6・対決
オカルト番組で紹介された『めがね橋』は、碓氷湖の300メートルほど上流にある。信越本線の廃線区間を、遊歩道に改装した場所の一部だ。
古い鉄道路線は急勾配の碓氷峠を越えるために『アプト式』という歯車を刻んだレールを追加していたので、遊歩道は『アプトの道』と呼ばれている。
トンネルと橋梁が交互に繰り返される遊歩道の中で、めがね橋は最長の橋だ。渓谷に建設された日本最大の煉瓦造りの橋は高さ30メートルを越え、前後は長いトンネルに挟まれている。
明治時代の遺産として重要文化財にも指定されている観光地だ。
直下には湖に注ぎ込む小さな渓流――碓氷川が流れている。
すぐ下流には中山道のヘアピンカーブがあり、周囲は鬱蒼とした森に囲まれている。秋には、周囲の森林が真っ赤に染まって訪れた者を魅了する。
だが紅葉シーズンにはまだ少し早かった。
梨沙子たちはヘアピンカーブ近くの駐車場に車と猫を残し、大荷物を背負って徒歩でめがね橋に上がる脇道を登った。息を切らせながら廃線のトンネルの入り口に着いたのは予定の1時間以上前で、教団の〝刺客〟を迎える準備を整えたのだ。
幸い平日の夕方近くで観光客もなく、2人の〝奇行〟は見咎められることもなかった。
そして日が落ち始めた。
日光が両脇に迫る山並みに遮られて、急速に暗さが増す。
トンネルの入り口を背にした橋から見る光景は、まるで空中に浮遊しているような錯覚をもたらす。まさしく心霊スポットに相応しい迫力を漂わせていた。
橋から落ちれば、渓谷の岩に叩きつけられて確実に死ぬ。
遊歩道に人影はない。眼下の中山道を通過する車のヘッドライトが時たま道路を照らすだけだ。
一時期は心霊スポットブームで無謀な若者たちを集めたトンネルも、すでに忘れられた存在になっているのかもしれない。
時生はこの場所を、面白半分で訪れるような霊感の低い人間にはなんの影響もないだろうと語っていた。逆に感度の高い者は、そのパワーに恐れをなして近づこうともしないはずだという。
ここで待つことは、2時間前に直接教祖に宣言していた。
誰がやって来るかは分からない。だが、彼らが交渉に乗ることは確信していた。
圧倒的に有利なのは、超能力と暴力組織を操れる彼らなのだから。
約束の時刻が近づく――。
長くは待たなかった。
何人かの集団が傍の階段を登ってくる。強力な懐中電灯を照らしているために、梨沙子は眩しさで目を背けた。
明らかな嫌がらせだ。
だが彼らも、階段の急勾配に肩で息をしている。
狙い通りだった。
いきなり襲われる危険は、わずかでも減らせる。それでも襲ってくるようなら、トンネルの中に逃げ込む手筈だった。
悪霊が本当にいるのなら、少しは防御を期待できる。
梨沙子はフルフェイスヘルメットのバイザーを下ろした。目を隠すためのミラーシールドで、ホームセンターで買ったものだ。
外から瞳は見えない。強い光も反射する。
効果は未知数だが、憑依を防ぐ手段として考えたものだ。
サングラスではなくヘルメットを選んだのは、顔全体を覆いたかったからだ。憑依のメカニズムが把握できていない以上、そうやって大げさな手段を取るしかなかった。
不恰好な外見にこだわってはいられない。
やはりヘルメットをかぶっていた柚がつぶやく。
「6人……ぐらいかな」
〝敵〟の数だ。
教団には反社会組織がついている。数時間の猶予も与えた。力づくで攻撃してくるのも簡単だ。梨沙子たちの提案を正直に守る保証もない。すでにトンネルの出口側を手下に塞がせてかもしれない。
それでも最初から暴力を振りかざす気はないようだ。
交渉に乗る準備はしているのだ。
彼らも手詰まりを感じているという証拠だ。
集団が階段を上り切る。
周囲を、冷たい風が吹き抜けた。
すぐ後ろは長いトンネルで、霊感を持つ者を寄せ付けないと時生は恐れている。逃げ込めば、教団の信者は追って来られないかもしれない。
だが、比嘉の部下なら悪霊など気には止めない。そもそも、感じ取れる敏感さを備えていないだろう。
生かしておく必要がないと判断すれば、トンネルから引き摺り出して橋から落とせば事故か自殺にしか見えない。
梨沙子たちも悪霊と暴力の板挟みになる。
文字通り、命懸けだ。
