3・憑依

 意識を取り戻した時、柚は軽自動車の後部座席に横たわっていた。

 ゆっくりと上体を起こす。

 まだコンビニの駐車場からは移動していない。エンジンはアイドリング状態で、暖房が入っていた。

 何をしていたのか、何が起きたのか……頭からすっぽり抜け落ちていた。

 車の中だと理解するまでにも、わずかな間がかかる。

「わたし……」

 運転席に座った梨沙子が振り返った。

「起きた……?」

 ぼんやりとしていた柚の視界が、焦点を結ぶ。

 梨沙子は、濡れたタオルで顔の半分を覆っていた。柚が準備したドラムバッグの中から、ミネラルウォーターのペットボトルを見つけたのだろう。

 柚は不意に状況を思い出した。

 たぶん、現金を確認している最中に気を失った――。

 人生初の経験だ。

 パニック障害には馴染んでいるが、失神までしたことはない。

 柚は、天井に手を伸ばしてルームライトをつけた。

 梨沙子の襟元にはわずかな血がついていた。顔を殴られている。

 柚は、堤進次郎が襲ってきたのだと直感した。

「堤にやられたの⁉」

 だが〝敵〟が方針を襲撃に変えたなら、こうして2人で車内に移動できているのは不自然だ。意識を失っていた時間は不明だが、その間に拘束や拉致をされてもおかしくはない。

 梨沙子の返事は聞き取りにくかった。

「そうじゃないから……安心して……」

 堤に襲われたのではないことは、筋が通る。

 それなら、何が起きたのか?

 柚の頭が働き始める。

 自分は唐突に失神した……

 その間に、梨沙子が誰かに襲われた……。

 他の誰が介入してきたのか⁉

 だが、なぜ襲ったまま放置しておく⁉

 安心できるはずはなかった。

「傷を見せて! タオルを外して!」

 梨沙子は拒否するように身を翻す。

「すこし休めば大丈夫!」

 おかしいのは梨沙子の態度も、だ。

 異変が起きている。

 柚が語気を荒げる。

「見せて!」

 梨沙子が仕方なさそうにタオルを下ろす。背後から見ても、小さな傷ではない。

 目の縁が切れ、青く変色していた。唇にわずかに血の痕跡がある。口の中も切っているようだ。

「誰にやられたの⁉」

 うつむいたままわずかに振り返った梨沙子の返事は、歯切れが悪い。

「……暗くて分からなかった」

 柚は視線をコンソールに向けた。カーナビの時刻表示を確認する。

 倒れてから、30分は過ぎているようだった。

 体に痛みはない。自分は傷を負っていないようだ……。

 なぜ? 地面に倒れたからか……?

「わたし、こんなに気を失っていたのね……。リサが車に移してくてたんでしょう?」

「うん……」

「リサも襲われたのに?」

 納得できない状況だった。

 柚は初めて失神した。しかも、隣にいた親友が暴力を振るわれている。犯人が誰かも分からないまま、気を失った柚を車に乗せている。

 女手で、しかも怪我をしているのに……。

 簡単にできる力仕事ではない。

 その間、襲ってきた人物はどうしていたのか?

 梨沙子を殴っただけで立ち去ったというのか?

 そして、思い当たった。

「強盗⁉ お金を取られたの⁉」

 梨沙子は再び顔を押さえ、モゴモゴと話した。頬が腫れ、発音しにくいようだ。口の中にも傷があるのかもしれない。

「お金は取られてない。柚の荷物に入れておいた」

「強盗じゃないの……?」

 だったら、なぜ襲う?

「1度だけあたしを殴って、すぐに姿を消したの。はっきり姿は見えなかったけど、きっと教祖がよこした半グレみたいな連中だと思う」

 何かを警告する襲い方だ。

 早く教団に戻れ。次は殴るだけじゃ済まないぞ――。

 反社会組織の常套手段だ。次第に圧力を強めることで恐怖心を煽って、反抗心を削り取っていく。暴力で人の心をねじ曲げることに慣れた者の常套手段だ。

 だが、疑問も沸く。

「堤じゃないの?」

「そんなふうには見えなかった」

「そうよね……さっきは見逃したのに、今になって襲ってくるのも変……。でも、教祖の差し金だとしたら、やっぱり理屈に合わない。わたしを泳がせる気なら、なんでわざわざ警戒させるようなことを……? 今すぐに戻れ、って意味なのかな……」

