な凶器を背負わされて、使うしかない袋小路に追い込まれただけ。人を傷つけたくなんてなかったのに……」

「どんな気持ちだろうが、相手が誰であろうが、人殺しよ! あなたも同類ってことじゃない……」

 梨沙子は否定しなかった。

「そうしないと、時生さんの立場が危うくなりましたから。時生さんが教団の中心にならなければ、あたしたちの望みは叶えらなかったので」

 教祖が吐き捨てる。

「あなたこそ、憑依能力という権力を私欲のために使った極悪人よ」

「その通りかもしれない。こんな世界から逃げ出す方法が見つかるまでは、耐えるしかなかったから……。だけど、ようやくその鍵が得られた」

「鍵? 何よ、それ」

 梨沙子は教祖のつぶやきを無視した。

「こんなに狂った世界には耐えられない。だからあたしたちは、教団から脱出したかった。しなければ、普通の人間に戻れない。そしてある日、鍵はとっくに手の中にあったことに気づいてしまった。その日から、あなたの――教祖の超能力がどこまであるか、その限界を測り始めたんです」

「限界を測る……?」

「あなたが全ての力を正直に語っている保証はない。あたしたちが能力を隠したように、陰険な隠し球を持っているかもしれない。そもそも予知能力があるんだから、あたしたちの企みが見抜かれてもおかしくない。比嘉の組織を使って、妨害してくる恐れもある。だからじっくり時間をかけて、少しずつあなたの能力を探ってきたの」

「そんなこと……どうやって……?」

「時生さんが憑依するときは、必ずあたしがそばにいる。映像越しに憑依するときは、あたしが代わった。あたしがいないときは、時生さんはわざとらしく体調が悪いと言って憑依を避けた。あえて不審を抱かれそうな状況を演じたこともあったけど、あなたは時生さんの力を疑わなかった。そもそも、あたしが憑依能力者であることにも気づかなかった。で、不安定な予知能力以外には何もないんだと結論した。確信できたわけじゃないけれど、いつまでも待つわけにはいかなかったから。そして、協力者がいるっていうユズのウソも、あなたは最後まで見抜けなかった。結果的に予測は正しかったと証明された。あたしたちは賭けに勝ったのよ」

 教祖が気づく。そして視線が柚に向かう。

「あなたも知っていたの⁉」

 柚は無表情だった。

「何もかも。仲間、ですから」

「だから最初からお芝居を……?」

「わたし……人が苦手だから、ずっと嫌われないように自分を偽ってきた。だから、心にもない演技は得意だったのかもしれない……」

 時生がうなずく。

「3人で練り上げた計画だよ。鍵は、柚だったんだ」

「はい……? どうしてこんな平凡な女が……?」

「柚には、とんでもない価値が隠されていたんだ」

「一体なんの力があるの……?」

「超能力なんかではないけどね」

「だったら、何よ⁉」

「本気で死を望んでいること。そして梨沙子の親友であること」

「そんなありきたりな話……意味なんてないじゃない……」

「でも、それこそが僕らには欠かせない鍵だったんです。僕らが自由になるために、やらなければならないことは2つ。教祖の能力の限界をできるだけ詳細に調べ出すこと。予知ができるんだから、計画を隠し通す防護が必要だった。だから計画は状況を確認しながら、少しずつ慎重に進めてきた。それはもう、自分でさえイライラするぐらい慎重に、ね。もう1つは比嘉とその組織を無力化すること。人殺しすら仕事にしている比嘉は、最大の障害だったからね」

「何、その言い方……比嘉がどんな男だろうと、あなたの本当の父親なのよ! 柚とどんな関係があるの⁉」

 時生の目つきが鋭く変わる。

「比嘉が父親なのは事実だ。そして、僕の人生の最大の汚点だ。次点は教祖様――だけどね」

「そんな……」

「汚点は取り除かなければならない。でも、反社会組織の壊滅は僕ら3人だけじゃできない。警察の介入が不可欠だ。教団のお得意さんでも握りつぶせないような、派手に注目を引く事件を起こさなければならなかった。だから最初に、殺人の証拠が流出するという危機を作り上げた」