集団がさらに近づく。木陰の暗がりではっきりは確認できないが、その中には女もいるようだ。
梨沙子が言った。
「教祖様ですか?」
女が答える。声は小さかったが、聞き取れた。
「他人行儀ね。あなたは時生の嫁、つまり私の娘。お母様と呼んで欲しいわね」
教祖だけが進み出た。ぼんやりと表情が確認できる。悪霊を恐れているはずの場所に、自ら出向いてきたのだ。
教祖自身が交渉に臨むには、避けられない理由があるはずだ。
この場で梨沙子らを生かすか殺すかを決断し、実行する覚悟だろう。
真剣勝負だ。
教祖の言葉は、梨沙子の胸に突き刺さった。だが、もう従うつもりはない。
「それがイヤだから、こんなことをしているんです」
「あら? あなたって、そんな口答えができる娘だったかしら?」
「口答え、したことなかったですよね。でも、できないんじゃなくて、しなかっただけです。したら何をされるか、怖かったから。もう、怖いのはイヤなんです。人を殺したのを見せられたばかりですから」
教祖の返事に薄笑いが混じる。
「なんのことかしら? 人間なら誰だって不意の病に倒れることがあってよ」
教祖の指示がサービスエリアの悲劇を招いたことを認めたようなものだった。
「やったのはあなた? それとも時生さん? どんな能力?」
「あなたたちも体は大事にしてね」
梨沙子の言葉に憎しみがにじむ。
「だから、抵抗するしかないんです」
「そこのお友達の入れ知恵かしら? ――って言っても、柚ちゃんもおとなしい子だったわよね。教団に逆らったことなんて、あったかしら? なんで急にこんなバカなことを? これだから、お友達は選ばないとね」
「選んだから……いいえ、子供の時からの強い絆があったから、ここにいるんです」
柚が前に出て、梨沙子に並ぶ。
「時生さんも来ているんですか?」
教祖の言葉が厳しく変わる。
「教団を裏切ったあなたに話す必要は、ある?」
応えたのは梨沙子だ。
「あたしたち、一心同体ですから。ユズだけをどうにかできるだなんて、考えないで」
教祖が懐中電灯を梨沙子のヘルメットに向ける。
「時生が怖くて、そんな無粋な格好をしているの?」
「何も準備をしないわけにはいきませんから」
そして梨沙子は、用意していた山菜取り用の大きめのナイフを取り出した。
これもホームセンターで買い揃えた武器の1つだ。
あえてはっきり見えるように、顔の前に突き出す。
教祖の嘲笑するような口調は変わらない。
「あらあら、そんな貧相な武器で何をしようというのかしら?」
「いざとなったら、戦う覚悟です」
「こっちには屈強な男が揃ってるんだけど?」
「それでも戦えます」
「そもそも、交渉がしたいんでしょう? ナイフなんて必要なの?」
梨沙子は息を整えてから、言った。
「危険を感じたら、使います」
「どうやって? ボディーガード、見せましょうか?」
背後で様子を伺っていた5人の男が、ゆっくりと前に出て教祖の横に並んだ。
1人は堤で、すでにスマホのカメラを梨沙子に向けていた。
他の4人は常に教祖の周りにいる警護役で、比嘉が送り込んできた部下だ。
実力行使もためらわないという宣言だ。
だが柚は、そうなることを予測していた。そして、しばらくは膠着状態が続くと読んでいた。
実質的なヤクザであるボディーガードがたとえ拳銃を持っていても、安易には使えない。銃声が渓谷に響くし、銃弾の傷が残れば死体の処理も難しくなる。
距離さえ保っていれば、交渉は続けられると判断していたのだ。
予測通り、いきなり憑依されることはなかった。ヘルメットの効果なのかもしれない。
さらに安全を高める方法も準備している。
柚は懐中電灯を堤に向けた。
だが懐中電灯には、別の装置がテープで束ねられてられている。電灯の光の中に、一際鋭い赤い光線が走っていた。
レーザーポインターだ。
堤に突き刺さる光の点が揺れて、スマホのカメラを直撃する。
強力なレーザーを当てられると、スマホ内部のCCDイメージセンサーが破壊される。堤と時生の映像通信は遮断しておきたかったのだ。
それに気づいた堤が背を向け、小声でスマホで通話した。
相手は時生だろう。話し声は風に飛ばされて判別できない。