「あたしもそう思った。だからここでユズの意識が戻るのを待ってたの。どうするか相談したくて……」

 柚には、なぜ自分が意識を失ったのかが理解できない。恐怖も緊張も高まっていたが、むしろ思考ははっきりしていた。

 今も、体調の変化は感じない。パニックに陥ったわけでもない。過去には何度も呼吸困難でしゃがみ込んだことがあるから、パニック症候群なら前兆も感じ取れる。

 何があったのか知りたい……。

 そして、気づいた。

「ドラレコ!」

 梨沙子が顔を上げる。

「はい?」

「そこのドライブレコーダー、盗難防止機能があるの! 駐車中でも周りで動くがあれば360度記録する!」

「え⁉ でも――」

 柚は梨沙子の話も聞かずに外に出て、助手席の荷物を後ろに移して乗り込んだ。ドライブレコーダーを操作し始める。

 梨沙子が慌てたように柚の腕を掴む。

「そんなことしなくていい! いいから、もう逃げよう! すぐに遠くに逃げよう!」

 真正面から見る梨沙子の顔は、思った以上に傷が深そうだ。

「リサをそんなにした犯人を知りたい!」

「早く逃げたい!」

 柚は梨沙子のうろたえように不審を感じた。

 いつもの意志の強さが――たとえそれが強がりであったとしても、微塵も感じられない。まるで幽霊に怯える幼児のようだ。

 襲撃されて心が折れたのか?

 この程度の妨害は覚悟していたのではないか?

