第39話

「……遅いな」

 もう何度目になる呟きかわからない。

 時計で時間を確認する間隔が、どんどん短くなっていた。

 すでに夕飯とは言い難い時間になっている。

 いつもならもう入浴も済ませ、あとは寝るだけという頃合いだ。

 だが今日はまだ、食事も入浴もしていない。

 冷蔵庫の中にあったもので二人分の夕飯は用意したが、手つかずのままだ。

 俺の分も、彼女の分も。

「残業……っていうのは違うか」

 思わずそんなことを考えてしまうくらい、今日は帰りが遅い。

 夕方に出かけていることはあっても、二時間もすれば帰ってきていた。

 こんなに長い時間外出しているのは、初めてのことだ。

 日付が変わってからこっそり外出することもあるが、それでも三時間程度で帰ってくる。

 俺が知らないだけで、昼間はいつもこれくらいなのかもしれないけど。

 だとしても俺にとっては、非常に落ち着かない時間だった。

「別に待つ必要はないんだけどな……」

 こういうときはいつも、気にせず先に食べていてくださいと言われる。

 具体的に帰ってくる時間がわからないのだから、彼女がそう言うのも当然だ。

 それは俺だってわかっている。

 でもなぜか、待つことを選択してしまう。

 自分でもどうしてなのか、上手く言葉にできないが。

「ホント、最近はいつもこうだな」

 ソファにぐったりと身を預け、目を閉じる。

 我ながら呆れてしまうのだが、最近はもう、いつも彼女のことばかり考えている。

 目の前にいるときは安心していられる。

 だけど仕事中や、こうして彼女が不在のときは不安に押しつぶされそうになる。

 でも、仕方がないと思う。

 だって彼女が戦いに行くたび、いつも傷だらけになって帰ってくるのだから。

 気にせず普通にしていて欲しいと、毎回のように言われているが、それができたら悩んだりしない。

 困ったように笑う彼女の顔が、瞼の裏に浮かんでいた。

「家に帰るのは、楽しかったはずなんだけどな」

 少なくとも彼女と出会ってしばらくの間はそうだった。

 それがいつの間にか、不安と逆転してしまって……。

 仕事が終わって帰る際にスマホで連絡をするとき、緊張してしまう。

 そして玄関を開けるのが、最近では怖いくらいだった。

 たとえスマホで連絡が取れていたとしても、帰宅するまでの時間で彼女が出かけているかもしれないから。

 部屋に彼女がいるのかいないのか。

 たったそれだけのことが、怖くて堪らない。

 彼女の『お帰りなさい』が聞こえてくるのが、待ち遠しいほどで。

「変な話だな……」

 こんなに誰かのことを考えるのは、もしかしたら初めてかもしれない。

 咲奈と付き合っているときですら、ここまでたった一人のことを考えていたことはなかった気がする。

 別に咲奈が特別じゃなかったわけじゃない。

 間違いなく好きだったし、大切にしたいと思っていた。

 上手くできていたとは言えないけど……。

 でも彼女は……花芳と名乗る正義の味方は、誰よりも特別だ。

 その存在も、生き方も。

「さすがにそろそろ決めないとな」

 まだ週の半ばで、明日も当然仕事がある。

 いい加減に食事と入浴を済ませ、寝る準備をするべきだ。

 そうわかっているのに、腰は重いままだった。

「…………ん?」

 まさにそのときだった。

 どこからか、微かに物音が聞こえてきたのは。

 いや、物音じゃない。

 たぶん、くしゃみ。

 でも部屋の中じゃない。

 少し籠ったような感じで、たとえばそう、ガラスの窓越しにでも聞こえたような感じだ。

「…………まさか、な」

 さすがにそれはないだろうと思いつつも、期待している自分がいた。

 立ち上がった俺はベランダに続く窓の前に立ち、カーテンを一気に開く。

 するとそこには、ある意味想像通りの光景があった。

「……なにやってんだ、そんなとこで」

 窓を開けた俺は、複雑に絡み合う感情に頬を引きつらせる。

「これにはその、事情があって」

 その原因たる人物――花芳は悪戯がバレた子供のように、気まずそうな顔で目を逸らす。

 彼女の姿は、いつものようにボロボロだ。

 また戦っていたのだろう。

 ただ、いつもよりさらにボロボロになっている気もする。

 生々しい血の跡が、頭部から頬へと続いていた。

 でもその血はすでに渇き、心なしか彼女の唇も青ざめている。

 さっき聞こえてきた音は、おそらく彼女のくしゃみだろう。

「ずっとそこにいたのか?」

「……ずっとってわけじゃないです」

「ならいつからだ?」

「……黙秘で」

 こいつ……。

 不思議と怒りすら湧いてきそうになるが、グッと堪える。

「なんでベランダに……鍵、開いてたぞ」

 いや、そもそも玄関から合鍵で入ってくればいいだけの話だ。

 あえてベランダに潜んでいる理由は、微塵もない。

 が、彼女には理由があるようで、なぜか俺を批難するように目を細める。

「いつまでもそこにいるからじゃないですか」

「いたらダメなのかよ」

「ダメ……じゃないですけど、せめてお風呂に入るか、さっさと眠って欲しかったです」

「お前な、俺がどんな気持ちで待ってたと――」

「それは私もです。仕事があるって言うのに……私のことなんて気にせず、さっさとご飯食べてお風呂入って寝ちゃってくれれば良かったんです」

「だからそれは……あぁもう、いい。とにかく入れ」

 言いたいことは山ほどあるが、ベランダで言い合っても仕方がない。

 ひとまず問題を棚上げし、その声色とはチグハグなくらい酷い姿の彼女を招き入れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る