と、堤は肩を落としてスマホをしまい込んだ。
カメラが無力化され、映像が途切れたようだ。
教祖やボディーガードたちも、スマホを出そうとはしなかった。おそらく、堤にだけ接続が許された回線を使っている。
教祖が呆れたように言った。
「あなた方がそれなりの準備をしてきたことは分かった。で、そのナイフはどう使うの? こっちにはマッチョさんが4人。勝負になるとは思えないけれど?」
梨沙子がうなずく。
「でも、使い道はある」
そしてナイフを逆手に持って、切先を自分の腹に当てた。
教祖の懐中電灯がナイフを照らし、声が緊張する。
「何をするの⁉」
「逃げられないなら、子宮を刺す。安いナイフだから、きっと傷口もぐちゃぐちゃね。病院に駆け込んでも、元には戻せない。子供、産めなくなっちゃうでしょうね。あなたの孫――未来の神様も、生まれる前に命を絶たれるのよ」
教祖は動揺を隠せなかった。
「馬鹿なことは考えないで!」
「馬鹿なことはさせないで!」
男たちにも動揺が広がるのが目に見えた。
梨沙子は、自分の価値は子供を産むことだけだと理解していた。しかも、出産は母体の死を意味すると予言されている。
妊娠が不可能になれば教団は強大な力を得られず、逆に梨沙子は生き続けられる可能性を得られる。
ただ、痛みは尋常ではないだろう。最悪、死ぬことも考えられる。
それでも、生き残れる可能性がある。
たとえ、どんなに小さくても――。
唯一にして決定的な交渉材料だ。
この材料を最大限に生かすために、2人は憑依の可能性を最小限にしておきたかったのだ。
教祖たちが動きを止めた。
小康状態が続く――。
男たちは、教祖の決断を待っている。
長い沈黙ののちに、教祖が言った。
「要求は、何?」
梨沙子の答えは、柚と検討し尽くしたものだ。
「まず、あたしたちの身の安全。肉体的にも精神的にも、絶対に干渉しないで。もちろん、憑依させるなんて論外。そして、自由。教団との関係を全て断ち切らせて」
教祖は落ち着きを取り戻したようだった。
「それで、教団にはどんな利益があるというの?」
応えたのは柚だ。
「わたしが待ちだした犯罪の証拠は全部お返しします。わたしからも今後一切、教団に関わらないと約束します」
教祖は鼻で笑った。
「おや、ありがたいこと。でも、信じるわけにはいかない。信じる必要がない実力も、教団には備わっている。当然、知っているわよね。あなたを処分し、あなたのお仲間を処分し、全てを揉み消すことも簡単。ここにいる男たちの本来の仕事は、それですから」
それも、柚が予測した展開だ。
「やっぱりそういう人たちだったのね……」
教祖が前に進み出る。
それに同調して、男たちも前進した。
「リストやら資料やら盗んでいったんだから、分かってたんでしょう?」
柚たちは気圧されるように後ずさる。
トンネルの入り口に近づくと、さらに暗さが深まった。
柚がつぶやく。
「わたしをここで処分する、と?」
「私は、それを判断するために来たのよ」
梨沙子が割り込む。
「ユズを殺しても、仲間が証拠を公開するわよ」
「ご心配なく。居場所さえ分かれば、呪い殺すのは簡単。あなた方もさっき見たばかりでしょう? それに私の夫が――いいえ、あなたの父親が、どんな仕事をしているかも知っているんでしょう? 組織があるのよ。荒事にも慣れてる。そして……」教祖がニヤリと笑う。「すでに協力者の居場所も探し出した」
柚が叫ぶ。
「ウソよ!」
教祖は柚を見つめた。
「どうして嘘だと言えるの? あなたは、私の本当の力を知らない。予知夢は自在には見られないけれど、本気で願えばいつかは必ず降りてくるものなの。そして昨日、ようやくその瞬間が訪れた。もうすぐ、裏付け調査も完了する。比嘉が雇った有能なハッカーさんが奮闘してるから。柚ちゃんとの関係が見つかったら、そこで時間切れ」
「ウソよ……」
教祖は、柚のつぶやきを気にも止めない。
「私は必ず見つかるって確信してるけど、比嘉は用心深くね。時間はかかったけど、もう待つ必要はない。あなた方が抵抗し続けるなら、彼らに何が起きるか……。まあ、私には関係のないことですけど」
柚は胸ポケットからスマホを出して、掲げた。