 梨沙子は、懇願するように柚を見つめている。

 襲撃した人物を知りたくない――いや、知られたくないかのようだ。

「リサ、どうしたの⁉ 襲われたのはあなたなのよ! 犯人が写っているかもしれないのよ!」

「そんなのどうでもいい! すぐ逃げよう!」

 梨沙子は明らかに犯人を隠そうとしている。理由を知らなければならない。

「よくない! 誰が襲ってきたのかが分かれば、相手の狙いが分かるかもしれない! 逃げるにしても、より安全な方法が見つかるかもしれない!」

「堤よ! あいつにやられたの!」

 嘘だ。なにより梨沙子の慌てようが、事実を隠そうとしていることを雄弁に語っている。

「何を隠しているの⁉ 死ぬときは一緒だって言ったよね! だったら、嘘なんかつかないで!」

「ダメなのよ……」

 だが、梨沙子は諦めたように柚の腕を離し、うつむいた。

「ダメって、なにが?」

「ユズは、見ちゃダメなの……」

 柚には、その意味が分からなかった。襲撃者を知ったからといって、なにが不都合なのか理解できない。

 柚は録画画像をカーナビに表示して、表示されたサムネイルの時間を確認した。

 およそ30分前の画像を選んで、モニターに出す。上下に分割された画面の下半分に、車内の映像が映し出される。

 画像が動き始める。

      ――――――――――――――――

 柚が車を降り、梨沙子が続く。すぐに開いた後部のハッチの先に、2人の姿がはっきりと映っていた。

 もちろん、他には誰もいない。

 2人の姿がいったん後部座席の背もたれに隠れてすぐ、柚が体を起こして封筒の中を確認する。

 直後に柚が再びしゃがみ込み、今度は両手で四角い装置を持って起き上がった。そして平然と、その装置を叩き下ろした。

 2度、3度……

      ――――――――――――――――

 柚は、その装置を見たばかりだ。

 封筒の上に置いてあった、エアコンプレッサーだ。

 それを振り下ろした先にあるのは、体を起こそうとしていた梨沙子の顔以外に考えられない。

 他には、誰も映っていない。

 誰も――。

 梨沙子を殴ったのは、柚だったのだ。

 柚が呆然とつぶやく。

「わたしが……やったの……?」

 梨沙子は再生を止めた。だが、顔を上げない。

 上げられないのだ……。

「だから、見ないでって……」

 柚にはもちろん、梨沙子を殴った覚えない。

 だが、ドラレコには柚が梨沙子を襲う画像が、はっきりと残されている。たった30分前の画像だ。

 柚の行為は疑いようがない。同時に、記憶もない。

 なにより、梨沙子を殴る理由が、ない。

 柚が不意に叫ぶ。

「わたしじゃない!」

「知ってる……」

「……でも、わたしなの……?」

 梨沙子が顔を上げた。

「分かってるから! 柚がそんなことをしないのは、分かってるから!」

 異常な事態だ。

 だが梨沙子は、平然とその異常を受け入れている。

 そのこと自体が、異常なのだ。

「だったら、どうしてこんなことが……?」

「……時生さんなの」

「え?」

「あの人、他人の心を奪う力を持ってる」

「憑依⁉」

「そう。人の頭に入り込んで、体を自由に操ってしまう」

「まさか……わたしに……?」

「時生さんに入り込まれた人は、何も覚えていない。精神を乗っ取られたことさえ分からないまま、自我を片隅に押し込められてしまう。だからユズは、気を失ったのよ……」

 梨沙子が恐れていたのは幽霊ではない。人の体を乗っ取る時生の憑依能力だったのだ。

「そんな……これが憑依の力なのね……」

 時生に憑依能力があることは聞かされたばかりだ。知識はあった。

 だが自分がその〝被害者〟になると、実感が桁違いだ。

 まるで目の前に拳銃を突き付けられるかのように、恐怖が胸を締め付けてくる。

 考えもしなかった事態だった。いや、考えておくべき事態だった。

 だが、梨沙子の動揺は少ない。

「時生さんは、そういう人。能力が開花した時からずっと、教祖の命令でさまざまな人を操っていたそうよ。時には自殺に追い込んだりして――」

 柚が不意に叫ぶ。

「待って! 時生さんが近くにいるの⁉」

「落ちついて! 今は大丈夫だから!」

 柚が慌てて周囲を見回す。

 コンビニ周辺は明るいが、反対側は闇に包まれている。誰が潜んでいたとしても、見分けはつかない。

「どうして⁉」

「どうしても!」

「でも……」

「本当に大丈夫! 信用して!」

 梨沙子の真剣さが柚に伝わる。

 柚は梨沙子の目を見ながら、ゆっくり深呼吸をした。同時に、不意に理解する。

「あの証拠……やっぱり嘘じゃなかったのね……」

「証拠?」

「わたしがもらったデータ。机に入っていたUSB……リサがくれたやつよ?」

「あ、あれか。そうなの……教祖様が顧客に都合がいい予言をでっち上げて、時生さんが憑依して予言を実現してしまう。後出しジャンケンみたいな予言だから、絶対外れない。だから大きなお金を搾り取ることも簡単だった……そうやって権力を大きくしてきたんだと思う」

「思う……? 憑依で人を操った証拠はないの?」

「だって、超能力だもの。実在を証明することなんかできない。だから証拠も残らない。ヤクザが動いてた頃なら話は別だけど、もう何年前のことらしいから……」

「え? それじゃあ、あの写真はそんな昔のことだったの?」

 柚が見たポラロイド写真のスキャンデータには、日付が入っていなかった。だから最近の写真だと思い込んでいたのだ。

 梨沙子は不思議そうな表情を見せた。

「写真?」

「あなたがくれたデータに入っていた写真。比嘉の手下が人を殺した現場の証拠でしょう?」

「あ、あれ……。そうよ。だから今では比嘉も滅多なことじゃ手を汚さない。必要がないなら法は犯さないのが比嘉のやり方みたい。今は憑依でもなるべく殺さないようにしているみたいだし……」

 柚はため息まじりにつぶやく。

「それが憑依ってことなのか……。だから教祖の予言はことごとく的中してたのね……」

「教祖様自身も力はあるけど、それは心を見抜いたり時たま予知が降りてくるだけらしい。それも、自由に操れるわけじゃないみたい。半分は占い師が使うような、心理学的な洞察力や推理の能力だって……」

「インチキってこと?」

 梨沙子が小さくうなずく。

「むしろ、人間観察力かな。表情を読んだり、言葉つきを分析したり――占い師だったから、そんなことを自然にやってるんだと思う。その辺の勘は本当に鋭い人だから。でも時々は、本当に他人の未来が手に取るように見えてしまうらしい。その力をきっかけに権力者の取り入ってからは、重要な予言をするようになった。時生さんが小さい頃は比嘉の部下たちが予言に合わせて事件を起こしていたらしい。時生さんが成人に近づいた頃から能力が強くなって、その後は憑依で予言を実現できるようになったみたい」