「作り上げた? どういうこと?」

「あのデータを集めて柚に渡したのは、僕なんだよ」

「堤じゃないの⁉」

「堤は比嘉に忠実な番犬だ。そんなことをするはずがない――いや、できるはずがない」

「なぜそんなバカなことを……」

「比嘉をお天道様の下に引きずり出すためさ。だから、あえて証拠が流出したと比嘉を脅かした。憑依で梨沙子の友人をスクリーニングしていたら、柚が誰かからとんでもないデータを受け取ったことが分かった……その証拠はすでにコピーしたらしいので、それを託した相手を探らないとならない――って密告したんだ。そして梨沙子に柚を探らせると言って、スパイだと思い込ませた。柚の協力者を探り出すために、逃亡をそそのかすという計画だ。組織に追いかけられて恐怖を感じれば、柚も協力者にも警告すると考えるだろうからね」

 教祖の顔が曇る。

「でも……だったら逃げ回ったりしなくたって、証拠がコインロッカーにあるって教えればよかったのに……?」

「それで確実に比嘉を引きずりだせるなら、その通りだよ。だが比嘉は、恐ろしい男だ。僕は、あいつの動物的な勘――罠を察知する能力を知っている。修羅場でのし上がってきた男だから当然だけどね。こんなに危険なデータが大した苦労もなく回収できたりしたら、必ず猜疑心と警戒心が芽生える。敵対勢力の策謀を疑い始めるだろう。だが、逃げ回る梨沙子たちに振り回された後にデータの全貌を知れば、その破壊力に圧倒される。回収を他人任せになんかできない。比嘉自身と信頼が厚い部下が必ず出向くと読んだ。八王子駅には、比嘉本人と奴を殺す部下を行かせる必要があった。全ては、そのための布石だったんだ。柚に協力者がいないという安堵感を得た後なら、多少の油断も期待できるからね」

「そんなことにために、わざわざ……?」

「不要な手間だったかもしれない。それでも、万全を期さなければならなかった。ほんのわずかでも、成功する確率を高めるために、ね。実際、比嘉も堤も期待通りに行動してくれた。ここまで完璧に罠にハマるとは思っていなかったけど、最低でも比嘉の部下を碓氷湖まで誘きしたかった。あの場所の重要性を、警察に印象付る必要があったからだ。最悪、比嘉の排除に失敗した場合でも、橋の下に無数の死体が捨てられたことを関連づけられる。さらに、次の手を打つ可能性が広がる。下準備を終えたところで、八王子駅の惨劇を見せつけて捜査を開始させる――それが狙いだった」

「だから柚が鍵だったのね……?」

「計画を始めるための鍵。うまくいけば比嘉自身はもちろん、組織も警察が片付けてくれる。組織の力にすがってきた権力者たちが、露見を恐れて逆に隠蔽に動く。その点は読み通りだったけれど、予定外だった点は2つ。コインロッカーでの証拠隠滅が完璧すぎて、めがね橋で対決したことを警察に知らせる必要がなくなったこと――」

 不意に言葉を切ったことを、教祖がいぶかる。

「もう1つは……?」

「まさか、怨霊まで引き連れてくるとは思わなかった」

 教祖が息を呑む。

「怨霊は……本物なの……?」

「当然だろう? あなたたちの欲望を叶えるために無惨に殺されていった人たちなんだから。比嘉の手下に殺された彼らには、梨沙子が憑依したことはない。だから彼らの憎しみは、比嘉と教祖様だけに向かっているんだ」

「私を巻き込まないで……」

 時生は楽しんでいるようだった。

「巻き込んでなんていないさ。教祖様は、最初から中心人物なんだからね」

「やめて! 母親に向かってなんてことを言うのよ!」

 時生の笑みは消えない。

「ただし堤が比嘉を刺したのは、梨沙子が憑依したからだ。堤は何も知らずに操られた被害者だけど、いろんな殺人に加担してきたんだから文句は言えない。周囲に霊魂が渦巻いていることは分かっていても、怨霊の行動は予測も制御できないからね」

