Coffin The Memory

ソラノリル

Act.1-1

 短い夏が終われば、季節は急速に冬へと舵を切る。旧市街の北側に位置するこの街は、この国で最も早く冬を迎える街のひとつだ。植民地時代に建設され、幾度となく内戦の炎に見舞われながらも現存に至った歴史的建造物が多く建ち並び、その景観の美しさから観光に訪れる人々は多く、駅の周辺は手厚く維持され賑わっているが、少し外れれば風化の進んだスラムが広がる。

 スモッグに覆われ砂色にくすんだ薄曇りの夕空。陽が傾くにつれて冷たさを増した北風に、ほつれたシャツの襟元を片手で押さえながら、少年が一人、細い路地の一角を歩いていた。年の頃は、まだ十歳にも満たないだろう。小柄で華奢な体に、さらさらと肩にかかる真直ぐな黒髪。ぼろをまとって薄汚れていてもなお目を引く白い肌と、凪いだ夜の湖のように静かな光を湛えた黒い瞳が印象的だ。小さな靴で、慣れた足取りで、空き缶や紙くずの散乱する街路を進んでいく。

「あら、ユキトくん。いらっしゃい」

 少年が訪れたのは、錆びつき傾いだ看板を掲げた小さな酒場だった。恰幅の良い店主の女性が、ジョッキを両手に笑顔で少年を迎える。

「おう! 由! こっちだ!」

 奥のテーブルで、無精髭を生やした男たちが、手招きして少年を迎える。

 由と呼ばれた少年は、ぺこりと小さくお辞儀をして、彼らの勧める席に向かった。

「良いところに来てくれた! 頼む! 由! 助けてくれ!」

 テーブルについていた男のひとりが、手持ちのトランプカードを握りしめたまま、両手を祈りの仕草で少年に掲げる。上半身が裸だった。着ていたシャツも賭け金の代わりにしてしまったのだろう。テーブルの中央には、皺だらけの紙幣とカードが入り乱れ、勝負が終盤に差し掛かっていることを示している。

「せめてシャツだけでも取り返さねぇと……家に帰ったら嫁に半殺しにされちまう」

 そんな台詞とは裏腹に、男の表情には危機感も悲壮感もない。身包みを剥がれる前に踏み止まれなかったのかという正論は無用だ。彼らは常に、自棄の只中にいる。自虐ともいえる賭博の浪費で、日々の生活の辛さを一時、紛らわせているのだ。

 少年の口もとが、ふっと微笑に綻ぶ。

「事情は分かりました。いつも通り、掛け金の半額で請け負っても?」

「ああ! 頼む!」

「おいおい、いくらお前でも、ここから勝敗をひっくり返すのは無理だろう、由」

「そうでもないですよ。まだ引いていないカードは残っていますから」

 そう言って、少年は、テーブルの上のカードを一瞥し、勝負の代理を依頼した男から、手持ちのカードを受け取った。

「お前の番だ。やれるもんなら、やってみな」

「はい。では……レイズします、二十」

「はぁ⁉」

 勝負相手の男が、咥えていた煙草を取り落とす。隣で依頼人の男も、目を見開いて少年を振り返った。

「まさか、やけっぱちになったわけじゃないよな……?」

「正気かよ……?」

 テーブルを囲む大人たちが固唾を呑む。少年は穏やかに微笑んだまま、テーブルに伏せられたカードから、そっと一枚、取り上げて、手持ちのカードを交換した。

「面白れぇじゃねぇか。コールだ」

 テーブルの向かいで、男が笑う。そのまま互いにコールを続け、残りのカードを全て取り上げた。

「よし、坊主、一騎打ちだ」

 ショーダウン。少年のカードを見た男の顔が凍りつく。周囲の大人たちのあいだにも、どよめきが上がった。

「ギリギリじゃねぇか……!」

 少年の手札の役は、相手の男のそれと同じ。しかし、その役を構成するカードの強さは、少年のほうが一枚、上回っている。

「すげぇ……どうやったんだ?」

「偶然か?」

「いや、由に限って、それはないだろう」

 大人たちが、口々にささやく。

「あぁ、くそ、負けた」

 勝負相手の男が、負けたカードを指先で弾く。

「しかし、お前、あそこでレイズなんて……どこに勝算があったんだ? 聞かせてくれよ」

 新しい煙草に火をつけ、男が尋ねる。テーブルに散らばったカードと紙幣を整理しながら、少年は表情と同じ穏やかな口調で回答する。

「勝負が終盤だったので、逆に計算は楽でした。既にオープンになっていたカードは三十二枚。テーブルの上に散らばっていたので、全て確認することができました。手持ちのカードは五枚ずつ。そこから、貴方の手札と、伏せられた残りのカードのマークと番号の候補が絞られます。その中に、スペードのエースと、ハートのクイーンがありました。俺の手札は、この通り、そのどちらかを引けば大きな勝機となります。もちろん、引けなかった場合の戦術も考えていましたが、まずは、その二枚のカードが、伏せられたカードの中にあるのか、貴方の手札にあるのかを、知りたかったんです」

