第10話 研究棟に咲く百合

 彩理が研究棟に入り、廊下の、夢の研究室へ向かって足を運ばせた時だった。


 上ってきた場所とは反対側の階段方面に、長い金髪の女子と思われる人物を見つけた。


 雰囲気だけを見れば、ブラウスにプリーツスカートのふわりとした服装を身に纏っている。


 元々研究棟はあまり学生の出入りは多くなく、理系の教師や大学院生、研究者が利用することが殆どだ。


 その為、彩理以外で同年代の女子が大人ばかりの研究棟にいることは非常に珍しい。


 ましてや、ここに金髪女子など幻かと思えるほどのアンバランスな光景だと、彩理は勝手な偏見で考えていた。


「すみませーん」


 金髪女子に彩理は話しかけようか、かけまいか、躊躇っていると、彼女の方からこちらへ早歩きで近づいてくるではないか。


 廊下から射す光が、彼女の持つ金色の髪を反射させ、ゆらゆらとなびかせながら彩理の方向へやってくる姿は、それはもう「天使」の二文字しか思い浮かばないほど可憐な出で立ちだった。


 彩理の瞳には、ただただ目の前から近づいてくる天使に、うっとりと視界を奪われてしまった。


 青い血管が見えてしまいそうなほど肌が白く、加えて瞳は海のように青い。


 顔立ちの整った丸顔に、薄い桃色の唇――たったそれだけでも周囲への注意は完全に削がれ、注目は彼女にしか向かなくなってしまった。


「ちょっと、大丈夫ですかぁ?」


 恍惚とした表情の彩理に反応がなく、彩理よりやや背が低い金髪の女子は彩理の面前で右手を振ってなんとか意識を取り戻そうとしていた。


「――ん? え? あ! はわわわわわ!」


 視界に動く手が侵入したことにようやく気がついた彩理は、心臓が跳ね飛び、同時に復活した思考は大慌てで何を答えたらいいのかパニックに陥っていた。


 そのまま重心が彩理の後ろへ移動し、ダイナミックに尻餅を打った。


「お、落ち着いてください。何も気にしていませんから」


 彼女は苦笑しつつも、彩理の身を起こそうと手を差し伸べた。


「ご、ごめんなさい! あまりにも綺麗で、つい見とれちゃっていました・・・」


 彼女の手を掴み、彩理は身を起こして、パンパンと脚の埃を払った。


「そんな綺麗に見えましたか? それはそれは目の保養になりましたね」


 失礼だという反応はなく、むしろ嬉しそうに女子は笑っている。

「いやぁー ははは」


 苦笑しつつ、右手で頭を掻いて赤面する彩理だった。


 そういえば、と思い出したように彼女が口を開いた。


「芦川夢先生のオフィスはこの辺ですか?研究室の場所が変わったそうなので久々に挨拶しに来ました」


 偶然にも夢へ会いに来た人物だったようだ。


「あ、研究室は一つ上の階で、先生は講堂の方で授業しています」


 夢は授業を行う為、この日は頻繁にキャンパスを所狭しと動き回っている。


 状況を理解した彼女は踵を返すことを決めたようだった。


「なんと! ではでは急いで講堂へ行ってまいります。あたしはジルです。あなたは?」


 明るくはつらつとした態度で、自らをジルと名乗った金髪の女子は、彩理に名前を問いかけた。


「に、新島彩理です」


 唐突に名前を聞かれ、一杯一杯になりながら、彩理は名前を答えた。


「ふふふ。彩理さんって言うのかぁ・・・」


 彩理の名前を知ったジルはニヤニヤと口の端を釣り上げ、彩理へ向かって顔を近づけていた。


 その表情は何かイタズラを仕掛けて来るかのような、幼い子どもにも似た表情を示しながら、額と額が衝突するギリギリまで顔が近づいていた。


「えええ!? ち、ちょっと待って――」


 制止を呼びかけた彩理の言葉が止まる。


 このまま額がぶつかるのかと思っていた彩理であったが、ジルの狙いは別の方向にあったことを、目の前の状況を見て判断した。


 ジルは右手で彩理の左頬をそっと触れていた。


 例に漏れず、透き通るほどにジルの手は白く、少しだけ青く模様のように血管が浮き出ていいた。


 頬に触れた手は氷のようにとても冷たく、彩理の顔がなおさら熱を帯びているという感覚が英便になるほどだ。


 彩理の心臓は高速で鼓動を刻み続け、ついには止まりそうになるほど、緊張が止まらなくなる。


 頬を染める橙色は更に濃さを増し、ついには火山のように真っ赤になっているようだった。


 そんな余裕のない表情を笑顔で見ながら、ジルはまた口を開いた。


「うふふっ。彩理さんの黒い髪に、オレンジ色の肌――」

 

 目を見開き、驚きを隠せない表情をする彩理は、声を出すことができず、ただジルの恍惚と満面の笑みに溢れた表情を眺めていた。

 

 陽光射す光が強くなり、ジルの金髪が宝石のように煌めいていた。


「褒めてもらえたのは嬉しいです。でも、彩理さんはもっと素敵です。あなたの黒い髪は、あたしにないものですから」


 自然と頬から、ゆっくりと手が離れる。


 あたかも長く引き伸ばされたかのように、それは一瞬の出来事だったが、元の日常に戻り、ジルが改めて話しかけた。


「彩理さん、ありがとうございます。ではでは、またお会いしましょ!」


 ジルは彩理に触れた右手を振り、研究棟を出るため走り出した。


「は、はい……」


 呆然と立ち尽くす彩理はただ、力なく右手を上げて降ることだけだった。


 彩理の体を飲み込む、海の大波のように身動きの決定権を奪われてしまった。


 あまりにも美しかった謎の天使は、またどこかで会えればいい、と彩理の胸には淡い期待だけを残した。


 そして、研究室に戻ることに気付いた彩理は、顔を思い切り左右に振り、気分を切り替えて、創のいる研究室へ戻った。

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