 教祖が梨沙子を見つめる。

「あなたがそんなことを……」

 時生が説明を続ける。

「コインロッカーの前で気絶したフリをした梨沙子は、堤に憑依した。いつもナイフを隠し持っていることは知っていたからね。比嘉は比嘉で、部下の中に裏切り者がいるかもしれないと疑っていた。出どころが僕だなんて、見抜けるはずもない。証拠品の回収現場で堤が刃物を向けてくれば、敵対勢力に寝返ったスパイだと考えるのが自然だ」

「だけど……堤も証拠写真のデータを持っていたって……」

「あのUSBは、堤を助け起こした梨沙子が突っ込んだものだ。単純なトリックだよ。でもそれで、警察は動かざるを得なくなった。USBにあった地図で、碓氷湖周辺の実地捜査も必要になった。渓流や湖を浚うのは時間の問題だったんだ」

「そんなことまでして、父親を……?」

「またそれか。だから僕は、汚れた血を憎んでいる。比嘉を、父親だなんて思っていない。欲望のために自分の子供たちの命さえ使い捨ての道具とみなす……そんな人間を愛せるはずがないだろう? 僕は、梨沙子を守らなければならなかったんだ」

「だったら……私は、あなたのなんなの?」

「憎むべき2番目の人間。さっき教えただろう?」

 教祖がうろたえる。

「だって……あなたに危害を加えようなんて思ったことはない……」

「だが、梨沙子が死ぬことは意に介してなかった。僕たちは、教団と比嘉の道具にすぎなかったんだ」

「だからって、父親を殺さなくても……」

「殺したのは、死者の霊魂だ。彼らを悪霊に変えたのは、比嘉自身だ」

「私も殺すの……?」

「そんなことは考えていない。僕らにはまだ、教団の権力が必要かもしれないからね。あなたには今後も教祖でいてもらいたい。ただし、僕らには逆らわないように。絶対に、だ。梨沙子の意思は怨霊にも伝わるようだから、手出しはさせないように封じる努力もする。でも、彼らが納得するかどうかは別の話だ。怨霊たちの恨みは、あなたにも向かっていることをお忘れなく。比嘉の死体が戻れば、彼らも取り憑いたまま里帰りするだろうから」

 教祖は言葉を失った。

 梨沙子が言った。

「でも、もう成仏できたかもしれない。比嘉への恨みは晴らせたはずだから。だからといって、安心はしないでね。これからは悪霊よりもあたしを恐れてください。憑依できるんだから、教祖様に乗り移って屋上から飛び降りさせるのも簡単。こんな事件の後だから、警察だって自殺を疑わない。抵抗しようなんて思い上がらないでね」

「教団を乗っ取る……ってこと……?」

「乗っ取り? 浄化と呼んで欲しいものね。反社会的組織の隠れ蓑じゃなくて、真の宗教を追求するのもいいかもしれない。幸い、比嘉は相応しい教義を作り出してくれました。綺麗事の建前に過ぎなくても、真摯に実行すれば清らかに生きられます。あの男……心は歪んでいたけど、本当に頭が良かった。何が正しいか、美しいかを判断できる知性もあった。ただ、それを実行する良心が欠けていただけ。それって、獣も同然ってことなんですけど」

「あなただって教団を利用しようとしてるんじゃない!」

「どうとでも考えてください。正直、未来は分からない。この先、私たちがどうなるかは運任せのところもあるから」

「この先、って……まだ何か企んでいるの……?」

「本当の願いを叶えるのはこれからなんです。あたしたちには、どうしても必要な〝儀式〟があるんです」

 教祖がいぶかる。

「儀式、って……? 何をするの? 比嘉も倒して、教団も手にいれて、その上まだ何か望んでいるの……?」

 答えたのは時生だ。

「真実の愛。最初から目的はそれだけだ」

「愛……?」

「僕は梨沙子と真の伴侶になる。全ては、そのための計画だった」

「だって、とっくに結婚しているのに……」

「婚姻など、俗世の約束事にすぎない。早い話ただの紙っぺら、あるいは形すらないデータだ。僕は梨沙子を愛している。梨沙子も僕を愛している。あなたの体内で分裂してしまった、互いに求め合う人格だったんだ。なのに、双子だ。そもそも愛し合うことを禁じられている。しかも禁忌を破って家族を作れば、梨沙子は死ぬ。梨沙子の死は、僕の死だ。最初から実現不可能な、不完全な愛だった。それでも僕たちは、本当の愛を実現する。真の家族を持つ」