「反則級の超能力じゃない……」

「でも、時生さんの力も無限じゃない……っていうより、多用はできないらしいから、封じる方法はあるはず」

「多用できないの? ホント?」

「ええ。1度使うとしばらくは使えなくなるらしい」

「しばらくって……どれぐらい?」

「1日ぐらい、かな……。でも、天候とか体調とかにも左右されるみたいで、決まりはないって言っていたことがある」

 柚がほほえむ。

「それでも、半日ぐらいはもう憑依できないんじゃない? だったら、その間は警戒しないですむ」

 梨沙子にも笑顔が戻る。

「それはそうね」

 柚はあえて不満げに言った。

「でも、そこまでできるって知ってたのなら、教えて欲しかったな……。わたしたち、運命共同体なんでしょう?」

「ごめんね……。でも、本当に怖い力だから……ユズが知ったら、一緒に逃げてくれるかどうか分からなかったから……」

「信用されてない?」

「そうじゃないけど……。あたし……教団から逃げることしか考えられなくて……ただ、怖くて……」

 柚は怒らなかった。

 超自然的な能力を持った上に暴力集団まで従えている相手に怯えるのは当然だ。にもかかわらず脱出に踏み切ったのは、極限まで追い込まれていたからだ。

 怒れるはずがなかった。

 梨沙子の肩を優しく掴む。

「もう隠し事はしないでね。わたしだったら、殺されたって構わないんだから」

「怖くないの?」

「脅かされるのは怖い……かも。でも、死ぬこと自体は平気。それに勝手に操られるなんて、怖いよりも腹が立つ。まして梨沙子を襲わせるなんて……。いっそ、自殺させてくれた方が嬉しい」

「そんなこと言わないで」

「だよね、逃げなきゃいけないんだものね。でもその能力って、リサがお嫁さんに選ばれたことに関係があるの?」

「あたしと結婚してから、特に強力になったみたい。教団の寄付金も急に増えたでしょう?」

 それは、柚も気づいていた。

 時生は妻帯してから、極端に教団への関与を深めた。同時に、教団への寄付金額も跳ね上がった。

「リサにも特別の能力があるの?」

「何も。少なくとも自分じゃ感じたことがない」

「それって……何か化学反応みたいなことなのかな?」

「相性があるんだと思う。あたし自身は平凡でも、時生さんの能力を強める力が眠っていた、とか……」

「だからきっと、お嫁さんに選ばれたんだね」

「いい迷惑よね……。それに、あたしと時生さんの子供は、はるかに強い超能力を持つらしいの。教祖がそう予知したから、あたしが探し出されたんだって聞かされた。母体としての価値が高いのね。だから、早く子供を作れって……。なのに、なかなか妊娠しない。焦れば焦るほど、思い通りにならなくて。自分じゃ何もできないまま、教団の都合を押し付けられているのよ……」

「それが赤ん坊を入れ替えた理由なんだ……」

「お母さんはそこまでは教えてくれなかったけど。たぶん、教祖の考えまでは知らなかったんだと思う」

 そして、柚は重大な危機に気づいた。

「ちょっと待って! 憑依で体を乗っ取れるなら、記憶も見られちゃうの⁉ だったら、証拠を隠した場所が知られちゃう!」

 梨沙子は動揺していない。

「それも心配ない。憑依中は完全に中身が時生さんだから。体を操れるだけで、記憶は盗めないって。相手の魂を抑えつけるのにも相当の気力が必要みたい。魂を入れ替えるなら、かなり長い時間でも憑依していられるらしいけど」

「入れ替われるの⁉」

「できるって聞いた。でもそんなことをすれば、時生さんの中に他人が入っちゃう。何をされるか分からないから、危険すぎる。絶対にしないでしょうね」

 柚は大きなため息を吐き出した。

「よかった……。どっちにしても、わたしの頭の中までは入って来られないのね。証拠を託した人たちは絶対に危険な目には合わせられない。そんなことになったら、死んだところでお詫びにさえならないものね……」

「まだ死にたいの?」

「うん……どうだろう……。生きたいって気持ちにはなれないかな。でも心配しないで。リサを守るためには全力を尽くすから。この体を捨てることがリサのためになるなら、それでも構わないから」

「そんな寂しいこと言わないで! 本当は、一緒に生きて欲しいんだから!」

 柚は話を逸らすかのようにつぶやく。

「でもなんで、時生はこんなに簡単に出ていったんだろう……。リサを傷つけるだけじゃなくて、もっと色々できることがありそうなのに……」

「あたしを脅すのが目的……だからだと思う」

「でも、証拠のデータだって取り返したいはずよね。わたしに取り憑いたなら、荷物を漁って隠し場所の手がかりを探すとか、できそうなものなのに……」

「はっきり聞かされたことはないけど、長い時間憑依を続けると本人の脳がダメージを負うらしいの。最悪、脳が壊れるとか……。長くても数分が限度みたい。戻れなくなるかもしれないって怖がっていたことが、何度かあった」

「万能ではない、ってことね……」そして、思い当たる。「憑依って、離れた場所にいる人にもできるの⁉」

「見える範囲だけみたい」

 柚の顔の恐怖が浮かぶ。

「やっぱり近くにいるんじゃない⁉」

 だが梨沙子は落ち着いている。

「例えば携帯を使ってあたしたちの車を中継していれば、時生さんが映像を見て憑依できるのかもしれない。少なくとも、堤さんは追ってきてる。今も隠れて見張っていると思う」