「だったら、それを無意味にする」
教祖がスマホを見つめる。
「どうやって?」
「今ここで、全てのデータをネットにアップする。このボタンをタップすれば、比嘉も教団もおしまい。わたしの仲間を脅かす意味もなくなる」
教祖の影に隠れるように立っていた堤が、わざとらしく笑う。
「やってみればいいさ」
梨沙子が、その自身ありげな態度に不安をかき立てられる。
「怖くないの……?」
「ここは人も住んでいないど田舎だ。当然、通信速度が遅い。5G回線も届いていない。しかも我々は通信を傍受している。そのスマホはすでに監視対象だ。拡散する前にブロックできる」
「SIMは変えてる」
「だからどうした? ホームセンターで買ったSIMは、全て監視下にある。わざわざ私が管理者に会った理由を何だと思っているんだ?」
「そんなことまで……」
「我々をみくびるな」
比嘉の資金力を考えれば、単なる脅しとも言い切れない。柚たちのスマホがハッキングされていたのなら、反抗計画の漏洩も説明がつく。
梨沙子には返す言葉がなかった。
教祖がうなずく。
「分かったでしょう? あなた方の抵抗は、全てムダ。それでもまだ逆らうなら、実力に訴えるしかない」
柚がうめく。
「どうする気……?」
「事故なんて、なんとでもでっち上げられる。あなたが巻き込んだお仲間は、あなたの浅はかさに殺されるの。柚ちゃんも、ここで死にたい?」
柚がさらに後ずさる。
「だけど……こんな場所で人を殺したら――」
教祖は含み笑いをこらえながら言った。
「それも心配いらない。ここって、観光地で目立ちそうだけど、夜は人気もなくて死体の処分には意外に便利な場所だそうよ。八王子から2時間程度で来られる近さだしね」
堤が慌ててささやく。
「教祖様、それはご内密に!」
教祖は気にしていない。
「あの子たちはもう逃げられない。それを分からせたいのよ」そして柚を見つめる。「死体なんて橋から落とせば、見つかっても誰も自殺を疑わない。死体が木陰に隠れれば、熊や猪が数日で処分してくれる。猿やら狐やら、それに猛禽もいっぱいらしいの。骨になっちゃえば身元だって分からないし、雨で増水すれば骨も粉々で跡形もなくなる。なんでわざわざこんな場所を選んでくれたのかしらね……」
「そんな作り話じゃ驚かないわ!」
「作り話? 比嘉の仕事は分かってるでしょう? 今の堤の慌てよう、見たでしょう? 実際にここで10人以上の死体を処分したそうよ。あの人、悪霊の噂は死体の捨て場にしてから広まった――って笑ってたけど。悪霊が出るなら、恨まれているのは比嘉なんじゃないかしら」
柚が言葉を失う。
梨沙子の表情も強張る。
だが、協力者が見つかったというのは、柚を追い詰めるための嘘かもしれない。
平静を装って言った。
「それはユズの問題。あたしにはあたしの考えがある。いざとなったら、子宮を刺すわよ。痛いのはイヤだけど、やらなければ子供と引き換えに死んじゃう――いいえ、殺されちゃうんだから!」
教祖は言った。
「それでは教団は後継者を得られない。取引にはならない」
「時生だけで我慢しなさいよ」
「あの子は憑依もできるけど、本当の価値は真の後継者を産むための種にある。そして梨沙子、あなたは真の後継者を育てる揺り籠なのよ」
「だから子宮は失えない。そうよね?」
「そう。だからあなたが子宮を傷つけたら、もはや価値はない。2人一緒に、ここで死ねばいい。女同士の愛情に苦しんで心中――だなんて、レズビアンたちから崇拝されるんじゃないかしら?」そして、真顔に戻る。「あたなたちの命なんて、いつでも奪えるのよ」
堂々巡りに陥っている。
だがそれは、梨沙子たちの狙いでもある。
梨沙子は満を持した一手を打った。
「そして教団も、衰退の一途をたどる……あ、ちょっと違うか。後継者の霊力の裏付けがなければ、これまで教団を支えてきた権力者たちが逆に敵になりかねないものね」
教祖の言葉から嘲笑が消えた。
「何が言いたいの?」
「時生の憑依の力、衰えてきてるんでしょう? 近頃疲れが抜けないってぼやくの、何度も聞かされてきたから。今日だけで何度も繰り返しているんだから、相当無理を重ねたはず。回復に何ヶ月もかかるんじゃないかしら?」
