18

 ヘルマンニは全てを正確に把握していた。

 補佐官としては即座にハイジに次の指揮を取らせる必要がある。

 それも踏まえて……しかしヘルマンニはそうしなかった。

 目の前の親友にとって『はぐれ』は最大の禁忌タブーであり、唯一の拠り所であることがわかっていたからだ。


 思えば、出会った頃のハイジはどうしようもない子供ガキだった。

 すぐに怒りをあらわにし、感情をむき出しにした。

 かと思えば、今度はまるで路傍の石のように感情を失ってしまう。


 極端ピーキーすぎる。


 だからヘルマンニは親友ともの努めとして、ハイジを教育することにした。


 ――簡単に感情を表に出すな。

 ――特に「怒り」は簡単に発散せず、内に秘めてエネルギーに転換しろ。

 ――表に出して良い感情はもっとポジティブなものだけだ。


 教育がうまくいったかどうかは微妙だが、少なくともハイジが感情を面に出すことは少なくなった。

 そのかわりに何を考えているのかわからなくなった――自分以外にとっては――のが難点だが、それは別に構わないだろう。

 そんな不器用なハイジが唯一感情を顕にするのは『はぐれ』が関係する時だけだ。


 それを引き留めるなどということが、どうしてできようか。

 ハイジがどんな義務を負っていようと、友としてそれだけは絶対できない。

 ヘルマンニは言った。


「行けよ。ここは俺に任せろ」

「……すまん」


 ハイジはたった一言そう答えると、即座に敵陣へ向かって走り出した。

 巨体が嘘のような速度で走り去り、あっという間にヘルマンニの視界から消えてしまった。


 まるで『番犬の献身』の再来だな――と、ヘルマンニは思った。


 今のハイジなら、せいぜい多くの敵を打ち倒してくれるだろう。あれでは敵を滅ぼすまで止まるまい。で言えば、たった一人の『はぐれ』の命がこの戦争を終わらせることになる。


 そんな打算がなかったといえば嘘になる――しかしヘルマンニの行動原理は常に友情が一番であり、損得勘定は二番目に過ぎないのだ。


 ヘルマンニは目を閉じて手を合わせ、横たわる二人の気高き女性のため、精霊に冥福を祈った。


* * *


 反政府軍にも能力者はいる。精度は中央政府軍の『ラクーン』ヘルマンニには遠く及ばないものの、『遠見』が使えるものも一人ではない。

 反政府軍本陣では、この戦争のきっかけを作った貴族たちが将校として集まり、『遠見』を通して報告を受けていた。


『番犬』さえ倒せばこの戦争は反政府軍われわれの勝ちだ――これが敵勢力の共通認識だった。


 だというのに『番犬』はなかなか戦場に姿を現さなかった。


 ――さては臆したか。

 死ぬことを恐れ、本陣の奥深くにふんぞり帰っているような恥知らずなど恐るるに足らん――自分達のことを棚に上げ、将校たちは『番犬』を貶めるように罵った。


 聞けば『番犬』はすでに四十も半ばだという。四十と言えばもうロートルもロートル、戦士としてはすでに役に立たなくなっていることは想像に難くない。

 兵士の中には「『番犬』を相手に生き残った」と自慢するものも多く、その武勇が彼の英雄の力がいささかも失われてはいないと信仰される根拠となっていた。


 だが、そんなものは先入観から来る幻影に過ぎない。

 蓋を開ければ現実はこうだ。

 前線に立たなくなった戦士のためにヴァルハラに席が用意されると思うな――そんなことを思っていた連中は、戦場に躍り出た『番犬』を見て蒼白になった。


 悪鬼だ。

 あれは人間じゃない。

 歯を剥き出しにして咆哮し、大剣グレートソード一振りするだけで、手の届く兵全てが一瞬で肉塊と化した。止まる気配はなく、狼の魔物マーナガルムじみた速度で手当たり次第の兵を襤褸切れに変える。濃厚な死の気配を撒き散らし、そこら中に転がる兵たちの死体を一顧だにせず暴風雨のように暴れている。

