Act.3

 短い夏が終わり、束の間の秋が訪れた。陽射しは柔らかな金色で、西風は涼しく乾いている。

 広い書斎に射し込む朝陽を、青年が、おもむろに緞帳を下ろして遮った。歳は二十代半ばくらいだろうか。すらりとした体躯に、仕立ての良いアッシュグレイのスーツ。柔らかな銀の髪が、白い首筋をさらりと流れる。

「クロセ」

 高い本棚を背に、青年が由に向き直る。涼やかな切れ長の目。青みがかった淡い灰色の瞳は、怜悧な光を宿している。

「二年間、僕の補佐を、よく務めてくれたね」

 ありがとう、おつかれさま。そう言って、青年は由に微笑みかけた。

「改めて、昇格おめでとう。今日から、君も、僕と同じ《調整人コーディネータ》だ」

「……ありがとうございます」

 心からの笑顔は、どうしても描けなかった。そんな由に、青年は、微かに苦笑の色を浮かべる。

「怖いかい?」

 優しく肯定する、深く穏やかな声。由は唇を引き結び、答えを躊躇ためらった。

 青年のまなざしに、どこか懐かしむような色が宿る。

「……《調整人コーディネータ》だからといってね、皆が皆、特別に秀でた能力を持っているとは限らないんだよ」

 軽く首を傾け、由と目線を合わせる。青年の銀の髪が、白い頬に、さらりと淡い影を落とす。

「そういう意味では、第九機関は、たいしたことのない組織とも言えるね」

「……《調整人コーディネータ》……」

「シラノで良いよ。君は、もう僕の補佐ではないのだから」

 そう言って、青年――シラノは、片目をつむる。

「僕が、元々は《削除人デリータ》だったのは、知っているよね?」

 ハニートラップ専門の男娼だったことも。

「……はい」

 暗殺を主な任務とする《削除人デリータ》だが、必ずしも外側から強行するだけではない。内側に侵入しておびき出す作戦を取ることもある。

「そう。僕は、人の心に入り込むのが、ほんの少しだけ上手だったんだ」

 《調整人コーディネータ》は、時に身分を偽り、大勢の人間と渡り合うこともある。交渉の場におもむくことも珍しくない。実際、由がシラノの下で《調整人コーディネータ》の仕事を学んでいたこの二年、シラノが〝上〟に命じられる任務は、その手のものが多かった。

 シラノは続ける。由の背中を、そっと押すように。

「君も、僕も、そして他の《調整人コーディネータ》たちの多くも……世界を変えられるような、特別な能力があるわけじゃない。特別に秀でた才能を持って生まれたわけでもない。ただ、死なないために……世界に殺されないために、ほんの少しだけ人よりできることを武器にした。それは例えば、ほんの少し、弁が立ったり、ほんの少し、計画の立案に長けていたり、ほんの少し、演技が得意だったりする……そういう〝ほんの少し〟を寄せ集めて、少しでも大きな力にしようとしている。何も特別な組織ではないんだよ……第九機関は」

 シラノは微笑んだ。ほのかに陰の滲んだ笑みだった。

「エリート、カリスマ、天才……僕たちが相対するのは、そういう人間たちだろう。でも……闘わなければ、僕たちは世界に殺される」

 シラノの言葉の最後は、扉をノックする音に重なった。シラノの《護衛人ボディガード》が、由を送迎する《運搬人ポータ》が到着したことを告げる。今日までシラノの邸の一部屋で暮らしていた由だったが、これから《調整人コーディネータ》として、由自身に用意された邸へと向かうことになっている。――《護衛人ボディガード》と共に。

「時間だね」

 シラノが促す。由は唇を引き結び、頷いた。右肩で束ねた髪が、さらりと流れる。最初は着慣れなかった黒のスリーピース・スーツは、この二年の間に、すっかり身に馴染んでいた。

「……シラノさん」

 扉に手を掛けたところで、由は最後に、シラノに尋ねた。

「……《調整人コーディネータ》が、《護衛人ボディガード》を守る方法は、ひとつしかないのでしょうか……」

 震えないように、努めて大人びて抑えた、十七歳の声だった。シラノは、そっと目を伏せる。

「……僕の答えも、君と同じだよ」


「《調整人コーディネータ》が、《護衛人ボディガード》を守れるのは、一度きり」


「《調整人コーディネータ》が、自らの命を投げ出すときだ」


 でも……と、そこでシラノは視線を上げ、由を見つめた。

「《調整人コーディネータ》が死ぬということは、ほぼ確実に、《護衛人ボディガード》の死も意味する。だから、《調整人コーディネータ》は、まず第一に、自分が生き残ることを考えなくてはいけない。君が、《護衛人ボディガード》を……弟を、守りたいと思うのなら、君は、絶対に、死んではならないんだ」

 その言葉は、シラノからの餞別だった。



 邸の玄関を出て、アプローチに下りる。庭を囲む鉄柵の門が開き、黒いスーツ姿の少年が入ってきた。すらりと伸びた手足。華奢だけれど、かっしりとした、背の高い体躯。でも、まだ、由より小柄だ。秋風に揺れる真直ぐな短い黒髪と、白い頬のコントラストが、朝の光の中で眩しい。

「……永……」

 二年振りに呼ぶ、弟の名前だった。

「兄さん!」

 駆けてくる。ぱっと華やいだ笑顔で、何の陰もない瞳で由を見つめて。

 嬉しくてたまらないのだと分かる。伝わってくる。

 自分だって、嬉しい。無事に再会することができた。離れていた二年のあいだ、生き延びていてくれた。嬉しい。うれしいよ。なのに……どうして自分は、上手く微笑むことができないのだろう。

 飛びつく勢いで、弟は由を抱きしめた。そろそろと、由も弟の背に腕を回して、抱きとめる。

「……会いたかった……兄さん……」

「……俺も、会いたかったよ」

 その言葉は嘘じゃない。再会を喜ぶ心も偽りじゃない。

 なのに……どうして、こんなにも、かなしいのだろう。

 なぁ、永、お前は、分かっているのか?

 兄の《護衛人ボディガード》になるということが、どういうことなのか。

 兄を守るということが、何を意味するのか。

「……永……」


「……守れなくて、ごめん……永……」


 ひび割れ剥がれ落ちた心の破片は、喉の奥で声の翼を散らしていく。

「兄さん?」

 聞き返した弟に、緩く首を横に振る。

 抱きしめている弟に、今の自分の顔は見えないだろう。見られなくて良かった。どうか、今は、見ないで。笑顔とは程遠い表情しか、描くことができずにいるから。

「……やっと、追いついたよ、兄さん」

 ぎゅっと、腕に力を込めて、弟は言った。

「これからは、俺が、兄さんを守るから……何があっても、誰が相手でも、絶対に死なせないから……生かしてみせるから……」


「これからは、ずっと一緒だよ、兄さん」


 兄さん――その言葉が、由の胸に突き刺さる。やめてくれと、叫びたかった。

 守るために、何をする?

 死なせないために、生かすために。

 俺が生きれば生きるほど、お前は、その手で――


 弟に人を殺させて生きる兄なんて、もう兄とは呼べないよ、永。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る