教祖は、あえて強がっているようだ。
「それがどうしたの?」
「もしかしたら、一生能力が戻らないかもね。その間に予言を求められたら、どう処理する気? 憑依ができなくなれば、予言は叶えられない。予言が当たらなければ、誰も教団を怖がらなくなる。逆にスキャンダルを恐れて、疎ましくなるかもね。カルト教団とか反社会組織とかの繋がりを暴かれたら、お偉いさんほど真っ当な場所にはいられないでしょうから」
ハッタリだった。だが、可能性は皆無ではない。
教祖がうめく。
核心を突いたのだ。
返事が返ってくるまでの間は、長かった。
「打開策はあるの?」
しかし教祖はさらに一歩、前に進んだ。男たちも続く。
納得できる提案がなければ、実力に訴えるという意思表示だ。
梨沙子が後退りながらも交渉を続ける。
「帝王切開はできないの?」
「どういうことかしら?」
「体外授精なら、子宮に入れても構いません。あたしの体で育てます。でも時生に抱かれるのは、もう絶対にイヤ。それに胎児が充分に育ったら、出産前に取り出して欲しい。それならあたしは生き残れるかもしれないから」
譲りに譲った妥協案だった。
「孫に充分な霊力が備わらないかもしれない」
「そんなの、生贄でもなんでも与えてやればいいじゃない! どうせ狂った教団なんだから!」
だが教祖は、梨沙子の提案を真剣に考え始めたようだ。
「それまでは、あなたたちは教団の庇護下に入ると?」
「子供が生まれたら、去りますけどね。そしてユズにも、その協力者にも永遠に関わらないで」
教祖がさらに前に出る――と、急に足が止まった。
頬が引きつる。瞳に、明快な恐怖が浮かぶ。
そこが〝境界線〟なのだ。
梨沙子たちはあらかじめゆっくり後退することで、教祖たちが本当にトンネルを恐れているかどうかを確かめたかったのだ。
教祖は明らかに、これ以上進めば危険だと直観している。
トンネルの中に強大な悪霊が潜んでいるなら、安住の地を侵されたくないはずだ。ましてや霊能力を備えた同類の接近は、軋轢を生む可能性が高い。
しかも霊が比嘉を憎んでいるなら、利益を分け合ってきた教祖も憎しみの対象になるはずだ。
少なくとも、教祖は本気でトンネルを恐れている。部下を送り込んで悪霊を刺激することも避けたいだろう。
ここから奥は、安全地帯といえる。
梨沙子たちが、悪霊を刺激さえしなければ……。
教祖がかすかに退く。
「考えてみる価値はあるわね……」
その言葉は、教祖がこの交渉によって変わる未来を〝見て〟いないことを意味する。やはり教祖自信の能力も不安定なようだ。
梨沙子の関心は他にもあった。
柚にとっての敵が、教団から比嘉に変わったことだ。
本当に協力者が特定されているなら、いくら手の内にあるデータを返しても終わりにはならない。危険がある限りは排除するのが、彼らの〝正義〟なのだ。
トンネルの暗がりに入り込みながら、柚にささやく。
「奥に入るよ」
柚は明らかに、悪霊への恐怖を匂わせている。特別な能力も持たない人間でさえ、感じるものがあるのだ。
「本当に入るの……?」
「前は教祖に塞がれてるからね。後ろしか逃げ場はない」
「でも、霊に襲われない……?」
「信じてるの? テレビのヤラセっていう噂もあるよ」
「でも……」
「今、教祖は迷ってる。考える時間が必要なの。決断する前に比嘉の手下に襲われたくない」
教祖が取引を認めると決断すれば、比嘉たちも従うしかないはずだ。
「でも、やっぱり怖い」
「あたしは、比嘉の方が怖い。あいつら、教祖を無視して襲ってくるかもしれないから」
「リサだってあんなに真剣にお祈りしてたのに……」
梨沙子はトンネルに着くとすぐに、精一杯の知識を動員して悪霊を宥める〝儀式〟を済ませていた。形式は神道とも陰陽道ともつかないデタラメなものだったが、気持ちは込めた。
悪霊の存在を確信していたわけではないが、教祖が恐れていることは確かだ。霊が本物なら、必ず応えると信じ込もうとしていた。
その迷いを振り払うためにも、大量の酒を供えた。
「あたしたちはただの人間。この場所を使わせてくださいっていうお願いは済ませてるんだし、見逃してくれる。たぶん……」
「たぶん、って……」