「そんなこと……私の責任じゃない……。双子だったことも、未来を見てしまったことも……ただの偶然なのに……」

「その点は同意します。あなたを責めているわけじゃない」

「だって、動かし難い宿命なのよ……それをいったい、どうしようというの……? 宿命を変えられる方法があるとでも思っているの……?」

「教祖の予言は信じている。僕らもそれが正しいと確信している。梨沙子が僕の子を孕めば、出産と同時に死ぬだろう。だからこそ、こんなことをしなければならなかった。柚の協力があって、初めて現実味を帯びた計画だったんだ」

「また、柚?」

「柚は、宿命に抗うための最後の鍵でもあるんだ。この鍵が見つかったからこそ、僕らは解放される」

「柚が……?」教祖の目が、柚に向かう。「この子がどう関係するの……?」

 柚は小声で答えた。

「わたし、死にたかったんです。なのに、体が自殺を受け付けない。何をやっても無意識のうちに拒否してしまう。ずっとずっと、どうやったら死ねるかってことばかり考えていたんです。ただただ、生きるのが辛くて……この世から消え去りたかった。リサは本当の友達として心を許してくれたけど、それでも死にたい気持ちは変わらなかった。だから、睡眠薬を飲んで死のうとしました。でも、知らない間に吐き出してしまっていて……それをリサが見つけてくれて、助けてくれて……」

 梨沙子が引き継ぐ。

「自殺未遂なんてバレたら、教団からどう責められるか分からない。だからコロのかかりつけの獣医さんに頼み込んで、こっそり胃洗浄をしてもらいました。人間にメスを使うのがイヤで獣医に転向したお医者さんだから、スキルはあると分かっていましたから。意識を取り戻したユズから、死なせてくれって懇願されました。何度も話し合って、決心が変わらないことは確信できました。そして、時生さんに相談したんです。それがこのお芝居の出発点です。ずっともやもやしていたあたしたちの気持ちが、ユズが加ることで結晶したんです。だからユズに、殺してあげるって約束しました」

「あなた方……柚まで殺す気なの⁉」

 柚がうなずく。

「死ぬことがたった1つの願いだから。でも、無意味に死ぬんじゃなくて、リサたちの役に立てるならすごく嬉しい。それは逃げじゃなくて、奉仕だから。この世界に生きていたっていう証拠が残せるなら、後悔もない。わたしは、たった1人の友達だったリサの役に立ちたい。それだけが心残りだったから……」

「最初から死ぬ気で……?」

「こんな世界にはもういたくない。わたしは無力。どんなに世界が嫌いでも、変える力なんかない。リサみたいに特別な力も持っていない。だからリサを助けるの。代わりに、わたしをこの世から消してもらう」

「教団は自殺を禁じている……」

「だから、こうするしかなかったの。自殺ができるなら、とっくにそうしていた。なのにわたしは、お母さんから教義を詰め込まれて育ってしまった。今じゃこんな決まり事、あっちこっちの宗教の寄せ集めだって知ってる。ご都合主義の絵空事だって分かってる。なのに、自分を殺すことができない。やろうとしても、体が言うことを聞いてくれない。心の底に染み付いた偽物の教義が、それでも自殺は間違っているって叫び出す。わたしは教団のせいで、死ぬ権利さえ奪われたの。心が壊れてしまったの……。自分じゃ、もう治せない……。だから、リサの力を借りるしかなかった……」

「救いのための宗教なのに……」

 柚の目に悲しみがあふれる。

「他の宗教は知らない。でもここは、偽物。あなたと比嘉が作った欺瞞の世界。なのにわたしは、その欺瞞に囚われて、壊されてしまった……」そして柚は、すがるように梨沙子を見た。「もう……いいよね……? わたし……もう……頑張らなくていいんだよね……?」