 アパートの駐車場でも堤はスマホを向けていた。あれは憑依のための準備だった可能性がある。

 柚が再び車の外を見回す。

 コンビニの建物の周辺は明るいが、堤が姿を晒しているとは思えない。

 暗さに目が慣れていた。

 駐車場の背後は菜園らしい。だが、それでも細部は見分けられない。木陰にでも身を潜めているなら、発見は不可能だ。

 たとえ見つけ出したところで、女2人で何ができるわけでもない。

 柚がため息を繰り返す。

「それもとんでもない能力だね……。他人を操ってるとこって、リサも見てるんでしょう? 防ぐ方法はないの?」

「詳しいことは、あたしなんかには教えてくれない。時生さんの憑依能力を見たのも、数回だけ。どうすれば自分が乗っ取られないかって、ずっと考えてきたけど……」

「難しい?」

「まだ分からない。携帯の中継も確かじゃないし、色々な事実を集めたらそう思えるって程度……」

 柚は覚悟を決めたようにうなずいた。

「でも、堤に見張られているのは間違いないよね」

「堤さんじゃないとしても、誰かが必ず見張ってる。でも超能力は教団の秘密の根幹だから、多くの人には知らせられない。追跡は堤さんだけに任せてると思う」

「今もいると思う?」

「いる。どこかに姿を隠してあたしたちの映像を送っている」

 だから、柚は憑依されたのだとしか考えられない。

「なのに、何もしてこないの?」

「これも脅迫なんだわ。盗んだデータを持って戻らなければ、次はもっとひどいことをする……。その気になれば、なんでもできるんだぞ――って……」

「神経戦、か……。リサはどうしてここから動かなかったの? 運転もできるんだから、逃げればよかったのに?」

 梨沙子はしばらく考えてから言った。言うべきかどうか、迷いがあったようだ。

「ユズの気持ちを確認したかった……。ここまでされたら、隠しようがないから……。あたしたちを追いかけているのは、こういう人たち。超能力者と暴力集団。普通の手段で防げる相手じゃない。警察も頼れない。頼ったところで、信用されないだろうし。必要なら人も殺せる。……降参するなら、今しかないと思ったの……」

 だが、柚の返事に迷いはない。かすかな憤りさえ漂わせている。

「それはさっき、結論が出た」

「でも――」

「死ぬときは一緒だって言ったよね」

「あのときのユズは、時生さんの本当の能力を知らなかった」

「リサの覚悟は嘘だったの?」

「でも、ユズが殺されるかもしれない。憑依されたら、あたしが殺しちゃうかもしれない……」

 梨沙子の迷いは理解できた。

 信頼関係を確かめた途端に、その相手から強かに殴られたのだ。柚に責任がないことは信じられても、再び同じ目に遭う恐れは高い。憑依を防ぐ方法がなければ、勝ち目の少ない戦いには挑みづらい――そう考えるのは自然だ。

 柚は不意に笑った。

「なんだ、そんなことか……」

「そんなことって、大変な違いよ」

 柚はあえて明るく言い放った。

「だってわたし、死んでも教団から解放されるんだから。バッドエンドはありえないの。イヤだなって感じるのは……そう、事故とかで死ねそうになった時に、助けられちゃうことかな」