「それよりも心配は、ユズの方」
「わたしの?」
「あたしには武器がある。でも、協力者がバレたら、ユズには身を守る方法が残ってない。あたしが守り切れるか、自信がない……」
柚の答えは意外にも、屈託がなかった。
「それなら大丈夫」
「でも、目の前に比嘉の手下が来てる……。死体だってここに捨ててたっていうし……」
「交渉まとまりそうだから、やっと話せるけど……協力者なんて、そもそもいないの。全部、ウソ。だから、さっきの教祖の言葉もウソよ」
梨沙子が思わず柚を見る。
「え? どういうこと?」
「だってわたし、孤独だったから。命をかけてくれる協力者なんて、見つかるはずがない」
梨沙子は驚きの声を抑えた。
「やだ! あたしまで騙してたの⁉」
「ごめんね。だって教祖や時生は、なんだって見抜いちゃうかもしれないんだから。身を守るのに必死だったの」
「だったら、データはどこに?」
「あたしのメディアだけ。こっそり隠したけど」
「え⁉ どこに⁉」
「コロちゃんのキャリーの中。他にも1つ、念のための予備があるけどね」
「え、どこに⁉」
「内緒。最後の切り札、必要でしょう?」
「そうだけど……ホントに協力者はいないのね?」
「それはウソじゃない」
「そうなんだ……。やっと教えてくれたのね……」そして長いため息をもらし、突然、口調を変えた。「……それだけ分かれば、もういいか。疲れたし……」
梨沙子の言葉には、安堵がにじみ出していた。
全身から緊迫感が抜け去っていく。
まるで、死に物狂いでノルマを達成したブラック企業の新入社員のように……。
そして梨沙子は、いきなりヘルメットを外した。トンネルの中に投げ捨てて、柚を見る。
出来の悪い飼い犬を見下すような視線だった。
柚が思わず声に出す。
「リサ……どうしたの……?」
梨沙子の返事は冷たかった。
「あんたはもう、用済み。やっと終わりにできる。ホント、要らない手間をかけさせてくれたわよね……。神経すり減って、もうクタクタ」
そして身を翻し、大股で教祖の元に歩み寄っていく。
緊張感のかけらもなかった。
柚は、その背中に向かって叫んだ。
「リサ、どうしたの⁉」
梨沙子は振り返らなかった。教祖の傍に立って、言った。
「協力者がいるの、ウソだそうです。それだけ分かれば、いいんですよね?」
教祖は耳から小さなイヤホンを抜いた。
「聞いてたわ」そして堤に命じる。「柚を捕まえて」
男たちがトンネルに突入していく。
捉えられた柚はヘルメットを取られ、もがきながらトンネルから引き出されてくる。
梨沙子をにらみ付けるが、言葉が出ない。
梨沙子は柚に冷たい視線を向けた。
「あたしたちの会話、ずっとお母様に筒抜けだったの」
「ずっと……?」
「ユズのアパートに行った昨日の夜から、ずっと。あたし、最初から体に盗聴器をつけてたから」
柚の声が漏れる。
「なんで……?」
「ユズの協力者を見つけ出すのが役目だったのよ」
「ウソをついてたの……?」
「あなただって」
「自由になりたかったんじゃ……?」
「ごめんね、ユズ。あたし、教祖様を裏切れないの」
※
時生がつぶやく。
「結末がこれかよ……。結局、何もかも空騒ぎだったわけだ……。父さん、馬鹿げた騒動に巻き込んで申しわけありませんでした」
教祖の椅子の背もたれに体重を預けた比嘉は、目をつぶって心からの安堵の笑みを浮かべていた。
「結果には満足している。データが漏れるよりはるかにいい。無駄な殺しも必要なくなった」
「それでも、経費が……」
「蚊に喰われた程度のことだ。たまにはこんなことがあった方が、緊張感も保てる。防災訓練だったと考えておけ」
「でもまだ、コピーを隠したと」
「長谷川が隠したものなら、すぐ探し出せる。本人に隠し場所を聞けばいいだけだ。その種の質問に慣れた手下が、1ダースはいる」
「話すでしょうか……?」
「話さないと決めた人間も、いずれは話したくなる。特に、女ならな」
「でも、死ぬのが望みだと言っているぐらいですから――」
「その望み、叶えてやるさ。データの隠し場所さえ教えれば、な」
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