 梨沙子がうなずく。

「今まで、ありがとう……本当に、つらい思いをさせちゃったね……ごめんね……助けてくれて、ありがとう……。ユズはホントの親友だよ……きっと、迎えに行くからね……」

「うん……ずっと、待ってるから……」

 教祖の目が梨沙子を捉える。

「あなた、何を言っているの? 教団は、もちろん殺人も禁じています。教義には書かれていなくても、常識よ。分かってるんでしょう?」

 梨沙子の目に明確な憎しみが浮かぶ。

「あなたがそれを言うなんてね……お笑いよね。比嘉の人殺しに目をつぶって大金稼いでいたくせに。宗教家を気取るなんて、それこそ罰当たり」

「私は殺人には関与していません。殺していたことも知りませんでした」

「偶然、教団に都合がいいようにたくさんの人が死んでいったって? そんなはずがないでしょうが! 比嘉の正体だって知ってるあんたが、ふざけたこと言わないで! 目を背けていただけでしょう⁉」

「だって、そんな怖いこと……」

「もう言い訳は必要ない。真実がどうだろうと、あたしたちがやることに変わりはないから」

「柚ちゃんを殺すの……? それが儀式なの……?」

「ある意味、そう」

 教祖の顔色が曇る。

「ある意味……? 自殺を手伝うんじゃないの?」

「柚は柚として、今後も生き続ける。あたしの代わりに」

「え? どういうこと……?」

「見ていれば分かる。宿命に抗うには、こうするしかないんだから。そして、自分の業の深さを思い知って。この先死ぬまで、あなたはその業に苛まれ続けるのよ」

「何をしようと……?」

 梨沙子は教祖のつぶやきを無視して、時生に言った。

「時生さん、ようやくその時が来ました。お願いします」

 そして黒猫のキャリーリュックを持って席を立ち、横のソファーに移動する。

 柚も立ち上がると傍のバッグから薬ビンを取り出し、水のペットボトルと一緒に梨沙子に渡す。

 梨沙子はビンを開けて、大量の錠剤を無造作に口に放り込む。ためらいもなく、水で錠剤を流し込んだ。

 柚は時生の隣に戻った。

 教祖がうめく。

「何したの……? それ、何……? なんで梨沙子が……?」

 梨沙子はソファーに足を伸ばして横たわった。リュックキャリーのジッパーを開いて黒猫を出す。

 黒猫は梨沙子の腹の上に乗り、幸せそうに丸くなった。

 梨沙子は教祖にほほえみかけた。

「お暇いただきます」

「その薬って……何であなたが死ぬの⁉」

 時生はスマホを手にして電話をかけていた。教団専属の医師が出ると、急に声のトーンが高くなる。

「大変です! 梨沙子が薬を飲んで意識が! すぐに教団に来てください! 胃洗浄を!」そして通話を切り、教祖を見た。「お医者さん、5分ぐらいで駆けつけてくれるでしょう。なに、ご心配なく。体には異常はありませんから」