 噂では常に冷静な男だという評判だったがとんでもない。まるで理性を失った獣の如く、あるいは気狂いのように叫びながら力任せの暴威を奮っている。


 悪鬼どころではない。

 あれではまるで天災ではないか。


「白旗を掲げよう!」


 誰ともなくそんな意見が挙がる。

 しかし、そんなことでアレが止まるのだろうか。

 事がこうなってしまえば、一人残らず駆除されない限り止まらないのではないか。


 まだギリギリ冷静さを残した将校が言った。


「対『番犬』については、事前に準備し尽くしていたではありませんか! 今こそあれを使うべきです!」

「だがあれは『黒山羊』に使う羽目になったが、結局役には立たなかったではないか!」

「それでも苦戦はしていた様子でした。索敵範囲から逃れるように動いていたことからも、波状攻撃が有効なのは確実です」

「だがあれは消耗が激しいぞ! 矢は足りるのか!?」


 それぞれが勝手な発言を繰り返しているが、今となっては悩むことではない。

 やらなければ全滅するだけだ。やっても殺されるだろうが、万が一うまく行けば、逃げることくらいは叶うやもしれぬ。


「なんでこんなことに……!」


 将校の一人が頭を抱える。


「すでに我々の敗戦は決まっていた! あとは少しでも良い条件を引き出す段階だったのに……!」

「しかし貴族に連なる者は例外なく連座だと通告されたではありませんか!」

「だが、あの男は交渉に応じると言った!」

「交渉!? 交渉だと!? 貴様狂ったか! 今まさにあの化け物が我々を殺しに来ているのだぞ!」

「すぐに逃げよう! 今ならまだ距離がある! 『遠見』の射程距離から逃れれば、捕らえられる恐れはない!」

「だがその後はどうする! 逃げたとていつまでも逃げ切れる訳がないだろう!」

「家族を見殺しにするつもりか!」

「命あっての物種だ! 御託は良いから対『番犬』作戦を決行しろ!」


* * *


ぇーーーーーーーッツ!」

「第二射隊、準備!」


 一縷の望みを込めて発射された矢は、しかし一発たりとも『番犬』を傷つけるに至らなかった。

 どういう理屈か、剣で矢を落とすまでもなく、大剣グレートソードの一振りで彼を襲う全ての矢がバラバラと軌道を変えて地面に落ちた。

 まるで攻撃をキャンセルするかのような異常な光景に戦士たちは恐れ慄いた。

 

「恐るな! 第二射隊、ぇーーーーーーーッツ!」


 波状攻撃はしかし効果を上げられない。

 化け物は牙を剥き出しにして射手のいる方角を睨みすると、ほとんど四つ這いに近い体制で爆発的に接敵する。


「散開ィーーーーッツ!」


 固まっていてはひとたまりもない。

 何人かは犠牲になるだろうが、散開して一斉掃射し続ければ、いつかは手が届くかもしれない。


「第三射隊、ぇーーーーーーーッツ!」


 だが、現場で見ればわかる。

 そんなものは無駄に決まっている。

 人間がどれだけ束になっても止められるわけがない。

 もしや、あれが伝説に聞くドラゴンなのではないか。


* * *


 なりふり構わなくなった将校たちの一部はすでに退避の準備を進めていた。

 殉死を選ぶ者も多いが、体は震えている。


 相手に交渉の席についてもらうために、どれほどの苦労があったと思っているのだ。一部の反乱分子による暴走が引き起こした事態に冷静ではいられない。だ。そもそもヴォリネッリ中央政府が新参貴族であるライヒ伯爵の提唱する「先進的進歩路線」などに乗せられなければ、こんなことにはならなかったのだ。

 我々はただ貴族の伝統を守りたかっただけだ。本質的には中央政府に楯突きたかったわけではないのだ。

 しかし中央政府はそれを受け入れなかった。

 新しい時代が来るのだと言う。

 そのためには、古い体制は不要だという。


 何を馬鹿なことを!

 これまでこの世界を支えてきた偉大なるシステムに介入しようなどと、傲慢にもほどがある!


 しかし、蓋を開けてみればこれだ。

 もはや反政府軍は息もしていない。


 どのみち故郷にいる家族や部下たちも連座なのだ。

 それならいっそ自分だけでも逃げた方が……


「どこに行くつもりだッツ!」


 この場にそぐわない、年若い少女のような高く鋭い声が響いた。

 見れば、ギラギラと瞳を輝かせた、黒髪・黒目の少女が剣を構えて立っていた。

 歯を剥き出し、髪を逆立てている。


「誰だッ!?」


 誰かが叫んだ瞬間、声の主は首だけになって床に転がっていた。

 一瞬で恐慌状態に陥った。


「『黒山羊』だァーーッ!!」


 正体が叫ばれたが、その瞬間「ドッ」と鈍い音が響き、不気味で不吉な黒い少女は姿を消した――その音が爆発的な踏み込みによって生み出したものだと気づいた時には、また数人の首が胴体と切り離されていた。


「「「ぎゃあああああああっ!!」」」


 遅れて悲鳴が上がる。

 そんな中『黒山羊』が再び姿を表す。

 司令室のたった一つの出入り口――宙に立ち、一人たりとも逃すまいと貴族たちを睥睨している。


「化け物!」


 誰かが叫んだ。

 再び姿を消したかと思うと、また幾つもの首が胴体が切り離される。

 勢い良く噴き出す血液の雨の中、どういった理屈か少女は少しも血を被っていない。

 それは、この世のことわりから外れた存在だった。


 時間にしてみればほんの短い間の出来事だった。

 本来なら名誉ある死を遂げていたはずの反政府軍の司令官たちは、そろって地面に転がっていた。

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