その3 表現の自由

 そのビルは、JR中野駅を降り、道路を挟んで直ぐ目の前にあった。

 熱波はまだ続いている。

 二人目の被害者が出た翌々日だ。

 午前9時に事務所を出てきた時、確かデジタルの温度計は34度を示していた。

 俺はポケットから、見事に皺と汗で形を完全に崩してしまったハンカチで、 もう一度額を拭い、横断歩道の前で足踏みをした。

 歩行者用信号が変わるのがやけに長く感じられる。

 

”株式会社ミリオン出版”と大きくプレートの出たドアを開けると、そこは流石に別天地だった。

 入ってすぐ横のエアコンの調整パネルを見ると、

”27℃”という表示になっている。

 それでも部屋の中は、まるで真夏のマンハッタンと、アラスカくらいの違いがあるように感じられた。

 前もって連絡しておいたので、副編集長と名乗る30代後半程の、痩せてあまり顔色の良くない髭面の男が俺を出迎えてくれた。

 というより、広いオフィスにはこの男の他には事務員らしき肥った小母さんがいるきりで、他に人影は見えなかったのだが。


『それで、何について伺いたいんですか?』

 副編集長・・・・名前は鈴木なにがしという・・・・は、俺の提示した認可証ライセンスとバッジを確認してから、

『始めにお断りしておきますが、ウチは確かに成人向けの漫画を主に出版してますけどね。別に法に触れることは何一つしていません』と、切り口上に言ってから、ボトルの中からガムを取り出して口の中で噛み始めた。

『それは分かってます。別に私はお宅の出版した雑誌にケチをつけに来た訳ではありません。都内で最近起こった連続殺人事件はご存知ですか?』

 俺の言葉に、彼は口を動かしながら『知りませんね。私どもには関係ありません』

 口を動かしながら、露骨に嫌な顔をして見せた。


 仕方がない。

 俺は手帳を取り出し、須田秀夫と大倉勤の事件について話して聞かせたが、

 鈴木氏は、

『それがどうしたんです?』とばかりにそっぽを向き、ガムをそのまま近くのごみ箱に吐き捨てた。

『こちらで発行されている漫画の単行本・・・・タイトルは”ハーブティーをもう一杯”作家名はRYOUさんですか・・・・が、どちらの被害者の手元にもあったものですからね』

『単なる偶然でしょ?』彼は相変わらずそっぽを向いたまま、ボトルから二個目のガムを取り出して口の中に放り込んだ。

『ウチの出してる本は、確かにそれほどメジャーではありませんが、それでも

 アダルトコミックとしては一定の読者はいます。部数も大体二万部くらいは常時売れてますよ。だから2人くらいの人が亡くなって、その人の手元にわが社のがあったとしても、いちいちそれに責任は持てませんな』


 ガムを噛みながら、編集長の鈴木氏は答えた。

『・・・・仮に関係があったとしても、表現の自由ってもんがあるんですよ。法に触れるような内容でもなければ、何処からも文句を言われる筋合いはありません。探偵さんもその位はご存知でしょう』

 彼は完全に上から目線で答えると、ガムをまた吐き捨てたが、今度はゴミ箱には着地せずに、カーペットの上に落ちた。

 舌打ちをし、ポケットを探り、取り出したティッシュで座ったまま、床のガムをこそぎ落とし、またゴミ箱に投げ込む。

 

 それから、彼は自分のデスクの上に乗っていた一冊の雑誌を俺の方に突き出し、

『探偵さんは、この雑誌をお読みになったことは?』

『いえ、ありません』

『だったら一度読んでみてください。ウチに聞き込みに来るなら、その位して欲しいもんですな。一冊差し上げますよ。RYOU先生の作品も載ってますから』

 彼は後ろの棚の上に積まれていた中から、最新号のアンソロジーですよと言って取り上げ、テーブルの上に置いた。

『ハーブティーをもう一杯』

 雑誌とは言ったが、どうやらアンソロジーらしい。

 俺はそいつを受取り、ポケットからがま口を取り出し、五百円玉二枚デスクの上に置く。

 鈴木氏は変な顔をして、

『差し上げますと言ったでしょう?』

『いや、私は乞食じゃありません。ただで他人からモノを貰うのはあまり好きじゃないんでね』

 俺はその雑誌を受取り、椅子から立ち上がった。


 流石にこの手の本を公共交通機関で開くのにはためらいがあったので、俺は

 必要もないのに文房具屋に寄り、安物のバッグを買い求め、それに突っ込んで事務所に持って帰り、ドアを閉めるとデスクに足を投げ出し、ひじ掛け椅子に思い切り背をもたせかけて開いた。


 頁をめくる度に、いい加減うんざりしてきた。

 断っておくが、俺は別に道徳家じゃない。

 初体験は二十歳になる前、つまり陸自に入ったばかりの頃に済ませた。

 それからも何度か風俗の御世話になったこともある。

 結婚はしていないが、恋だってしたこともある。

 当然ながら、その手の俗悪な書物なんざ、飽きる程読んできた。

(今でも読んでいる、と言った方が正解かもしれないな)

 

 だから、副編集長氏から渡された本だって、目くじらを立てているわけじゃない。

 詰まらないのだ。

 掲載されている話の三分の一は不倫の話。

 残りは同性愛(レズビアンもの)と、そして男女の露骨な恋愛を扱った作品だ。

 ストーリーもへちまもあったもんじゃない。

 ひたすら性描写が続く。

 登場人物は初めから”やる”ことしか考えていない。

 何度途中で投げ出そうと思ったかしれないが、しかし一応目を通しておくのも、仕事の一環。そう自分に言い聞かせながら、頁を繰っていった。

 肝心のRYOU先生の作品も、勿論載っていた。


 彼の作品は不倫物である。いや、それしかないと言った方が良いだろう。

 夫も子供(それももう高校生になる娘)のいる美貌の人妻が、自分の勤める会社に入ってきた若い新入社員と”デキてしまう”というものだ。

 内容は他の作品と変わらない。

 ただひたすら延々と”愛し合う”その場面が続くのだ。

 夫や娘、或いはその他の登場人物はおざなりに描かれているだけで、名前や性格すら分からない。

 しかし、その方がいいんだろう。

 それにしては、

”ハーブティーをもう一杯”だの”もう少し傍にいて”なんて、少女漫画もどきのタイトルが付けられているのには思わず吹き出したくなった。

 20頁ほどの読切で、結局最後まで甘い展開だけが続いた。


 俺はため息をつき、頁を閉じようとしたが、彼の作品の下の部分に、

”RYOU先生に励ましのメッセージを”とあり、彼のブログのアドレスが書かれてあった。

 そいつをメモに取ると、俺は雑誌を丸めてゴミ箱に放り込んだ。

 取っておいたって、何の役にも立ちやしない。

 


 

 


 


 


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