 教祖はソファーから腰を浮かせていた。

「あなた方、何をやってるの⁉」

 理解できない。

 どうしていいのか分からない。

 そのまま、硬直する。

 時生が命じる。

「動かないで!」

 梨沙子は腹の上の猫を抱き寄せて、軽くキスをした。

「コロちゃん、一緒に付き合ってね。あたし1人じゃ、きっと寂しがるから」

 そして目を閉じ、不意にぐったりと全身の力が消えた。まるで、生命力が抜け落ちたかのように……。

 と、黒猫が目を覚ます。軽い足取りで床に飛び降り、柚に歩み寄る。

 柚は気味悪そうな素振りを見せたが、逃げはしない。

 時生が柚にささやいた。

「さあ、準備をして。本当にこれでいいのか、最後は君自身が決断しなくちゃならないんだ」

 柚はうなずいた。そして、教祖をにらむ。

「こんなにわたしを壊したのは、あなたたち……いえ、あなたよ。だから、一生苦しんでね」

 教祖がうめく。

「苦しむ……? 何をしようというの……?」

 柚は教祖を無視して、時生にうなずきかける。

「ようやく自由になれる」そして黒猫の目を見返す。「私の気持ちは変わらないから。あとはお願いします」

 そして柚は、バッグからプラスティックのケース取り出す。ケースの蓋を開けると、中には注射器と小さなアンプルが入っていた。

 注射器を取り出して先端のキャップを外すと、アンプルから液剤を吸い上げる。

 時生が確認する。

「いいんだね? 後戻りはできないよ」

 柚はきっぱりとうなずき、猫に向かって言った。

「やって」

 柚が目をつむり、体が一瞬揺らいだ。すぐに目を開いて、手に持った注射器を確認する。

 と、猫が柚の膝に飛び乗った。

 柚は、さも愛しそうに黒猫の背中を撫でる。

「コロちゃん、あたしの体を守ってね」そして猫の目を見つめながら付け加える。「ユズ、これであなたは本当に自由になれるのよ」

 黒猫が、かすかに幸せそうな鳴き声をもらす。そして、まるで意思があるように自ら腕を差し出す。

 柚は猫の腕を指先で細かく探って、静脈を確認した。

 猫は逆らうこともなく、なされるがままになっている。

 柚は、注射器をそっと突き刺した。薬剤を一気に押し込む。

 針を抜いて猫を抱くと、立ち上がってリュックキャリーを取る。その中に、黒猫をそっと寝かせた。

 そして柚は、時生の隣に座った。キャリーを膝に乗せ、時生の手を握り、頭をその肩に預ける。

 それはまさに、神聖な儀式のようだった。

 教祖はもはや言葉もなかった。淡々と進められた彼らの行動の意味が、何一つ理解できない。

 時生は柚の肩を抱きながら教祖を見つめた。

「注射はペントバルビタールナトリウム。梨沙子が飲んだ錠剤と成分は同じです。人間にとっては鎮静催眠薬でもありますが、猫には致死量を注射しました。柚はもうすぐ死ぬでしょう。最後に意思を確認しても動揺していませんでしたから、これが真の願いだったわけです。でも、苦痛はないはずです」

「柚って……死ぬのは猫じゃ……? まさか、猫に憑依してたの⁉ なのに殺したの⁉」

「殺すのは、心だけです。コロの体と、そして柚の魂です。コロの魂は梨沙子の体を守り、そしていつか生まれ変わって僕らの元に帰ってくるでしょう。猫には9つの命があるといいますから」

「じゃあ、梨沙子は……?」

「こうして僕が抱いているじゃないですか。柚さんの体には今、梨沙子が宿っています。柚は柚として、こうして生きています。見た目だけ――ではありますけど。これからもずっと、僕のそばで生きていきます。誰が見たって、疑いようがないでしょう?」

 教祖はようやく儀式の意味を理解した。

「梨沙子が猫に乗り移り、すぐに柚と入れ替わったってこと……?」

「これなら僕たちは、愛し合える。互いの心をいたわりながら、子を成し、死ぬまで自然に暮らし続けることができる」

「なぜそんなことを……?」

「それが僕ら3人の願いが重ね合わされた究極の姿だからです。柚は死の願望を叶える。僕たちは心ゆくまで互いを愛し、老いていくことができる」

「だって……」

 柚が言った。

「体はユズだって言いたいんでしょう? その通り。でも、あたしたちは体を愛しているんじゃない。バラバラになっていた心を1つに繋げたいだけ。魂が共鳴できれば、それで充分。そして、いちばん共鳴が高まるは、受胎してからだって感じる。なのに、出産はあたしの死と引き換えだなんて……。未来予知に絶対はないかもしれないけど、それはあたし自身が感じ取った恐怖でもある。あなたの予言は、100パーセント正しいと信じる。それが、私たちにかけられた呪い。魂の結びつきを阻んでいたのは、あなたたち。だから、ユズの体をもらったことで、ようやくあたしたちの心は解放される。たとえ体だけでも、そこにユズも一緒にいられるなら、もっと幸せ。何もかも納得した上で体を譲ってくれた、大事な親友だから。そしてあたしが子供を身籠れば、そこにはきっとユズの魂が戻って来られる。無垢な魂として、新たな人生をやり直すことができる。あたしたち3人は、家族として蘇る……」