「笑い事じゃないのに……」

「ねえ、憑依した時の時生さんって、どんな風になるの?」

「どんな風?」

「意識を持ったまま、他人を操るの?」

「なんだか、いきなり眠るみたいにぐったりなる。動けないらしい」

「つまり意識は1つだけで、相手に完全に入り込むわけね。憑依中は腑抜けになるってことよね」

「そうだと思う。憑依するときはいつも横になっているか座っているし、堤さんや教祖様が付き添っている。でも、やっぱり確証はないんだ。何度も見たわけじゃないから……」

「しかも長い時間は憑依できないなら、一生憑依し続けるのは不可能ね。それなら、わたしが死ねそうになった時でも、阻止はできない」

「そうだけど……それがどうしたの?」

「だったら、怖くない。腹が立つだけ。そんな卑怯な人たちに操られて、今まで我慢してたのが悔しい。縮こまっていたのが悔しい。もう逃げたくない」

「だけど――」

「人殺しの証拠っていう武器だってある。もう言いなりにはなりたくない。逆らって殺されるなら、それも上等」

「やっぱり戦う気? そしたら、ユズの協力者はどうなるの?」

 柚は断言した。

「大丈夫、絶対に居場所は明かさないから」

「そんなこと、できるのかな……」

「死ぬのがご褒美なんだから、へっちゃら。リサが怖いなら、ここで降りてもいいよ。1人で逃げるから」

「やだ! あたしを置いてかないで!」

「本気?」

「もうイヤなの!」

「体を乗っ取られたら、死ぬよりひどい目に遭うかもしれないでしょう? それでも反抗できる?」

「あんな男の子供を産むなんて、絶対にイヤ!」

 柚はふと気づいた。

「だけど、不妊治療とかさせられてたんでしょう? 卵子を取られたりしてないの?」

「どういうこと?」

「借り腹での出産が可能になるかもしれない。それなら、リサが産まなくても――」

「あ、それはできないって話してたのを盗み聞きしたことがある。母親の体内でゆっくり育たないと能力が発現しないらしい。たぶん、ゆっくりと母体の生命力を吸い取っていくんだと思う……だからきっと、あたしは子供に命を食べられて死ぬ……」

「そんなこと、どうして分かるの?」

「あたしの直感。時生さんに抱かれるたびに、命の危険を感じるの。妊娠したら、たぶんこんなものじゃ済まない気がする。出産と同時に死ぬ夢を、何度も見たし……」

 柚は梨沙子の直感を疑わなかった。

「それがリサの能力なのかもね……。でも、教団はリサの体を壊せないのは確かよね」

「そんなの、能力なんていえるのかな……」

「でも、使い道はあるかも」

「使い道……?」

 そして柚は、梨沙子の目を覗き込んだ。

「もう一度聞くわよ。やっぱり逃げたい? わたしと一緒に逃げる覚悟はある?」

 梨沙子の返事に迷いはない。

「もちろん」

「またわたしが憑依されるかもしれないよ」

「でも、殺せないんでしょう?」

「もっと耐え難いことをするかも」

「それをさせるのは時生さんだから。その時はあたしが止めてみせる」

「わたしを殺せる?」

「思いっきりぶってもいい?」

 柚は不意に笑顔を見せた。

「さっきのお返し? その時は、殺す気で殴ってね。わたしにとって死ぬのはご褒美だっていうこと、忘れないでね」

「でもそれじゃ、あたしが人殺しになっちゃう」

「大丈夫。刑務所に入っちゃったら教団はリサを取り返せないもの。だから、わたしの死体はきっと比嘉が処分してくれる。だって奴ら、人殺しの専門家なんだから」

「そうなのかな……」

「しかも、証拠のデータを全部奪えない限り、わたしも殺せない。どこにあるかは、わたししか知らないんだから。2人とも殺せないなら、戦う方法はあるかも」

「戦う?」

「逃げてるだけじゃ、いずれ捕まるしかないでしょう? 何かしら、教団の追手を封じる手段を持たないと」

「戦うなんて……できるのかな……逃げるだけでも精一杯なのに……」

「だからこそ、よ。逃げてるだけじゃ先が拓けない」

 梨沙子は不意に両手で顔を覆った。

「やだ……やっぱり……本当に怖くなってきた……」

「怖いのは同じ。でも――」

 と、梨沙子は唐突に顔を上げた。白目を剥いて、柚のトレーナーの首元を掴む。

 そして、明らかに憎しみがこもった目を向ける。

 口調も豹変していた。

「戦うだと⁉ 思い上がるな!」

 柚は梨沙子の豹変ぶりに息を呑んだ。同時に、時生が憑依したのだと理解した。

 堤はまだ近くで見張っているのだ。

 一瞬うろたえた柚の目にも、反抗心が浮かぶ。

「あんた、時生でしょう⁉ だったら、今ここで、わたしを殺しなさい! 教団の悪事が漏れるのが怖くないなら、ここで殺せばいいわ!」

「たかが事務員が、一人前に脅迫か⁉ 教団には多くの権力者が付いているんだぞ⁉」

「知ってるわよ! だからあんたも怖いんでしょう⁉ 秘密が漏れたら、教団の顧客が一斉に証拠隠滅に走るわよ! あらゆる手段を使って叩き潰しに来るでしょうね! 今は味方でも、あっさり寝返ってみんな敵になるのよ!」

「知ったふうな口をきくな!」

 柚は引かない。逆に身を乗り出す。

「昔の新興宗教みたいに、機動隊に突撃されるんじゃない⁉ たかがヤクザをかき集めたって、警察が本気になったら一捻りよ。せいぜい頑張って抵抗すれば! マスコミは大喜びよね!」