「だから、レイズしたのか」

「はい。その二枚のカードのどちらか、あるいは両方が貴方の手札にあるのなら、貴方は必ずレイズを返したでしょう。そういう手札でしたから」

「なるほど。加えて、俺がレイズしなかったことで、お前は俺の手札の予想を更に確実なものにすることができたってわけだ」

 男は頭を掻き、煙草の先を噛み潰した。

「ただ、最終的にそのカードを引けるかどうかは、運でした。限りなく確率を上げても、百パーセントでない限り、引けずに終わる可能性もありました」

 ラッキーでしたと、少年は悪戯っぽく微笑み、揃えたカードを、テーブルの中央に丁寧に置いた。

「仕方ねぇ……持っていけ」

 苦笑しながら、席を立った男はテーブルの紙幣を半分、少年に差し出す。

「ありがとな! 由! 助かったぜ!」

 返却されたシャツに袖を通した男が、少年の右手を両手で包んで握手する。

「お役に立てて良かったです」

 にこりと笑顔を返し、少年は紙幣をポケットに収めると、丁寧に挨拶をして店を出ていった。

「……しかし、なぁ……」

「普通、できるか……?」

 盛り上がっていた熱が落ち着き、冷静さを取り戻した大人たちが呟く。

「テーブルに散らばっている三十枚以上のカードを一瞬、見ただけで、そこにない残りのカードのマークと数字を絞り込めるなんて……」

「あぁ、それに……」

 ちらりと、僅かに恐れに似た色を滲ませて、大人の一人が、少年の立ち去った扉の先を見つめる。

「あの、ギリギリの勝ち方……全くもって、いつも通りだった……」

「嘘だろ……狙って、あんな勝ち方、できるもんなのか……?」

「さっき話したことが全部じゃねぇんだろうよ。まったく……あいつ、いったい、どんな頭をしてやがるんだか……」



 由が店を出ると、辺りは早くも夜が満ち始めていた。用水路の縁に沿って、様々な露店が軒を連ねている。先刻稼いだばかりの紙幣で、由はパンを二切れ買った。両手で大切に抱えて、路地の裏へと駆けていく。

「兄さん! おかえりなさい!」

 いくつかの角を曲がった先、廃屋の陰から、幼い笑顔が由を迎えた。由と同じ白い肌と黒い瞳。真直ぐな黒髪は、由の手によって短く整えられている。

「ただいま、ハルカ

 飛びつく小さな体を抱きとめる。紙袋に入ったパンの匂いが、ふわりと立つ。

「また勝ったんだね、さすが兄さん」

「今日は途中から請け負っただけだけれどね」

 でもこうして今日のパンが買えて良かった。

 ふたりが住処すみかにしている廃屋は、元は誰かの住居だったようだが、今は見る影もなく荒れ果てている。ふたりが訪れたときには既に、金目のものはもちろん、食器や衣類、家具、書籍に至るまで、少しでも換金できそうなものは全て盗り尽くされ、がらんどうだった。煉瓦れんが造りの壁は所々崩れ、天井も穴だらけではあったけれど、下水道や路上で眠るよりずっと安全だった。身を寄せ合えば、寒さも凌げる。

「兄さん、見て」

 永が、ポケットの中から、一枚の銅貨を取り出して、てのひらに乗せて見せた。

「駅でね、ホテルまでの荷物運びの仕事に、俺を選んでくれた人がいたんだ。……ひとりだけ……だけど」

 駅には昼間、この街に住まう多くの子供たちが集まる。観光客が改札を出ると、一斉に群がり、荷物運びや道案内の仕事を強請ねだるのだ。邪険にされることも多いが、時々、気に入った子供を選んで仕事を与え、手間賃を弾んでくれる客もいる。

 由を見上げる永の笑顔は、曇りのない喜びのそれではなかった。銅貨一枚では、一切れのパンも買えないことを、永は幼いながらも知っているのだ。

「ありがとう、永」

 由は、俯きかけた永の頭を、ぽんと撫でた。

「貯金にしよう。永が稼いでくれた大事なお金だ」

 そう言って、銅貨ごと、永の手を両手で包む。永は顔を上げ、曇りを拭った笑顔で頷いた。

「さぁ、重い荷物を運んで、お腹がすいただろう。しっかり食べよう」

「うん。ありがとう、兄さん。いただきます」

 夢中でパンを頬張る永に、由も微笑んで、自分のパンを口に運んだ。


――銅貨一枚では、一切れのパンも買えない。


 それは、賭博で稼ぐ紙幣も同じだ。この街の大人たちが、日々の有り金を全て賭けたとしても、ほんの数日、空腹を先延ばしにできるだけ。まるで大気のように、あるいは土壌のように、この街は、絶対的な貧しさに覆われている。

 街灯の光は、ここには届かない。ただ月明かりだけが、平等に街を照らしている。割れた窓から射し込む青白い月の光の下で、拾った毛布にふたりで包まって、夜をまたひとつ越えていく。


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