 その口調は明らかに梨沙子のものだった。

「だけど……梨沙子の体はどうなるの……?」

 時生が言った。

「すぐお医者さんが来て、胃洗浄をしてくれるでしょう。でも、魂はもう柚に入っている。梨沙子の体はすでに抜け殻で、植物状態です。義父の犯罪を気に病んで自殺を図り、こんなことに……という筋書きです。せいぜい病院に大金を払って、梨沙子の生命を維持してください。容態が安定すれば教団に戻ります。至急教団の中に最新医療設備を持ち込んで準備していただきましょう。僕らは意識を取り戻さない梨沙子と一緒に暮らします。柚は梨沙子につきっきりで看病に励み、自然に僕とも親密になっていく。柚との子ができるなら、それはそれ。おそらく、普通の人間らしい出産が叶うでしょう。教団の中には僕の不貞をなじるものも出るでしょうが、常識的には許容されないことでもない。教祖様の威光をもって、なんとか納めていただきましょうか」

「なぜそんなことを……」

「梨沙子の体も灰にしろ、と?」

「そうは言ってないけど……」

「実はこの先、僕らがどうなるか、正直なところは分からないんです。この状態が死ぬまで続けられる保証はない。柚の体が梨沙子の魂を拒絶する時が来るかもしれない。魂が体に引っ張られて変質していくかもしれない。時間が経たないとなんとも言えません。あ、憑依の能力は魂の方に宿っていますから、柚の体でも発揮できます。教団のために憑依を使うことも、問題ありません。人殺しさえしなければ、ですけど。そこまでは実験で確認してるんですが、何年も先の未来までは確かめようがなくてね。だから万一の破綻に備えて、梨沙子がいつでも自分の体を取り戻せるようにしておきたいんです。梨沙子の肉体の健康を守るためには、資金は惜しまないように」

 柚がうなずく。

「もちろん、管理はあたしが主体になってしますけどね。自分の体なんですから。ただし、24時間欠かさない看護体制は作ってくださいね」

 教祖が気味悪そうに柚をにらむ。

「従わなかったら、いつでも殺せるっていうんでしょう?」

「産みの母に向かってそんな暴言は吐きません。実行する能力はありますけど」

「それって、あからさまな脅迫じゃない……。私はあなた方の奴隷なの?」

「奴隷だとしても、自分自身の行いが招いた結果でしょう? 少なくともあたしたちは、なんの非もないままにあなたに道具扱いされてきたんですから。それって、奴隷ですらなかってことですよね。立場が入れ替わっただけですよ」

「ひどい人たち……」

「でも、あなたからは何も奪ってません。子供たちが巣立っただけ。比嘉は元々犯罪者だったんだから、破滅は自業自得。大きな事件に巻き込まれましたけど、教団はこれまで通り維持できます。あなたは教祖のままでいてください。信徒や顧客の皆さんが動揺しないように、せいぜい目を配ってください」

「それが……母親に言うことなの?」

 梨沙子の目に憎しみが浮かぶ。

「母親? あたしの母さんは1人だけ。新堂房江です。あなたからあたしを託された信者です。母さんは、あたしを愛してくれました。でも、真実を隠し続けることに耐えられなかった。だからあたしに、出生の秘密を語ってしまった。もちろん、時生さんと双子だとは知らなかったでしょう。知っていれば話せなかったかもしれない。いえ、そもそも結婚など認めなかったでしょう。母さんが死んだのはそれからほんの1か月後です。時生さんに嫁いで別居した、直後です。あたしは、あなた方が母さんを殺したんだと信じています」

「房江が死んだのはただの偶然です! 私は何もしていません!」

「でも、母さんが口止めの約束を破った事は知っていたんでしょう?」

「それは……」

「あたしは母さんから聞いていました。耐えきれずに秘密を打ち明けてしまったことを、教祖様に正直に告白した、と……。母さんは、そういう人でした。時生さんとの結婚を控えたあたしに、真実を隠していることも苦しい。喋ってしまったことを教祖に黙っていることも苦しい。だから自分を責めながら、正直に打ち明けるしかなかった。嘘をつき続けられるようなお利口じゃなかったんです。でも、優しい人でした……。そして、死んでいった……」