 と、梨沙子は柚の首を絞めた。

「本当に殺すぞ!」

 柚は潰れた喉から声を絞り出す。

「どうぞ……」

「死ぬのが怖くないのか……?」

 柚は明らかに笑っていた。

「ありが……とう……」

 と、いきなり首を絞める力が消える。

 梨沙子が言った。

「え? あたし、今……」

 柚の笑顔が穏やかに変わる。

「もう、おあいこ。わたし、首絞められちゃった」

 梨沙子が手を引っ込め、自分の手のひらを見下ろす。

「時生が……来たのね……」

「でも、帰った。時間切れ……なのかな」

 梨沙子は顔を上げた。

「まだ堤がいる!」

「しばらくは手を出せないと思う」

「どうして⁉」

「回復に時間がかかるんでしょう? 相当焦ってた感じだったから、思いっきり無理してたんじゃない?」

「そんなの、分かんない!」

 柚はほほえんでいる。

「それにわたし……リサの手で殺されるなら、それもいいかなって思っちゃった。ウソじゃないから。自殺は何度も試したけど、本当に死ぬのが怖くなかったんだって、自分でもびっくり。こんなにも未練がなかったんだね……」

 梨沙子は泣きそうだ。

「そんなこと言わないで……」

「時生にもそれ、伝わったと思う。あとは、リサ以外の身近な人を襲うしか脅迫の手段がないはず。でもあたしって孤独だし、友達はリサだけだから。協力者さえ知られなければ、大丈夫だと思うよ」

 梨沙子が涙を溢れさせた。両手で顔を覆う。

「でも……ごめんね」

「だから、おあいこだって。おかげで気持ちも固まって、さっぱりしたし」

「どういうこと……?」

「わたし、戦う。逃げるより、教団の秘密を暴くことに集中する。あいつ、本当に腹が立つ。しくじって殺されたら、それでいいから。そしたらリサは、教団に戻る?」

 顔を上げた梨沙子は泣きながらも、反射的に答える。

「そんなのイヤ! 一緒に死ぬって言ったじゃない! 置いてかないで!」

 柚の目に真剣さが浮かぶ。

「だったら、あなたの体を武器にしても構わない?」

「あたしが武器って……?」

「最悪の場合だけど……子供を産めないようにする、って脅かす」

「どうやって?」

 柚は梨沙子の目を覗き込みながら言った。

「包丁で子宮を刺す」

 梨沙子は目をそらさない。

「切腹……? 痛そうだけど……必要なら、やる。でも……できれば薬で流産させるぐらいにしておいて欲しいな……」

「ハラキリは、最終手段よ。その代わり、わたしが危険になったらいつでも殺してね」

「その時は、あたしも死ぬけどね」

 2人は笑いあったが、笑顔は引きつっていた。

 柚が真顔に戻る。

「教祖とか時生って、弱点はないの?」

「弱点、か……」

 梨沙子が考えこむ。

「吸血鬼にとっての太陽とか十字架とかみたいな。苦手なものとか、嫌いなものとか……」

「聞いたことがないけど……あ、そういえば時生さんがテレビのオカルト番組でビビってたことがある」

「はい? 超能力者なのに?」

「普段は鼻で笑って見てるんだけどね。大衆を操る方法の研究だ、とか言って。でも1回だけ、本気で怖がってたように見えた」

「それ、何?」

「心霊スポットの特集とかで、いろんな場所を紹介してたんだけど」

「全部怖がってたの?」

「ヤラセだって笑ってたけど、1カ所だけ本物だったみたい」

「霊能者で本物が分かったってこと⁉」

「そうかもしれない」

「どこ⁉」

「なんとかっていう湖。廃線のトンネルがあって、そこが遊歩道になってるんだけど、『めがね橋』とかいう大きなレンガの橋があって……とか言ってたかな」

「何県?」

「群馬……だったかな」

「群馬の廃線って……碓氷峠かな?」

「それ!」

 柚が考え込む。

「それ……使えるかも……」

「え? そんなもの、どうやって⁉」

「そこで戦えば、霊能力や超能力だって封じられるかもしれない。超自然の力が反発し合うとかして――」

「逆に強くなっちゃうかも!」

「でも、怖がってたんでしょう? だったらきっと、本気の力は出せない」

「悪霊を怒らせたら、もっと怖いかも……」

「本当にいると思う?」

「だって、超能力は本当だもの!」

「だからこそ、戦う方法が必要。今のままじゃ、圧倒的に不利……ってか、歯が立たないから」

「それはそうだけど、見張られてるんじゃ……」

「教祖は予知能力があるんだから、どうせ隠れ切ることはできないんじゃないの? この話だって、聞かれていてもおかしくない。リサだって、教祖や時生の能力が全部分かってるわけじゃないんでしょう?」

