Act.5

 初夏の短い夜が、次第に明け始めた藍色の時刻。由は、ひとり、古びたアパートメントの階段を上がった。今しがた任務を終えたばかりの、《削除人デリータ》の一人の部屋を訪ねて。

「居るんだろう。開けてくれないか」

 扉を叩き、呼びかける。任務の後、《運搬人ポータ》には《削除人デリータ》を各自の家まで送るよう指示していた。《削除人デリータ》にも、それは周知している。それから時間は僅かしか経っていない。まだ、彼は、この自宅にいるはずだ。

 由が呼びかけた数秒後、扉の鍵が開く音がして、緩い癖のある短い金髪の青年が、顔をのぞかせた。歳は由より少し上だろうか。由より背は低いが、体格は良い。

「……《調整人コーディネータ》……」

 見開かれた青年の瞳が、驚愕から羞恥、そして決意へと、瞬時に移ろっていく。

 由の腕を、青年は掴んだ。素早く扉を開け、由を引き込み、鍵を掛ける。

「貴方のほうから来るなんて、どういうつもりですか」

 青年の手には、鈍く光るナイフがあった。

「今なら間に合うと、貴方に伝えるために来たんだ」

 凪いだ瞳で青年を見つめ、由は静かに言った。

「先程の任務は無事に成功している。保護対象の安全も確保できた。貴方が内通者だったことを知っているのは、まだ、俺だけだから」

 由の言葉に、青年の瞳が揺れる。だが――

「探す手間が省けたな」

 部屋の奥から、別の声が聞こえた。青年の肩が、びくりと跳ねる。

「……っ、ごめんなさいっ……《調整人コーディネータ》……!」

 腕を捻り上げられ、由の視界が反転する。床に組み伏せられ、両腕を後ろで拘束された。

 青年の後ろに、年かさの男が立つ。第九機関の人間ではない。

「指揮官のくせに、随分と不用意だなぁ、兄ちゃん。部下の良心を信じすぎるのも、愚かってもんだぜ?」

 由を見下ろして、男は、にやりと、目尻のしわを深めた。

「この程度の若造が司令塔の一人だなんて、粛清を司る機関が、聞いて呆れるな。敵地に、独りで、のこのこやって来る、間抜けな奴だ」

 立たせろ、と男は青年に命じる。青年はうつむき、躊躇ためらいがちに由の腕を引き上げた。努めて苦痛を与えないように、気を配った手つきだった。

「車を回すように連絡した。時間がない。さっさと連れて行くぞ」

 男に続いて、部屋を出る。車に乗せられ、連れられた先は、近くの繁華街の外れ。潰れた地下のクラブだった。扉は分厚く、窓もない。外から見えず、中の音も漏れない地下室は、尋問するには最適の場所だ。

 男は青年に、由を椅子に拘束させると、胸を反らして、由を見下ろした。

「手短に訊く。あの女の居場所、あるいは文書の隠し場所はどこだ。言え」

 男は見るからに焦っていた。女性を送り届けた《運搬人ポータ》には、すぐに身を隠すよう指示してあった。今の彼にとって、由は、唯一、手の届いた手掛かりだ。

「その前に、彼に確認しておきたい」

 由は、落ち着き払った声で言った。

「内通者は、貴方ひとりなのか?」

「……はい」

 青年が頷く。答えるんじゃねぇと、男は怒鳴った。

「ちっ……結束だけは固い組織なんだな。お前らは……金をちらつかせても、脅しても、なびく奴がいねぇ。こいつを引き込むのだって、苦労したんだ。それなのに、このざまとは……」