「だらか房江は、心臓病で――」

 柚が教祖をにらむ。

「あなたは手を下していないかもしれない。でも、比嘉はどうです? 人の命を何とも思わない比嘉なら、薬を盛ったのかもしれない。徹底的に威圧して心を壊したかもしれない。信仰で自殺を止められていた母さんだから、きっと自分を苛み、追い込んでいったんでしょう。そもそも、他人の子を娘だと偽ることに呵責を感じ続けていた。そして病に倒れた……。どっちにしたって、あなた方に殺されたってことでしょう?」

「それでも……あなたは、私の子供なのよ……」

「確かに。義理の母親です。……いいえ、でした。でも、今のあたしは長谷川柚。1人の、自由な人間。時生さんと愛し合うことを許された、宿命を打ち砕いた女。あなたの子供は、そこで横たわっている梨沙子の体……生贄の抜け殻……それだけです」

「お腹を痛めた本当の子供なのに……」

「それって、都合が良すぎませんか? 魂までは縛らせません。少しでも母親らしく振る舞ってきたなら、こんな憎しみは抱かなかったかもしれない。でもあなたはそのチャンスを顧みなかった。薄汚い欲望を叶えるために、比嘉という狂気を操って全てを壊した。時生さんが生きていくべき家庭を壊した。あたしのホントの母さんを壊した。あたしの人生の出発点を壊した。そしてユズの心も壊した。みんな、不完全に砕けてしまった……。それでも不完全なりに、残ったかけらを持ち寄った……。そして、なんとかやり直そうと必死にもがいていたのよ。今ようやく、あたしたちの願いが実を結んだ。そこにもう、あなたは要らない。あなたはもう女王なんかじゃいられない。ただの道具に成り下がったの。あたしたちの憎しみを浴び続けながら生きていくしかない。それがイヤだというなら、死ねばいい。死んでみればいい。あたしは許さない。絶対に死なせないから。死にたくても死ねなかったユズの苦しみを、わずかでも味わってみるといい。残りの人生は、全てを壊された重圧に耐え続けなさい」

 時生が背筋を伸ばして穏やかに続ける。まるで、信徒に語りかける教皇のように。

「猫の名前……コロの由来をお話ししましょう」

 教祖の表情が曇る。

「猫の名前……? そんなことになんの意味が?」

「あるんですよ。僕たち3人の、決意の現れでしたから」

「決意って……」

 時生は教祖の困惑を無視した。

「あなたには、ただコロコロじゃれつく子猫だったからと説明していましたが、僕らの想いは違います。省略しない真の名前は、コロッセオ――古代ローマの闘技場です。剣を持たされた奴隷たちが殺し合う、見世物の舞台……つまり僕らが、無理やり剣士にさせられた奴隷なんです。闘技場はこの教団。だから傷つけ合うのではなく、力を合わせて闘技場そのものを破壊する反乱に賭けた。コロはその象徴だったんです。この戦いに敗れれば、柚は死ぬまで壊れた心に苛まれ、梨沙子は出産で命を失い、たぶん僕は正気を保てなかったでしょう。コロが死ぬことで……コロッセオが消えることで、歪んだ世界は少しでも正常に近づくはずです。そしていつかは、柚の魂にも、コロの魂にも、安住の地を用意することができると信じています。いえ、彼らが生まれ変わりを喜べる教団を、僕たちが作っておかなければならないんです。だからあなたは、僕らの世界を邪魔しないでください」

 教祖はもはや、返す言葉を持ってはいなかった。

 柚はリュックキャリーの中に手を差し入れる。

 そして、不意に肩を震わせて嗚咽した。

「もう、冷たくなり始めてる……ごめんね……あなたは大事にお骨にするからね……これからもずっと……一緒にいようね……ずっとあたしたちを……見守ってね……」

 その言葉が猫に向けられたのか柚に向かられたのかは、言った梨沙子にすら明確ではなかった。

 だがそれは、もはや問題ではない。

 彼らはすでに、一体なのだから。

                                

                          ――了

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黒猫が死んだ。 岡 辰郎 @cathands

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