「子供ができるまでは、全部の秘密は明かせないって言われたことがある……」

「だったら、居場所も作戦も知られているものとして行動するしかない。失敗したって、死ぬだけだから」

 梨沙子が呆れたように見つめる。

「ユズって、そんなに強かった?」

「だよね。人間、死ぬ気になればなんでもできるってホントかも」

 2人はようやく本心から笑い合った。

「で、これからどうする?」

「そこのコンビニでお買い物、かな。どこに行くのか分かんないから、食料とか買い足しておこう。籠城するかもしれないから、下着の追加、もね」

「見張られてるよ」

「構わないし。買い物しないと、お店の人にも怪しまれるから。次の計画が立てられるまではここに停めさせて欲しいもの」

「気づいているなら、もう怪しんでるかも……」

「だったら、偽装しなくちゃね」

「え? どんな?」

「DV被害者――がいいかな。買い物はわたしが行ってくる。もしお店の人が来たら、夫に殴られて友達と逃げてきた――って口裏合わせて。でも警察沙汰にはしたくないから、しばらくここにいさせてください、って」

「ウソとばかりも言えないものね……」

「それと、朝になったらホームセンターとか、探す」

「なんで?」

 柚が何かに取り憑かれたように饒舌に語り始める。

「だって、武器って必要じゃない。フライパンとか、バールのようなもの、とか。スプレー缶って火炎放射器にもなるみたいだし。あ、火炎瓶も作りたいよね。強いお酒があればできるみたいだよ」

 梨沙子が目を丸くする。

「そんなこと……なんで知ってるの?」

「逃げるって決めた時から、そういう映画をいっぱい見たから。懐中電灯は必須だね。通信機も欲しいかな。バラバラになったら困るから。携帯だけじゃ不安だし、トランシーバーとか、きっとあるよね。合図を送れるように、レーザーポインターとかもあったらいいかも。お祓いに使えそうなものも欲しいかな。とりあえず塩はたっぷり。途中に大きな神社があったら、お札ももらおうね。悪霊の陣地に踏み込むなら、神様の助けがあった方がいいから」

 梨沙子が呆れたようにつぶやく。

「ユズ……楽しんでる?」

 柚は不意に真顔に戻った。

「あれ……? わたし、どうしちゃたんだろう……」そして、破顔する。「キレちゃった?」

 梨沙子も悲壮な笑顔を浮かべる。

「キレるよね、こんなの……。お買い物リスト、包丁も忘れないでね」


       ※


 時生は教祖に体を揺すられて意識を取り戻した。

 教祖の顔には明らかな不安が滲んでいる。

「よかった……このまま目を覚さないんじゃないかと……」

 時生は机に突っ伏した時に倒したタブレットを起こしながら、息を整える。

「立て続けの憑依は、ちょっときつかったですね……」

「なんでいきなりそんな無茶を⁉」

「戦術ですよ……。梨沙子たちは憑依はしばらくできないと油断していた。その上、梨沙子も弱気を見せていました。すぐに憑依できると知れば、気持ちを休める暇がなくなる……。一気にへし折ってしまおう――咄嗟にそう判断したんですけどね……」

 なのに2人は今、教団と戦う方法を検討している。タブレットの中の映像は鮮明さに欠けて表情は読み取れないが、イヤホンに届く口調は怒りに満ちている。

 投降を誘うはずが、逆効果になっていた。

「怒らせたみたいよ」

「ですね……梨沙子のことは分かってるつもりでしたが、柚とコンビになると予測が狂います。今後はもう少し冷静に行動します。実際、しばらく憑依は無理でしょうし……」

 梨沙子たちの作戦が固まりつつあった。

 碓氷峠に逃げ込もうとしている。

 時生がつぶやく。

「あそこはまずいな……」

「本当に悪霊がいるの?」

「父さんにとっても、近づけさせたくない場所のはずです」

「でも、あの子たちが行くなら……」

「追うしかないかもしれませんね。柚の協力者が暴けるまでは、主導権は向こうにありますから。本当に体を傷つけるとは思えないけど、それも断定できない。最悪、僕らも碓氷峠まで行かなければならないかもしれません」

「そんなことで協力者が見つかるの?」

「梨沙子が馬鹿なマネをしないように止める必要はあります。大事な体ですから」

「それは確かね……」

「行かずに済むように、父さんと検討します。しかし……今はしばらく休みたい。無理しすぎたみたいで……」

「分かった。今のことは私から父さんに伝えておきます。あなたは休みなさい」

「明け方には起こしてください。父さんの調査の結果も出ているでしょうから」

「ハッカーのこと?」

「そっちから協力者が見つかれば、こんな茶番はすぐに終わりにできますからね」

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