「そう。貴方は、どうして?」

 男の言葉を無視して、由は青年に問いかける。

 青年の眉根が、ぎゅっとゆがんで、寄せられた。

「本当に……申し訳ありません……魔が差したとしか……今は心の底から後悔しているんです……《調整人コーディネータ》……どうか、助け――」

「うるせぇよ」

 銃声が響き、硝煙と血の臭いが広がる。青年が悲鳴を上げ、足を押さえて倒れた。

 由の顔から、すっと表情が消える。男の片眉が上がった。

「そういえば、聞いたぜ? お前……これまでに一人も部下を死なせたことがない指揮官なんだってな。それじゃあ、こっちのほうが応えるか?」

 青年の髪を掴み、銃口を突きつける。

「言え。文書は、どこにある?」

 勝ち誇ったように笑う男の瞳を、由は静かに見つめた。男の笑みが、凍りつく。由のは、硝子のように、何の感情も宿していなかった。憐憫も、侮蔑も、諦念も、突き抜ければ温度を失うのかもしれない。人間を見るまなざしではなかった。

「っ……お前……っ!」

 男は腕を振り上げる。銃身で、由を殴りつけるために。

 だが、その手が由に届くことはなかった。響き渡る銃声。振り上げた格好のまま、男の右腕は血飛沫を上げ、手首から先が吹き飛んだ。

 黒いスーツ姿の青年が、由の前に立つ。

「もう〝お願い〟は十分、きいたよ。兄さん」

 ここからは、《護衛人ボディガード》の仕事をさせてもらう。

 弟が、男に一歩、距離を詰める。上擦った声で、男は喚いた。

「良いのか⁉ 俺を殺したら……っ、俺が所属している組織が何なのか、聞き出せなくなるぞ……⁉」

「良いよ。別に」

 弟は、さらりと言った。

「あんたの情報くらい、そこに転がっている内通者にも聞くし、こっちで調べれば、すぐに分かるだろう。それよりも、あんたという人間を、今すぐこの世界から消し去ることのほうが有益だ」

 トリガを引く。なおも叫ぼうとした男は、瞬時に永遠に沈黙した。

「兄さん」

 由に駆け寄り、拘束を解く。そして、ちらりと、内通者の青年に視線を遣った。仄暗い怒りをたたえた瞳で。

「永」

 なだめるように、由は弟に声を掛ける。

「彼の止血をするから、手伝ってくれ」

 手早く処置を施して、由は弟と二人で青年を運び、《運搬人ポータ》の車に乗せた。そのまま機関に協力している医師のもとへ送り届けた頃には、夜はすっかり明けていた。

 いくつかのメディアには、既に下準備を施してある。まもなく配られる朝刊には、今しがた手にした一大スクープが掲載されているだろう。

 ただ、内通者の件に関しては、〝上〟への報告は避けられない。由は小さく嘆息する。

「……兄さん」

 帰路についた車の中で、弟が、由を、じっとりと睨む。

「今回みたいな〝お願い〟は、今回限りにしてくれよ」

 俺に、兄さんがさらわれるのを見過ごせなんて。

「死ぬことはないと思うって、言っただろう」

 文書の在処ありかを聞き出せない限り、相手は由を迂闊うかつに殺せないのだから。

「だからって……っ! 危険すぎる!」

 泣きそうな顔で、弟は怒っていた。ごめん、と由は眉尻を下げて微笑む。

「ありがとう、永」

「……本当に、どこも、怪我してない?」

「してないよ」

「…………じゃあ、良い」

 ぷいと窓の外に顔を向けて、弟は鼻を鳴らした。小さく笑みを置いて、由も朝陽に目を細める。

 もし、あのとき……

 由の脳裏に、先刻の光景が蘇る。

 銃を突きつけられたのが、あの青年ではなく、弟だったら……

 自分は、冷静でいられただろうか。

 《調整人コーディネータ》として、振舞うことができただろうか。

「……俺が《調整人コーディネータ》でいられるのは、お前が《護衛人ボディガード》でいてくれるからかもしれないな……」

「え……?」

 あえかな由の呟きに、弟が振り返る。

「何か言った? 兄さん」

「ううん。何でもないよ」

 微笑んで、首を横に振る。

 胸の奥が、鈍く疼いた。


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